東京・四谷 いーぐる  ジャズ喫茶の物語

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東京・四谷 いーぐる  ジャズ喫茶の物語

ロック喫茶として生まれた空間

東京・四谷のジャズ喫茶「いーぐる」が2019年12月14日で創業52周年を迎えた。これは東京で現在営業をしているジャズ喫茶の中では、1956年開業の日暮里「シャルマン」、1960年開業の明大前「マイルス」と浅草「フラミンゴ」、そして「いーぐる」と同じ1967年の11月に開業した新宿「DUG」に続いて5番目に古い。

筆者がこの店を初めて訪ねたのは1979年のことだった。店の入口も内装も今とほとんど変わらないが、当時の第一印象は、照明も雰囲気もジャズ喫茶にしては明るいなというものだった。

この頃筆者はジャズ関係の公演告知のチラシやポスターを置いてもらうために都内のジャズ喫茶や喫茶店を回るアルバイトをしていたが、数十軒訪ねた店の中でも「いーぐる」の「明るさ」は印象に残った。その後、数カ月に一度ぐらいの頻度で訪ねたが、その第一印象が変わることはなかった。

同じ時期に東京・八王子の「はり猫」というジャズ喫茶を訪ねたことがあるが、ここもやはり明るくて、やや軟派な雰囲気とすら感じられたものだった。「はり猫」は開業したばかりだったのだが、第一印象は当時流行のまっただなかにあった「アメリカ西海岸風のカフェのよう」だった。

メンズ誌『POPEYE』が創刊されたのは1976年の夏だが、創刊号で1冊まるごと「カリフォルニア特集」を展開し、その後もサーフィンやテニスなどのスポーツをはじめ、衣食住の広範囲にわたって《アメリカ西海岸のライフスタイル》を徹底的に紹介したこの雑誌は、大学生を中心とする若者たちの心を完全にとらえた。おりしも1976年暮れにイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が大ヒットしたこともそのブームに拍車をかけた。

「陸(おか)サーファー」と呼ばれる、サーフィンはできないがファッションだけはサーファー・スタイルの大学生や、テニスをするわけでもないのにテニスラケットを小脇に抱えて歩く若い男女が都会の街角やキャンパスに溢れた。

彼らが行く飲食店も、アメリカ西海岸ふうの意匠が凝らされた内装が好まれるようになり、アメリカ西海岸から直輸入された調度品やオブジェが飾られたカフェが続々とオープンした。それらの多くは1981年に大ヒットした大瀧詠一の『A LONG VACATION』のカヴァージャケット、永井博のイラストレーションの世界を再現しようとしたものだった。たとえばプラスチック製のヤシの木のオブジェは「西海岸の気分」を演出するためには必須のアイテムで、多くの若者たちが自室にもそれを飾り、彼らのクルマのダッシュボードの上にそれを置いた。

筆者が抱いた「アメリカ西海岸ふうカフェ」という印象を数年前に 「はり猫」の宮崎店主に話すと、「当時は『明るい』とずいぶん言われたものですよ」と同意してくれた。しかし今では、この「はり猫」はむしろ「店内の照明が暗いジャズ喫茶」の部類に入れられてしまうだろう。

「いーぐる」の後藤雅洋店主は「(昔のいーぐるが明るかったという印象を抱くのは)相対的なものじゃないでしょうか」と説明してくれたが、やはり当時の喫茶店、特にジャズ喫茶の多くは「いーぐる」や「はり猫」よりも暗かった、ということなのだろう。

しかし、私が「いーぐる」に抱いた「流行りの西海岸ふう」というイメージは間違っていた。

「いーぐる」ができあがったのは、日本にアメリカ西海岸ブームがやってくるよりも前、1973年だったからである。こうしたアメリカ西海岸テイストの源流をたどると、60年代末期のアメリカで生まれた現代文明批判的な思潮にたどりつくのだろうが、ここでそれを詳細に指摘するのはやめておこう。

いまでは「ジャズ喫茶の老舗」と言われ、その空間はジャズ喫茶の伝統を伝えるものと受けとめられがちな「いーぐる」だが、もともとこの店舗は〈ロック喫茶〉の空間として設計されたものだった。この点も当時の「いーぐる」が他のジャズ喫茶よりも明るく感じられた原因のひとつなのかもしれない。

「この店は、最初は『ディスクチャート』というロック喫茶でした。ただ、全然お客さんが来なくて半年で潰れちゃって、その時に(すぐ近くで)同時並行的にやっていたジャズ喫茶をこっちに持ってきたんです」(後藤店主)

1967年開業当初の「いーぐる」は、後藤店主の父親が経営していたバーの地下で開店休業状態だったスペースをジャズ喫茶として使ったもので、大きさは現店舗の半分ぐらいだった。

開業前、後藤店主は慶應高校の同級生が作った「レ・シャドウズ」(英国のザ・シャドウズのもじり)というアマチュア・バンドのマネージャーをやっていて、そのバンドが友人たちを集めて夜な夜なバーの地下でパーティを開いているのを見た後藤店主の父親が「遊んでるなら店でもやってみろ」と言ったのがきっかけだった。

しかし開業して6年後の1973年の春、新宿通りの拡幅工事によって、この店舗はやむなく立ち退きをすることになる。一方、同じ新宿通り沿いでその旧「いーぐる」よりも数十メートルほど西(JR四谷駅から新宿方向寄り)のあたりは、すでに拡幅工事が終わっており、後藤店主はそこにも1972年10月から2軒目の店舗を借りていた。それが「ディスクチャート」だった。

しばらくの間、旧店舗(いーぐる)と新店舗(ディスクチャート)が同時に営業されていたが、経営不振のために「ディスクチャート」を閉めた後、その新店舗へ「いーぐる」を移転させたということだ。

つまり、いまのジャズ喫茶「いーぐる」はロック喫茶「ディスクチャート」がほぼ居抜きのようなかたちで生まれ変わったものだった。スピーカーとレコード・コレクション以外は、「ディスクチャート」のままだったという。

当時の『スイングジャーナル』を調べると「いーぐる」の移転広告が出されたのは1973年7月号で、その前号の6月号の広告は以前の住所となっているので、おそらく移転は1973年6月だろう。「ディスクチャート」の雰囲気について、スタッフだった長門芳郎は『パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989』(リットーミュージック)で次のように書いている。

70年代にはロック喫茶がちょっとしたブームだった。渋谷や新宿、吉祥寺をはじめとする中央線沿線など、いろんなところに乱立していたのだが、ディスクチャートは今でいうカフェのようなモダンな雰囲気のする店だった。例えば当時のロック喫茶といえば、照明が暗く、タバコの煙がもうもうとするなかでハードロックに浸る、というイメージだったが、ディスクチャートはおしゃれなカウンターがあって、その横にはガラス貼りのターンテーブルを置いたDJブースがあるという洗練された内装だった。さらに奥には1メートルはあろうかというタンノイのスピーカーが鎮座していて、素晴らしいサウンドを鳴らしていた。

「ロック喫茶のようなタバコ臭い薄暗い店内ではなく、カフェのようなモダンな雰囲気」という長門の記憶は、これは筆者が初めて「いーぐる」を訪ねた時に抱いた印象と同じである。

「この店(ディスクチャート)を作るときにはデザイナーに注文を付けました。最新流行のものはやらないでくれと。そのときは良くても、時間が経つと古臭くなってしまいますからね。設計はケイスケさんというデザイナーにやってもらったんですが、彼は建築の図面が描けなかったんです。それで彼の友達の駒崎且郎さんが実際に図面を起こしました。この店の設計はこの2人の合作ということになります。コマちゃんものちに偉くなりましたよね」(後藤店主)

「コマちゃん」こと駒崎且郎は後藤店主と同い年の1947年生まれで、70年代後半から80年代にかけては『POPEYE』のライバル誌として20代男性読者の人気を分けた『ホットドッグプレス』(講談社)の花形編集者、コラムニスト、広告プランナーとして活躍した。いとうせいこうが、まだ講談社社員として同誌の編集部に在籍していた頃だ。

『ホットドッグプレス』での仕事を辞した後の駒崎の単著に『気まま、我がまま、風まかせ!』(舵社)という、彼の4年間に及ぶヨットでの世界一周旅行をまとめた紀行エッセイの名作がある。過酷な冒険譚を想像しがちだが、世界各地の寄港先で知り合った人々とワインや旨いものを食べては、長いときには半年も同じ港に停泊しながら世界中をゆるゆると放浪したという話だ。

「いーぐる」の内装にはどことなく船のキャビンを思わせるところがあるが、もしかするとそれはヨットで世界一周に出かける前の、駒崎の夢が反映されたものだったのかもしれない。そして当時のジャズ喫茶にありがちだったアングラ的な鬱屈とした雰囲気が漂っていなかったのは、駒崎の洒脱で都会的なセンスのおかげだったのかもしれない。

筆者は20年以上前に駒崎と会ったことがあるが、私よりも一回り歳上なのに当時からすでにマッキントッシュのPCを使いこなし、写真や図版などのグラフィックを編集した美しい企画書を作成していて、そのスマートさに感服させられたものだった。「いーぐる」が西海岸ブームのやってくる数年前からそのテイストを先取りしていたのも駒崎ならではだったのかもしれない。

今もそうだが、昔からジャズ喫茶にはジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスといったジャズメンの大きな写真が偶像崇拝的に飾られていたりするものだが、「いーぐる」にはそうしたものは一切ない。

「いーぐる」に飾られているのはマティスの絵をあしらったポスターや棚の上に置かれたロードバイクのミニチュアなど、シティボーイの部屋のインテリアを連想させるようなものだ。

唯一、入り口の階段の壁にジャズ関連のライブ告知ポスターなどがたくさん貼られているが、これは外部からの訪問者に対して、「ここはジャズの店」と伝えるためのシグナルのようなものだろう。

同じ東京でも新宿や御茶ノ水や中央線沿線のジャズ喫茶には、地方出身者が親近感を抱けるような泥臭ささや野暮ったさがあったが、「いーぐる」にはどことなく、そうした雰囲気を敬遠するかのような、クールで都会的な匂いがあった。これは、この店の基本的な部分を作り上げた後藤店主やその友人たちが、いずれも東京で生まれ育った若者たちだったことと無関係ではないのかもしれない。

そして山下達郎を中心とするシュガー・ベイブの誕生にロック喫茶「ディスクチャート」が大きく関わっていたというエピソードが生まれたのも、この店の都会的な気風と無関係ではないのではないだろうか。

シュガー・ベイブ誕生の物語

「ディスクチャート」とシュガー・ベイブの関係については、まずは船津潔の述懐をここに紹介する。

72年だった。バイト先の四ツ谷にあった《ディスク・チャート》というロック喫茶との出会いがきっかけだった。 エリック・アンダーソンやロギンス&メッシーナ、サザーランド・ブラザーズ、リンディスファーンそれにマーク・ベノなど、それまであまり熱心に聴いたことのない、むしろ以前であれば「こんなのロックじゃない」と毛嫌いするタイプの音楽が流されていた。店内はいつも閑散。我々バイト仲間(大学の音楽サークルの悪友達)とシュガー・ベイブでデビューする前の山下達郎氏等が数少ない常連だった。

あとで知ったのだが、シュガー・ベイブのマネージャーだった長門芳郎氏がDJ、選盤をされていたそうだ。丁度思想的かつ心理的に変化(成長?)していた時期だったことも起因していたと思う。毎日のように通う内にその手の音楽の虜になっていった。そんなとき誰からか「こういう音楽が好きなら《ブラック・ホーク》に行くといいよ」と勧められたのである。(船津潔 ブラック・ホークでの夢の日々を送り、ブラック・ホークと別れて新しい夢をつかむ 『渋谷百軒店ブラック・ホーク伝説』/音楽出版社)より抜粋

 60年代、渋谷の百軒店の狭い路地には多くのジャズ喫茶がひしめいていたが、いまでは伝説のロック喫茶といわれる「ブラック・ホーク」も、もともとはそれらのジャズ喫茶の中の1軒だった。68年ごろから経営方針を転向してロック喫茶的なものになるが、当時最先端の洋楽を聴いていた東京の若者たちから支持される雰囲気を作り上げたのは、オーナーよりも、レコード係であった松平維秋によるところが大きい。松平はかつて新宿のジャズ喫茶「DIG」のレコード係を務めていた。

「ディスクチャート」の常連は山下達郎とシュガー・ベイブのメンバーや、長門芳郎をはじめとするのちに南青山のレコードショップ「パイドパイパーハウス」の関係者となる者たちだったが、こうした交友関係は、「ブラック・ホーク」の常連たちとも重なるものだったようだ。「ディスクチャート」と「ブラックホーク」で流れるレコード・コレクションには共通性があったからだ。もっといえば、長門たち「ディスクチャート」のスタッフは、店のレコード・コレクションを「ブラックホーク」的な方向に近づけていったようだ。長門芳郎は次のように書いている。

お店のレコード・コレクションは、ビートルズやバッド・フィンガー、キンクス、ローリングストーンズ、ザ・フーなど、当初は日野原さんのブリティッシュ・ポップ志向を反映したものだった。もちろん、ビーチ・ボーイズ、ラヴィン・スプーンフルなども置いてあったが、小宮と僕が入ってからはさらにアメリカ音楽の比重が増していく。ヤングブラッズ、ラスカルズ、クイック・シルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ジョン・セバスチャン、ローラ・ニーロ、ジョニ・ミッチェル、アル・クーパー、リトル・フィート、さらに当時、新譜で出たばかりのボビー・チャールズやベターデイズ、アルゾ、バリー・マン、ベン・シドラン、トッド・ラングレン、スティーリー・ダンなど、店でかけるレコードの予算をもらって、小宮と僕で輸入レコード店に買いに行き、アメリカのロックやシンガー・ソングライターのレコードを増やしていったのだった。(長門芳郎『パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989』/リットーミュージック)より抜粋

ここに出てくる「小宮」とは《幻のシンガーソングライター》と言われる小宮やすゆうのことだ。

長門と小宮はともに長崎の出身で高校時代からの友人だった。大学進学で上京した長門と小宮は、故郷の長崎の高校生や大学生たちと「SOON!」というコミュニティを作り、ガリ版刷りの音楽ミニコミ誌を発行したり、長崎で野外フェスなどのコンサートを主催するなどの活動をしていた。風都市と交渉して、はっぴいえんどを呼んで長崎公会堂でライブをやったこともある。

この2人がそれぞれ矢野誠の縁で「ディスクチャート」で働くようになったことから、シュガー・ベイブ誕生の物語が始まる。ことの発端は、矢野誠が「ディスクチャート」に大貫妙子を連れてきたことからだった。「ディスクチャート」、そして山下達郎との出会いについて、大貫は次のように語っている。

「赤い鳥の『竹田の子守歌』は好きな曲でしたが、当時は洋楽しか聴いていなかったので。あまり気がのらなかったですね。そんなとき音楽プロデューサーとして矢野誠さんが現れ『君、このバンド合わないからやめたほうがいいんじゃない』と言われたんです。

自分の曲を聴いてもらったら『君、オリジナリティがあるよ』と」当時、若いミュージシャンが集まっていた四谷の「ディスク・チャート」という店を紹介された。「君が好きな音楽をカバーしている人がいる」とのことだった。

「そこで、みんなが面白がって私のデモテープを作り、デビューさせようってことになったんです。何回目かの日に明け方までやっていたとき、時々来てただ眺めていた山下くんが突然『ギター借りていい?』と弾き出した。何、この人、素敵。歌上手!って(笑)それから話をするようになりました」

「萩庭桂太 YOUR EYES ONLY」「ある日の明け方、山下くんが 大貫妙子」取材・文 森 綾

大貫妙子は19歳のときに「三輪車」というフォークバンドを組んでいたが、レコード会社から「赤い鳥」のような歌を歌ってほしいという希望を出されて迷っていたときに矢野誠があらわれ、それがシュガー・ベイブ結成のきっかけとなったという経緯だ。

大貫と矢野誠の出会いについて大貫は次のようにも語っている。

アマチュアバンドを組んでいた頃は、The Fifth Dimensionなど、洋楽のコピーばかりでしたね。ですので、自分では音楽を作っていませんでした。オリジナルを作り始めたのは、シュガー・ベイブを結成する2~3年前だったと思います。シュガー・ベイブを結成する前にフォークバンドにいたんです。18歳か19歳の頃で、初めて参加した本格的なバンドでした。ですが、そのバンドのためにわたしが書いた曲は、難しかったのか採用されませんでした(笑)。

その当時はフォークブームだったので、Warner Pioneer(現Warner Music Japan)からわたしたちのグループをデビューさせるために、プロデューサーとして矢野さん(矢野誠)が送り込まれたのです。矢野さんはわたしたちのグループをデビューさせるために来たはずなのに、なんと! わたしに「君が書く曲や詞はバンドに合っていないから、このバンドは辞めたら?」とおっしゃったのです(笑)。その頃のわたしには、一緒にやれる音楽仲間がいませんでした。それで誘われるままにフォークバンドに参加したのですが、わたしが好きな音楽を彼らと共有できなかった。それで、矢野さんに「君に合う仲間がいるから」と言われて、 「じゃあ、やめちゃおう!」と。当時、四谷の音楽喫茶で夜中にセッションしている人たちがいるからと紹介していただいて。そこで出会った方たちと意気投合して、わたしの書いた曲のデモテープを録ってみたりするようになり、山下くんと出会い、それがシュガー・ベイブの結成に繋がりました。

山下くん(山下達郎)にも、わたしにも、大げさではあるけれど、理想とする音楽、というより音楽の傾向がそれぞれにあったんですね。それに対するフラストレーションはあったかもしれません。そのかわりバンドのリハーサルはすごくしていました。仕事もなくて時間があったということですけど、きっと(笑)。シュガー・ベイブは全員東京出身ですから、例えば東京に出て来て頑張るというような感覚は最初からないわけで。ずっと音楽で食べて行こうなどとは全く考えていなかったと思います。

大貫妙子:長い旅 Patrick St. Michel Red Bull Music Academy

2010年に再発された大貫妙子のファーストアルバム「GraySkies」のライナノートで長門芳郎は次のように書いている。

1972年の秋、四谷にディスクチャートというロック喫茶ができて、僕はそこで働いていた。そこへある日、アレンジャーの矢野誠さんに連れられて、やってきたのが大貫妙子だった。ジョニ・ミッチェルが好きだという彼女は、その後、よくひとりで来るようになった。男性二人と彼女で、フォーク・トリオを組んでいて、レコード・デビュー直前だったのだが、彼女の才能に気付いていた僕らの仲間は皆、シンガーソングライターとしてソロ・デビューした方がいいと思っていた。当時、店を閉めた深夜に店のスタッフでもあった小宮康裕や徳武弘文らが集まり、セッションというか、自作曲のデモを録ったり、時には、CM音楽(コカ・コーラとか)の録音をしていた。そこに彼女を誘い、彼女のオリジナル曲のデモ・テープを録音することになった。その頃、録音した数曲の中の1曲が「午后の休息」である。当時、僕らが大好きだったピーター・ゴールウェイ(フィフス・アヴェニュー・バンド)やジェイムズ・テイラーからの影響がうかがえるアレンジは、今聴いても新鮮、そしてなにより、彼女の歌声のみずみずしいことよ。

この再発CDにはボーナス・トラックとして「ディスクチャート」で録音された「午后の休息」のデモ録音ヴァージョンが収録されている。小宮やすゆうと徳武弘文のアコースティック・ギターをバックに大貫が歌っている。いーぐる50周年を記念して制作された小冊子『いーぐるに花束を』の中で、徳武弘文は次のように書いている。

流石に人脈の広い小宮君、「ディスクチャート」を任されます。そしてお店の終了時間から自由に使える事となりました。そこで当時のテレコや録音機材を持ち込み実験的なレコーディングを始めました。私のミュージシャン生活がここから始まったとも言えるでしょう。亡くなられてしまったけどTBSの日野原さんから貰ったテレキャス・ベースを弾いたり(後にベースプレイヤーとしていろんなグループに誘われるが勿論断る)アコギ、エレキを弾きまくるのでした。

小宮やすゆうも同じこの冊子で「ディスクチャート」の思い出を次のように書いている。

ほんの短い間でしたが72年のDisk Chartの時代後藤さんが深夜のバンド活動を許して頂いてその仲間達から山下達郎君、大貫妙子嬢、徳武弘文とその後音楽シーンを代表するミュージシャンが産まれた事は後藤さんの暖かいご支援が無ければシュガー・ベイブも産まれなかった事は確実です。当時タンノイのスピーカーで聴いていた音楽は最高の音質で今でもハッキリと覚えています。

「ディスクチャート」の設計は音響のための工夫もされていた。入って右側の天井が傾斜しているのはフラッターエコーの発生を塞ぐためのものであり、天井の各所には着脱自由の吸音体が取り付けられている。また床が三段になっているのも音響効果への配慮からである。こうしたことから、大貫妙子のデモ・テープを録音する場としても適していたようだ。

シュガー・ベイブの存在が世間に知られるきっかけになったのは1973年9月21日に東京・文京公会堂で行われたはっぴいえんど解散コンサート「CITY Last time around」 に「大瀧詠一&ココナッツ・バンク」のコーラスとして出演したことからだが、そのいきさつにも「いーぐる」が少し噛んでいる。

きっかけは、このコンサートにココナッツ・バンクのメンバーとして出演した伊藤銀次だ。

1973年の夏、伊藤は大瀧詠一がプロデュースしていたココナッツ・バンクの練習に明け暮れていたが、ある日、和田博巳が経営する高円寺のロック喫茶「Movin’」で、ビーチボーイズのカヴァーをする日本人グループの存在を知る。山下達郎が卒業記念として大学の仲間たち(村松邦男、並木進、武川伸一、鰐川巳久男)と限定100枚で自主制作したアルバム「Add Some Music To Your Day」が店で流れていたのだ。

驚いた伊藤は、代表者の並木進に連絡を取り、まだ在庫に残っていた1枚を手に入れる。自宅でそれを聴いていた時、偶然訪ねてきた大瀧詠一が「いまどき珍しいよ、いるもんだねえ」とそのアルバムに興味を示し、そして大瀧はこの音源を制作した者たちにはっぴいえんど解散コンサートに出演してもらうよう、伊藤に交渉を命じるのである。

伊藤は並木進から山下達郎が今はシュガー・ベイブというバンドを始めていることを聞かされ、そのマネージャーの長門芳郎の電話連絡先を教えてもらう。

この1973年の夏、長門芳郎は「いーぐる」で働いていた。そのときは「ディスクチャート」はすでに閉店となり、ジャズ喫茶「いーぐる」に変わっていたが、引き続き店のスタッフとして働いていたのだ。そして伊藤銀次が長門の連絡先として教えてもらった電話番号は、どうやら「いーぐる」の番号だったらしい。

長門によると、いまも店の一角にあるピンク色の公衆電話に伊藤からの連絡がきたという。当時シュガー・ベイブのマネージャーだった長門は、後藤店主の了承を得て名刺に「いーぐる」の電話番号を刷っていたのだ。

その後、シュガー・ベイブは翌1974年にエレック・レコードと契約、同じ年の秋に山下達郎や大貫妙子が参加し、細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫らかなるキャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)がバックを務めた荒井由実のセカンド・アルバム『MISSLIM』がリリース、そして1975年にシュガー・ベイブの初アルバム『SONGS』がリリースされる。

長門芳郎が関わった人脈によって日本のシティ・ポップスの源泉とでもいうべきサウンドがこうして造り出されることになるが、その長門や彼の音楽仲間たちのサポートをした存在のひとつが「ディスクチャート」でありジャズ喫茶「いーぐる」だったという見方もできると思う。

 

(次ページへつづく)

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