書評 厳選500 ジャズ喫茶の名盤
生まれて初めて行ったジャズ喫茶は、「らっこ」という、客の膝の上に乗ってくる猫がいることで知られる店だった。
1970年代に全国のジャズ喫茶情報を網羅的に掲載して熱烈な支持を集めた『ジャズ日本列島』(ジャズ批評社)には一度も載ったことはないが、地元ではよく知られていた。店主はたしか京都の大学を出た人だった。10坪もない こぢんまりとして“ほっこりと”落ち着く店だった。
しかし「らっこ」よりも多く通ったのは「オン・ザ・コーナー」だった。私の高校は高知市内の繁華街のど真ん中にあるのだが、そこから歩いて5分ぐらいと近くて便利だった。
『ジャズ日本列島51年版』に1枚だけ「オン・ザ・コーナー」の写真が残っているが、それを見てもどんな店だったのかまったく思い出せない。載っているデータによると、アンプはマッキントッシュC-28、C−2505、ターンテーブルとアームはデンオンDP-3000+SME3009 、スピーカーはアルテックA4とあるので、1976 年当時のジャズ喫茶のオーディオシステムとしてはグレードが高かったことはまちがいない。アルバイトの女のコもいたようだし、「らっこ」とは違ってこういう現代的なところに魅かれたのだろう。
「オン・ザ・コーナー」の記憶はほとんどないと書いてしまったが、ひとつだけハッキリと覚えているのは、初めて行ったときに聴いた1枚のアルバムだ。
ジャズを聴き始めて2年ぐらいで、ビッグネームの代表作はそこそこ知っており、いっぱしのジャズ通になったつもりのころだった。だが、その「オン・ザ・コーナー」の[NOW PLAYING]の棚にかけられたアルバムは、それまで見たことも聴いたこともなかった。
ジャケットには「MICHEL SARDABY IN NEW YORK」と書かれていた。
はたして名前はなんと読めばいいのだろうか?
あとになって、それはミッシェル・サルダビーというマルティニーク出身のフランス人ピアニストだと知った。
このアルバムのおかげで、私はジャズの世界には、ジャズ名盤紹介のガイドブックなどでは知られていない[名盤]があるということを知った。いわば[通]の世界だ。
東京・四谷のジャズ喫茶「いーぐる」の後藤雅洋マスターが上梓した『厳選500 ジャズ喫茶の名盤』(小学館)にも、ミッシェル・サルダビーのピアノ・トリオ・アルバムが2 枚紹介されている。いちばん有名な『ナイト・キャップ』(1970年)、そして『ブルー・サンセット』(1965年)だ。
『ナイト・キャップ』にはこう書かれている。
ジャズ喫茶駆け出しの頃、その道の大先輩から「ジャズ喫茶ではこういうのかけると喜ばれるんだよ」と教えられたのがこのアルバム。
おそらく「オン・ザ・コーナー」のマスターは、この『ナイト・キャップ』の評判を踏まえたうえで、さらに「サルダビーにはこんなのもあるんだぜ」と『イン・ニューヨーク』をかけたに違いない。
これまでジャズ喫茶マスターが選んだ名盤ガイドはいくつか世に出ているが、いちばん面白いのは、村井康司著の『ジャズ喫茶に花束を』(河出書房新社)に収録されている、全国の有名ジャズ喫茶マスター9人がそれぞれ30枚ずつ選び、1枚ごとにコメントをつけたリストだと思う。
岩手・一関「ベイシー」菅原正二氏、東京・渋谷「メアリー・ジェーン」福島哲雄氏、高田馬場「イントロ」茂串邦明氏、吉祥寺「メグ」寺島靖国氏、四谷「いーぐる」後藤雅洋氏、新宿「サムライ」宮崎二健氏、神奈川・藤沢『響庵』(現在は閉店)大木俊之助氏、京都「YAMATOYA」熊代忠文氏、大阪「ムルソー」東司丘興一氏という、名だたる個性的なジャズマスターたちによる計270枚の選盤が楽しい。
その村井氏が編集を担当した『厳選500 ジャズ喫茶の名盤』(小学館)にはやはり、ジャズ喫茶のマスターが選ぶ「名盤」とはどういうものか、その特徴がはっきりと表われている。
「ジャズ喫茶の名盤」とは、すれっからしの客相手にも、これをかけとけば店がナメられることはないというアルバムだ。
たとえば本書で挙げられているホレス・パーランの『ノー・ブルース』やダスコ・ゴイコヴィッチの『テン・トゥ・ツー・ブルース』などは、店でかければ、ほぼ10割のアベレージで客の誰かが席を立って、それが何であるかを確認するためにジャケットを手に取るにちがいない。
もちろん、この2枚に限らず、客がたまらず席を立ってクレジットを確認したくなるものがたくさんここに挙げられている。「ジャズ喫茶の名盤」とはそういうレコードである。
それは、全国からやってくるさまざまな客たちを相手にその反応を浴びながら店の看板を背負ってきたジャズ喫茶マスターならではの選択であり、たんにジャズレコードについての知識が豊富というだけではこのように客の心理を操るのはむずかしい。
戦場を知らない軍事オタクと実戦経験豊富な古参兵とではモノが違うというところだろうか。
よいジャズ喫茶とは、希少性の高いアルバムをたくさん所持してそれを披露することにあると思われがちだが、この後藤版「ジャズ喫茶の名盤」は、ただ珍しさにこだわっているわけではない。
レコードに淫しているところがない。そこが、レコードコレクターの選択とは明らかに違うところだ。
後藤マスターは私に「店でかけるレコードを自分の趣味で選んだことなんて一度もないですよ。あたりまえじゃないですか」と語ってくれたことがあるが、本書の選盤も確かにそうだ。
読者をどう楽しませるか、納得させるか、そして先導(煽動?)するかを心がけ、マスター個人の趣味趣向からは一歩離れた冷徹な批評眼をもとに500枚が厳選されている。
(次ページへ続く)
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