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「べっぴんさん」と神戸のジャズ喫茶

「べっぴんさん」と神戸のジャズ喫茶

西の中島らも、東の中上健次

ジャズ喫茶の歴史については本サイトの「ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶になったのか」に詳しく書いているが、1960年頃から日本ではファンキー・ジャズ・ブーム、モダン・ジャズ・ブームが起こり、1961年のアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの来日が発火点となってそれが全国に広がり、60年代末までジャズ喫茶は全盛期を迎える。「べっぴんさん」でジャズ喫茶「ヨーソロー」が登場するのはまさにそのブームのさなかの1960年だった。

さくらと健太郎より一つ上の16歳で、彼らを初めて「ヨーソロー」に連れていった龍一に「いまはモダン・ジャズの時代や」というセリフを言わせているように、このモダン・ジャズ人気を支えたのは10代から20代前半の若者たちだった。

実際のところ、1960年当時、ジャズ喫茶に高校生はいたのだろうか。

文部省の学校基本調査によると1960年当時の高校進学率は60%にみたず、95%の現代に比べるとかなり低い。

当時の15歳のうち4割は中学卒業後、就職して社会人になるか、女性の場合は結婚することも珍しくはなかった。「べっぴんさん」では16歳の五月(久保田紗友)が「ヨーソロー」で働いているが、それはけっして珍しいことではなく、義務教育の中学を出ればもう大人扱いされる時代だった。

スイング・ジャーナル社が1966年に行なった「ジャズファンの実態」というアンケート調査がある。

これは同年12月に発行した『スイング・ジャーナル臨時増刊 モダン・ジャズ百科』に掲載されたもので、同誌の読者、ジャズ喫茶客、各地のジャズ・クラブの会員、レコード店のジャズ・レコード購買者など約5,000人を対象に行なったもので、回答率は約80%だった。

その回答者の年齢をみると以下の通り。

15〜17歳 211人

18〜19歳 857人

20〜24歳 1,815人

25〜29歳 883人

30代 347人

40代 51人

50代 23人

職業別では 学生45%、会社員28%、無職4%、その他23%。

ジャズ喫茶に行きますかという質問には、ジャズ喫茶のある地域では「行く」が96%。

いちばんコアな層は、18〜24歳で約70%。

回答数3,766のうち、15〜17歳が211人ということは、1966年当時は、ジャズファン全体のうち、6%弱は高校生もしくは同年代の子たちが含まれていることを示している。

ちょうどこの調査が行なわれたころ、神戸では、村上春樹(1949年生まれ)や高橋源一郎(1951年生まれ)がジャズ喫茶に通っていたようだ。

1966年当時、村上は県立神戸高校3年生、高橋は私立灘高校1年生で、村上は北長狭通り1丁目の「バンビ(バンビーとも呼ぶ)」、高橋は北長狭通り2丁目の「さりげなく」に通っていた(のちに村上も『さりげなく』にも行くようになる)。高橋によると灘中時代からもうジャズ喫茶通いを始めていたという。

また、この2人より少し遅れて中島らも(1952年生まれ)が、灘高3年生だった1970年から1971年の浪人時代にかけて「バンビ」に通うようになる。

予備校生の中島がジャズ喫茶で薬物に溺れていた様子は、その自伝的作品や、らもの妻、中島美代子の自伝によって明らかにされている。

彼が常連だった「バンビ」は、60年代後半に現れたフーテン族に好まれた店であったようだが、かつて高校生の村上春樹もここに通っていたように、ジャズ喫茶で薬物を摂取するかどうかは、客によってそれぞれ違うというのが実態だろう。

これは新宿・歌舞伎町の「ジャズ・ヴィレッヂ」に18 歳(1965年)から通い、睡眠薬や鎮痛剤を摂取しいていた中上健次にもいえることだ。

「ジャズ・ヴィレッヂ」は、ジャズ喫茶通いをしていた若者たちからも、薬物常習者の多いアブナい店と敬遠されていたようだが、当時はこのようなジャズ喫茶は少数派だった。そして多くの客にとってジャズ喫茶に行く目的は薬物でラリることではなかった。

ただ、アメリカでもそうだったように、ジャズと薬物にはそれなりにつながりがあり、それは日本でも同じだったことも否定できない事実だ。

日本では、1960年、当時人気プレイヤーだった高柳昌行がヘロイン所持で二度逮捕され、二度とも執行猶予の温情判決を受けるという出来事があった。

当時の高柳はスイング・ジャーナル読者投票のギタリスト部門で1位に選出されるほどの人気で、朝日新聞をはじめ週刊誌が取り上げるスキャンダルとなった。

二度目の逮捕、執行猶予判決の直後に『スイング・ジャーナル』は「我々は麻薬が必要なのか? あえてミュージシャン諸氏に問う」という論説を雑誌の巻頭に見開き2ページで掲載するという異例の対応をとった。

論説では「ジャズ界というものが今や立派に一般社会の一部になっている現在、我々ジャズ関係者も立派な社会人であらねばならないでしょう」と述べ、10月6日に読売ホールのコンサートの舞台で高柳が観客に謝罪し、満員の観客もそれを暖かく受け入れたとしたあとで、最後を次の言葉で締めている。

「ミュージシャン諸氏よ、再び最後に声を大にして言います。この暖いファンを二度と裏切る事のない様に、そして我々の愛するジャズを社会的にほうむる事のない様に、そしてあの暖かい判決を下した赤穂裁判長の期待にそむかないように…。」  (スイング・ジャーナル1960年11月号より抜粋)

スイング・ジャーナルの論説記事が暗に認めているように、ジャズメンと麻薬は高柳1人の問題ではなかった。

そして翌1961年、高柳は三度目の逮捕をされて実刑判決をうける。この事件は、モダン・ジャズ・ブームが絶頂期にさしかかろうとしていた矢先に現れた大きな落とし穴だった。

1963年ごろに、ティーンエイジャーの間で睡眠薬であるハイミナールの過剰摂取が東京を中心に流行して社会問題になったこともジャズに関連するものに対する世間の見る目を冷たくさせた。

60年代に歌手としてヒットを飛ばした俳優、音楽プロデューサーの荒木一郎の自伝的小説『ありんこアフター・ダーク』(河出書房)は、東京オリンピック直前の1963年ごろの、渋谷・百軒店に実在したジャズ喫茶「ありんこ」を舞台に当時の若者たちの風俗を描いたものだが、荒木とおぼしき高校3年生の主人公がおっかなびっくりでハイミナールに手を出し、それを断つまでの様子や、ハイミナール中毒に苦しむ十代の若い女の子が出てくる。

ただ、小説では当時の不良仲間のうちでも薬物常用者は落伍者のように蔑まれていて、ジャズ喫茶客の多くが好んで薬物を常用していたと描かれているわけではない。

ジャズ喫茶店主にしてみたら、営業停止になるような面倒には巻き込まれたくないと考えるのが当然で、札幌の「ジャマイカ」の樋口重光マスターのように、当時、ラリッてる客を見つけると殴り飛ばして追い出したという話もあれば、新宿「ジャズ・ヴィレッヂ」でさえ、店のマネージャーが中上健次を「クスリに酔いすぎる」と出入り禁止にしたと中上自身がエッセイで書いている(『野生の青春』スイング・ジャーナル1977年5月臨時増刊に寄稿。のちに『路上のジャズ』中公文庫に収録))。

ジャズ喫茶の客層の大半は、クラシックの名曲喫茶と似たりよったりの音楽愛好家であり、ジャズ喫茶とは、今もそうだが昔も「大きい音でレコードがかかる喫茶店」程度のものだ。

ただ、西の中島らも、東の中上健次の両巨頭のような、フーテンもしくはその予備軍のような無頼の徒が都会に現れた60年代末期、彼らが繁華街のジャズ喫茶に出入りしていたことは確かであり(ジャズ喫茶に限らずゴーゴー喫茶やふつうの喫茶店にもいたようだが)、そうした一時期の風俗によってジャズ喫茶がアヘン窟であるかのようなイメージを拡散されてしまった面はまちがいなくある。

そして『べっぴんさん』で高校生がジャズ喫茶に出入りすることに眉をひそめる人がいまも少なからずいることは、いまだにそうしたネガティブなイメージが根強く残っているということだ。

いまはジャズ喫茶も含めて喫茶店の出入り禁止を校則とする高校も少なくないようだが、高校の校則がこのように厳しくなったのは、1980年代以降の管理教育が現場で徹底されるようになってからではないだろうか。

慶應義塾や麻布学園は校則らしきもののないことが知られているが、それに加えて中島らもや高橋源一郎の灘高校のような超進学私立校や、村上春樹の神戸高校のような旧制中学からの歴史を持つ公立高校の場合は、昔から総じて校則はゆるめのようである。

それは、生徒の自主性、自律性を尊重するリベラルな校風を誇示することがある種のステイタスであり、エリート意識のあらわれのひとつという見方もできるかもしれない。

「べっぴんさん」のすみれや姉のゆり、そして娘のさくらが通う女子高校「栄心女学院」の校舎は神戸女学院でロケされたものだが、この神戸女学院も校則のゆるい自由な校風で知られ、制服もないというから歴史ある私立女子学園の中ではかなり珍しい部類に入る。

ドラマでさくらに制服を着せたのは、高校生らしさを強調するための演出だろう。ただ、モデルといわれるファミリアの創業者坂野惇子と姉の光子が通っていた甲南高等女学校(現在の甲南女子高校)は、校則もそれなりにきちんとあり、昔から制服も着用している。

さくらや健太郎は制服のままで「ヨーソロー」にやってくるが、龍一も含めて高校生が出入りすることに本人たちも他の客も店主もまったく気にとめていないところをみると、彼らの間では、あの界隈の高校には喫茶店の出入り禁止という校則はないという認識が共有されていたと受けとめるしかないだろう。

実際、1960年代から1970年代にかけては、制服着用も含めて高校生のころからジャズ喫茶に行っていたという話は、私自身のケースも含めて、ジャズ・ファンの間ではたくさん聞くことができる。禁止という高校もあっただろうが、そこまでは関知しないという高校が少数派だったというわけでもなさそうだ。

また、ジャズ喫茶に良家の子女は来なかったかというとそうでもなく、出光興産の創業者の四女で、大学3年生のときにホレス・シルバーの『トーキョー・ブルース』(1962年)のジャケットに着物姿で登場してジャズ・ファンを驚かせ、のちにニューヨークに渡って映像作家になった出光真子のような女性もいた。彼女の場合はいつも親の目を盗んでいたようだが。(次ページへ続く)

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