東京・四谷 いーぐる  ジャズ喫茶の物語 Part2

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東京・四谷 いーぐる  ジャズ喫茶の物語 Part2

早熟の天才、日野原幼紀

 

ところで、先に引用した徳武弘文の回想に「TBSの日野原さん」と出てくるが、これは、後藤店主と慶應義塾中等部の同窓だった日野原幼紀のことだ。

小宮やすゆうが当時のタンノイのスピーカーのサウンドが最高だったと書いているが、「ディスクチャート」のスピーカーにタンノイのレクタンギュラーヨークが導入されたのは日野原の助言によるものだった。「彼がブリティッシュ・ロックをかけるんだったらタンノイがいいっていうんで買ったんですよ。確かにビートルズの英国盤とかをかけるとすごいよかったですよ」(後藤店主)

ここまで「ディスクチャート」について書いてきたが、この店の基本設計とでもいうべき部分で最も大きな役割を果たしたのは、この日野原幼紀だったようだ。

「早熟の天才」と後藤店主が呼ぶ日野原は、「ディスクチャート」の音楽プロデューサー的な存在だった。そして、店のスタッフとして長門芳郎を後藤店主に紹介したのも日野原だった。日野原が矢野誠と親しく、その矢野の知人の長門が仕事を探しているということで口添えをしたらしい。

長門よると、シュガー・ベイブ誕生のきっかけとなった毎週水曜日夜の「いーぐる」でのセッションのためのマイクや録音機材などは、日野原がTBSから借りてきたものだったらしい。

日野原幼紀は、1947年に静岡県に生まれ、3歳のときに東京に引っ越してきて、慶應義塾中等部に入学後、同高等部を経て慶應大学を卒業する。高校3年の夏に矢野誠らとMarlinMonroe hus’bandを結成、大学2年まで活動するがオリジナル数曲を残して解散(のちの1976年、マリリン・モンロー・ハズバンド名義で矢野と日野原はJ.Diamond(筒美京平の変名)作曲による『ピーナッツ』という曲をCBSソニーから7インチレコードをリリースしたこともある)。

その後TheClubというサークルを作り、インディーズ映画を製作していたが(後藤店主もこのサークルにかかわっていた)、69年頃からTBSの「ヤング720(ヤング・セブン・ツー・オー)」の製作にアルバイトADとしてかかわるようになり、これが日野原の人生を大きく変え、以後、放送作家としての道を歩む。

「ヤング720」は毎週月曜日から土曜日まで午前7時20分から午前8時まで放送されたワイドショー形式の若者向け情報番組だった。放送期間は1966年から1971年まで。日本テレビで1965年にスタートした深夜番組「11PM」の構成を当時のティーンエイジャー向けにアレンジしたようなもので、曜日ごとに司会が代わり、スタート時の1966年は月曜と火曜は竹脇無我と小川知子、水曜と木曜は松山英太郎と由美かおる、金曜と土曜は関口宏と大原麗子といった男女2人のコンビが司会を務めた。

当初は十代に人気の雑誌、『明星』や『平凡』的な切り口で日本のGS(グループ・サウンズ)を中心に扱う内容だったのが、放送開始1年を過ぎたころから傾向に変化が生まれ、横尾忠則や篠山紀信が朝食を食べながら芸術討論をするコーナーの「ヤング朝食会」が生まれたのをはじめ、過激でカウンター・カルチャー的なものになっていった。

こうした方向性の変化に大きな影響力を及ぼしたのが「TBS の不良娘」と呼ばれたディレクター、高樋洋子だったといわれている。

「ヤング720」での高樋の仕事で特に知られているのは、1966年12月に横浜のカミナリ族(暴走族)「本牧ナポレオン党」を取材、テレビで初めて放映し、その際に彼らが出入りしていた本牧のクラブでデビュー前のゴールデンカップス(当時は<平尾時宗とグループ・アンド・アイ>と名乗っていた)を発掘、彼らを番組のオープニングで演奏させたことだ。

「ゴールデンカップス」と命名したのは高樋と言われているが、高樋はカップスの他にもスパイダースやタイガースも朝7時20分の番組オープニングで歌わせた。「そもそも朝の7時20分なんて時間帯はティーンエイジャーたちも寝ているんじゃないか」という意見がTBS局内にも多く、それなら番組しょっぱなからロックをガンガン鳴らして叩き起こしてしまえ、というのが高樋の発想だったようだ。

「<毎朝、高校生たちをロックの音で起こす>みたいなコンセプトの番組だっていうけど……実際流されるのはタイガースとかテンプターズとか、歌謡曲みたいなグループサウンズでしょ。そこにすごく反撥を感じていた。ぼくはビートルズの信奉者でしたからね。ぼくの当時の音楽感覚から言うと、和製ポップスなんて、音楽を志している人の音楽にはどうしても聴こえない。失礼だけど、とんでもなくひどい音楽に聴こえたわけです。」(「テレビ黄金伝説1 TBS「ヤング720」は朝の解放区だった/構成・望月充『団塊パンチ』VOL.1,no.1/飛鳥新社」)より抜粋

こう語るのは、高樋洋子ディレクターの下でADとして働いていた日野原幼紀だ。同インタビューで「タイガースとかテンプターズなんて結局、ぼくから見れば中尾ミエとなんら変わらないわけですよ」とも日野原は語っている。こうした「感覚」を尊大と受け取る人もいるかもしれないが、当時のいわゆる「ガチな洋楽ファン」、海外から発信されてくる文化に熱烈に憧れていた若者たちにはこうした傾向は少なからずあった。

日野原が「ヤング720」にかかわるようになったのは前述の「ヤング朝食会」だったらしい。

同コーナーでは「ヤング朝食会にいらっしゃいませんか」というテロップが流され、それを見てスタジオに集まってきた若者たちの中から番組の構成を手伝うスタッフが現れ、構成作家としてデビューした。その一人が日野原であったし、日野原と同じ慶應義塾大学生で、高橋信之(高橋ユキヒロの兄でありフィンガーズで成毛滋らと活動)と親しかった景山民夫だった。

「和製ポップスなんて」という日野原は、サンフランシスコやニューヨークで暮らし、アメリカのカウンター・カルチャーの洗礼を受けて帰国したばかりの景山民夫を巻き込んで、それまでの日本のGS中心の番組方針を修正し、ビートルズなどの海外ロックの紹介や日本のインディーズバンド、ミュージシャンたちを出演させる「音楽解放区」を築きあげようとする。

日野原たちはブレッド&バターにブラスセクションを加えてThe Byrdsの「So You Want To  Be A Rock’n’ Roll Star」をカヴァーさせたり、ジャックスに「ロール・オーヴァー・ゆらの助」を歌わせた。まだデビュー前で「アンドレ・カンドレ」と名乗っていた井上陽水や、高校生の高橋ユキヒロと中学生の荒井由実が同じバンドで出演したこともある。また、ヘレン・メリルの息子のアラン・メリルがレギュラーコーナーを持っていて、スティーブン・スティルス(CSN&Y)の「4+20」をオリジナル通りに、まだ日本では知る人の少なかったオープンDチューニングで弾き語りをやってみせ、プロも含む当時の音楽好きの度肝を抜いたということもあった。

筆者が「ヤング720」を見始めたのは黒澤久雄、北山修、大石吾朗らが司会を担当するようになった1968年頃からだったと記憶しているが、なかでも一番惹き込まれたのは北山修と加藤和彦が出演する曜日だった。加藤がプレゼンターとなって海外の最新トピックスを紹介するコーナーはいつも刺激的でファッショナブルで、海外のユースカルチャーへの憧れを募らせた。

いまでも覚えているのは、1969 年7月、ビートルズの映画『イエロー・サブマリン』が日本で初公開されるときに、その予告動画が放送されたことだ。もはやありふれたものになってしまったが、当時、朝の7時20分から「動くイラストレーションのビートルズ」がお茶の間で流される衝撃を想像していただきたい(残念ながら筆者宅のテレビはまだ白黒画像しか映しだせなかったが)。

60年代の音楽(歌謡)番組は、ジャズ・べーシスト出身の渡辺晋が起こした芸能プロダクション、ナベプロ(渡辺プロダクション)がたくさんの人気歌手やタレントを抱えていたためにその支配下にあったといってよく、ナベプロは多くの番組に影響力を及ぼしていたが、高樋ディレレクターたちが仕掛けた「ヤング720」には、ナベプロ的な「歌謡曲の世界」へのカウンターとしての企てがあることが明らかにみてとれた。

たとえばナベプロが手がけた「シャボン玉ホリデー」には洒脱で洗練されたエンターテインメントという趣があるが、それは従来の「大人の視聴者」を想定したものであり、1966年のビートルズ来日以降急激に意識が変化しつつあった「ヤング」層をターゲットにしたものではなかった。また、「ヤング」が売り物になるというマーケティング上の認識がまだテレビ界でも弱い時代だった。「ヤング720」はそんな時代に、ビートルズ現象に影響を受けた、さらに言えばビートルズに感染した世代への訴求を目的に切り込んだ番組だった。

VTRがほとんど残っていないために幻の番組となってしまった観のある「ヤング720」だが、最近になってYouTubeで「東京—釜山ハイウェイツアー」という映像が上がっている。これは1970年に「夏休み特集」として放送されたもので、同年7月に関釜フェリーと釜山とソウルを結ぶ京釜高速道路が全線開通したのを記念し、「日韓友好ドライブ」を目的に日産サニーで全線を走破する模様を記録したドキュメンタリーだ。

残念ながらYouTubeに投稿された動画には音声が残っていないが、さながらロードムービーのようなタッチでストーリーが進行していき、この番組が当時いかに突き抜けていた存在だったか、その片鱗がうかがえる内容だ。

高樋ディレクターが番組のファッション担当をしていたこともあり、山本寛斎、ニコルの松田光弘、コシノジュンコらがスタジオにやってくることもあったし、宇野亜喜良などもいたという。「ヤング720」は、アマチュアからプロまで、そしてさまざまなジャンルのクリエイター、アーティストが出入りする、さながらカウンターカルチャーのカオスのような状態だったようだ。

高樋ディレクターと「いーぐる」の後藤店主は日野原を通して交流があったようで、後藤店主は同店のブログで「高樋さんにはずいぶんお世話になりました」と述懐している。

後藤店主は高樋ディレクターが率いる「ヤング720」の取材チームと行動をともにすることが多く、「ロック喫茶探訪」という企画では日野原たちとともに、伝説のロック喫茶といわれる新宿厚生年金会館そばの「ソウル・イート」を訪ね、当時ロック評論家としてデビューして間もない渋谷陽一を取材したことがあったという。

また、この「ヤング720」チームは、高樋がファッション担当だった縁で超有名ブランドのファッション・ショーのディレクションを手がけることもあり、後藤店主がそのチームの会計と運転手を担当、日野原がショーのためのミュージック・テープを作っていた。

当時のファッション・ショーの音楽というとセミ・クラシックかムード・ミュージックがほとんどで、日野原のようにビートルズやキンクスの楽曲を巧みにつなぎあわせたものは初めてだったという。日野原の演出は当時のスーパー・モデルたちに大人気だったそうだが、後藤店主はその威力を目の当たりにして、ジャズ喫茶のレコード係も「曲のつなぎ」がキモだということを実感したという。

少し話がそれるが、この頃、後藤店主は先述の「いーぐる」開業のきっかけとなったアマチュア・バンドの友人、「いーぐる」誕生の影の重要人物といってもいい金子陽彦と、霞町(現在の西麻布界隈)の「大使館」によく遊びにでかけたり、本牧の「ゴールデン・カップ」ではデビュー前のゴールデン・カップスを観たこともあった。

金子は幼少時をロンドンで過ごした帰国子女で、英語も夜遊びも堪能だった。赤坂の高級ゴーゴークラブ「MUGEN(ムゲン)」でアイク&ティナ・ターナーのショーを目撃して本物のグルーヴというものを体感し、ブラック・ミュージックに開眼させられたのも金子のおかげだと後藤店主はいう。金子はニッポン放送に入社、奇しくも岡崎正通の配下となった後、レコード業界に転身、ポニー・キャニオンやヴァージンレコードで「ハリー金子」の愛称で活躍した。いまは故人となった金子だが、日野原とともに20歳前後の後藤店主に音楽をはじめカルチャー全般に大きな影響を与えた友人だった。

話を戻すと、「ディスクチャート」が開店した当時、矢野誠はTBSの子供向き番組の音楽担当をしていて、四谷にはTBSの放送作家やコピーライター、音楽プロデューサーたちが共同で借りていたマンションがあったという。こうしたこともあって、当時のTBSに関係していた若いスタッフたちと「ディスクチャート」には交流があったようだ。「ディスクチャート」の入り口に飾られていたジョン・セバスチャンの大きな写真は、オープンのときにTBS から持ち出してきたものだったという。

「ヤング720」終了後も日野原はTBSで放送作家を続けるが、その間の1972年に『螺旋時間』というソロ・アルバムをコロムビアレコードの「プロペラ」レーベルから発表する。アレンジとキーボードは矢野誠。すべての曲を日野原が作曲、作詞は寺田柾、門間裕、そして1曲だけ高樋洋子によるものもある。

『螺旋時間』(プロペラ)日野原幼紀

中期ビートルズの影響もあるが、1曲目の「さあ諸君!」がキンクスの「デヴィド・ワッツ」に似ていることが象徴するように、「螺旋時間」というタイトルとも関係があるのだろうか、全体にキンクス的というか、ブリティッシュ・ポップスふうのひねりやねじれ、ジョークが効いた作風の楽曲が多い。

また、日本語歌詞の乗せ方がはっぴいえんどを連想させるものや、歌い方がジャックスの早川義夫を思い出せるものもある。ただ、それらのものを借りてきたということではなく、そこにあるのは日野原自身のワン・アンド・オンリーというほかない独創的な世界だ。そして、半世紀近い前の作品であるにもかかわらず、「エバーグリーン」という形容がふさわしい、みずみずしさがある。また、このアルバム以後の日本語ロック、たとえば90年代のサニー・デイ・サービスへとつながる未来的な予感もある。

『螺旋時間』のディレクターだった渡辺忠孝は、2007年にリリースされた再発盤のライナーノーツで次のように日野原の印象を書いている。

彼の最初の印象は当時僕が一緒に仕事をしているアーティストやミュージシャンとは全然違う空気感を持ち、あえて誤解をおそれずに言うならば後の“渋谷系”のアーティストが持っているような雰囲気の若者でした。たぶんこれは彼が東京育ちで、いやらしいぐらいな東京人であるせいかも知れません。

日野原の唯一のソロ・アルバム『螺旋時間』は70年代の日本語ロックの傑作のひとつに数えられると思うが、ほとんど知られることなく幻の名盤として埋もれてしまった。なぜ当時話題になることがなかったかというと、小宮やすゆうのFacebookへの書き込みによると、アルバムのプロモーションのためのラジオ出演を日野原がすっぽかしてしまったことがレコード会社上層部の怒りを買い、それ以来サポートを失ってしまったからだという。

このアルバム後、日野原はプロとしての音楽活動をすることはなく、放送作家として「クイズ100人に聞きました」や「探検レストラン」、伊丹十三とともに「アートルポ」「万延元年のワイドショー」などを手がける。その後もTV界で活躍し、番組制作者たちの間では「天皇」と畏敬の念を抱かれるほどの影響力があったという。

日野原は晩年の代表作、ドキュメンタリー番組『夢の扉』の構成に携わっている途中の2012年10月に65歳で病死する。多数の弔問客がやってくることを敬遠して、家族には「葬儀は秘めやかに」と言い残してこの世を去ったという。

1967年の「いーぐる」開業から1973年の「ディスクチャート」閉店までの時期に後藤店主と交流があった人たちや、その人たちと近い関係にあり、当時から頭角を現し、のちの日本の音楽シーンに影響を与えた人たちを生年ごとにまとめると次のようになる。

  • 1947年生まれ:後藤雅洋、日野原幼紀、矢野誠、景山民夫、加藤和彦、細野晴臣、成毛滋
  • 1948年生まれ:大瀧詠一、井上陽水
  • 1949年生まれ:松本隆
  • 1950年生まれ:長門芳郎、小宮やすゆう、伊藤銀次
  • 1951年生まれ:徳武弘文、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫
  • 1952年生まれ:坂本龍一
  • 1953年生まれ:山下達郎、大貫妙子
  • 1954年生まれ:荒井由実

こうして改めて挙げてみると、日本のポップミュージックが大きな変革期にあった当時の音楽人たちの交わりが垣間見えるようだ。
(次ページへつづく)

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