さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ③

さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ③

 『モズ/MOZZ』の最重要人物、軒口隆策

「モズ/MOZZ」の3代目店主、〝オババ〟こと菅野裕子ママが亡くなったのは1996年の3月14日だった。

ママの誕生日の翌日の3月4日、「モズ」のすぐそばのマンションの自室で倒れているところを発見されて、新大久保の救急病院にかつぎこまれた。おそらく、めまいか何かに襲われたのだろう、意識を失い倒れたときに頭部を強打して脳挫傷を負ったのが致命的となり、昏睡状態から回復することなくその病院で息を引きとった。

ママが昏睡状態の間、病院に壮年の男性の見舞い客ばかりがたくさんやってくるのを見て、医師や看護婦から「この患者さんはどんな素性の人なのですか?」と親族はよく尋ねられたという。

そして3月16 日に新宿区上落合の落合斎場で葬儀を行い、ママの遺体を焼き、その骨を高尾霊園に埋葬した。

通夜の弔問や出棺のときには、ジャズ関係者から元全共闘まで、どうも堅気にはみえない、いかつい顔ぶれが黒服を着てズラリと並んだものだから、町内会の世話人さんたちから「その筋の姐さんですか?」とも尋ねられたという。

なかには式服のかわりに濃紺の地に太いペンシルストライプの派手なスーツを着てやってきて、それじゃあヤクザそのものだと、湿っぽい空気を吹き飛ばして笑いをとっていた者もいた。

それから約1年後、ママの実妹の〝おはるさん〟を中心に、おはるさんと中学に上がったばかりのその息子、私を含む「モズ」の常連や関係者——最後のマスターとなった4代目のクニさん、「モズ」を経済的に支援した現代ジャズ愛好会のT先輩、幹事長だったK先輩など、正確な人数は覚えていないが、総勢7人か8人ぐらいでツアーを組んで香港に2泊3日の旅に出かけた。

香港大学に留学中だったもう一人の〝裕子〟を訪ねるのが目的だった。

ママと同じ名前ということもあってか、私と同じ学年のジャズ研仲間で、常連だった裕子とママはとても気が合って、ママが倒れる前日まで2人は電話や手紙でやりとりをしていた。

ママは倒れる前までずっと、「香港の裕子に会いに行きたい」と言っていたので、その慰霊をかねての旅行だった。

つい最近、いまは川崎で暮している裕子の縁でおはるさんと連絡が取れて再会した。香港旅行以来だから、19年ぶりだった。

おはるさんとモズのママとは20ぐらい歳が離れていたが、姉妹の仲はよく、おはるさんは手伝いで「モズ」によく来ていた。ほんとうの名前は「晴美」というのだが、ママがいつも「おはる」と呼ぶので「モズ」の客も「おはるさん」と呼ぶようになった。

おはるさんとは昔からたくさん話をしてはいたのだが、謎の多い「モズ」のママの半生についてはあまり聞いたことがなかった。

たとえばその年齢については「けっして口外してはならん」とママからおはるさんに厳しい箝口令が敷かれていたのだが、ママがこの世からいなくなってもう20年もたったわけだし、そろそろ訊いてみても差し支えないだろうと思って試しにおはるさんにうかがってみたら、あっさりと教えてくれた。ただし、ここに書き記すのはやはりまだ気がひける。

おはるさん夫婦の家は静岡にあるのだが、夫の仕事の都合で十数年前から名古屋に住んでいた。

尾張徳川家ゆかりの日本庭園、徳川園のある白壁地区は、名古屋ではちょっとしたハイソなエリアとして知られているが、おはるさん夫婦が借りているマンションはその近くにあり、いちばん場所がわかりやすいこの街の「コメダ珈琲」で19年ぶりに会うことになった。

芸能人のような大きなサングラスをかけ、ひっつめ髪で、ゆったりとしたちょっとエスニックなデザインのチュニックを着て「コメダ珈琲」に現れた小柄なその姿は、生前の「モズのオババ」にそっくりだった。

おはるさんはちょうどオババが死んだときと同じくらいの歳になっていた。

「姉(ママ)は『モズ』の3代目店主になるのよね。いちばん最初は老夫婦がやっていて、その頃はまだ学生だった大橋巨泉が通っていたとノンちゃんが言っていたわ」

「2代目は40代ぐらいの中年の女性で、ノンちゃんは『おねえさん』って呼んでいた。ノンちゃんは、大学に入ってすぐにその2代目の『モズ』でアルバイトを始めたんだけど、大学3年のときにうちの姉に経営者が替わっても、彼はそのまま『モズ』で働き続けたのよね」

ひさしぶりにおはるさん独特の、ちょっとトボけた感じのするノンビリとしたイントネーションのしゃべり方を聞いた。声色は昔よりもママによく似てきていた。

ノンちゃんとは、のちにジャズ評論家となった軒口隆策(のきぐちりゅうさく)のことだ。

軒口は1946年、東京に生まれた。早稲田大学モダンジャズ研究会の出身で、20代後半から『jazz』(ジャズピープル社)、『ジャズランド』(海潮社)でジャズ評論を書き始め、『ジャズ批評』(ジャズ批評社)や『ジャズライフ』(立東社)などで活躍した。

「姉は『モズ』を始めた頃は、ジャズについてはなんにも知らなくて、ほとんど素人だった。だけど、ノンちゃんが店で働き続けてくれるというから、店をやれると思ったみたい」

「2代目のときから、ノンちゃんがレコードを買ったり、かけたりして店を仕切っていたのね。居抜きでレコードもオーディオもぜんぶそのまま引き継いだけど、お客さんもノンちゃんの馴染みを引き継ぐようなかたちだったのね」(おはるさん)

菅野裕子ママは、東京で生まれ育った。父は、明治大学出身の衆議院の大物議員の下で書生や秘書として長らく働いたという。その大物議員から、地盤を引き継がせるかわりに一人娘との結婚を条件に出されたが、どうしても気乗りしなくて、その話を断わってしまった。

「でも、いまとは違って昔の政治家だからケチくさいところがないのね。いったん断わった父に、わかった、縁談の話はなかったことにするから、そのまま地盤を受け継いでくれと頼まれたの」

「ただ、父もさすがに申し訳なくてその話も辞退したら、その議員が静岡にある製紙会社のけっこうなポストを斡旋してくれてね、そのとき父は40代半ばで、それから最後までふつうの会社員だったわ。静岡、大阪、滋賀、唐津と転勤して、小さかった姉もそれについていった。最後に落ち着いたのが世田谷だった」(おはるさん)

おはるさんとママとは歳がかなり離れているが、ママには、年子の弟が2人いる。小さい頃は、家には子守り用のお手伝いさんと家事をするお手伝いさんの2人がいて、ママの実母は子育てにはあまり熱心ではなく、ママはそのお手伝いさんに大事に育てられたようだ。

「姉は、和風の顔立ちでいっけんおしとやかで優しそうなのよね。私は祐天寺で育ったんだけど、目黒の写真館に、新日本髪を結って着物を来た若い女性の大きな写真がずっと飾られていて、その写真館の前を通るたびにどこかで見たことがある人だなーと思ってたら、母からそれは姉だ聞かされて『ええーっ』ってびっくりしたわよ(笑)」

「写真館の主人が姉のことをとても気に入って、たくさん写真を撮ったらしいんだけど、そのなかでいちばんのお気に入りを店で飾ってたのね。そういえば姉は、祐天寺あたりではなんとか小町とか言われてたらしいわよ」(おはるさん)

言われてみれば、ママもおはるさんも、色白の小顔で目はパッチリと開いていて、新日本髪がよく似合いそうだ。

おはるさんが言うように「モズ」のママは、いっけんおしとやかで、そして付け焼き刃ではけっして身につけることのできない「品」のようなものがあった。

「姉に『おまえの仲間はみんなペーペーばっかりだ』とバカにされたことがあるんだけど(笑)、確かに姉は人ウケが良くて、一流の人、ひとかどの人たちとのおつき合いが多かったわね。元華族とかどこかの石油会社の社長とか新聞社の幹部とか」

「はじめは社会的地位はそれほどでもなくても、だんだん偉くなっていって。また、そういう人たちのお友達もみんな立派な人だから、どんどん付き合う人たちが立派になっていくのよね」(おはるさん)

おそらく父が大物国会議員の元秘書だったこともあってママの家には政財界の有力者たちが多く出入りしていて、そうした人たちの間でも気に入られたのだろう。若いころからママは、そうした人脈で得た自分の〝仲間〟と連れ立って東京の街を食べ歩きするのが好きだったという。

「姉が最初に開いたのは、新橋の小さなバーだったのよ。ちょっとお洒落な、常連の人ばかりを相手にするような店だった」

「仲間と連れ立って食べ歩きや飲み歩きをしているうちに、そこで知った店の手伝いをするようになって、そうしてこつこつ貯めたお金で店を開いたみたいね。この新橋の店で、バーテンダーや女の子を雇ってママさんと呼ばれる商売を始めるようになったの」

「才覚があったみたいで、しばらくして自由が丘にとんかつ屋も開いたわ。目黒に『とんき』という有名なとんかつ屋がいまもあるわよね。姉はあそこが大好きでよく通っていて、自分もこんな店をやりたいって言ってたんだけど、そのうち自由が丘の駅近くの角にいい物件があると聞いて、日本料理の板前さんを雇ってそこで『とんこ』という名前のとんかつ屋をはじめたの」(おはるさん)

ママが新橋でバーを開き、自由が丘で2軒目の店となるとんかつ屋を始めたのは、おそらく1950年代の終わりから60年代半ばぐらいのことだろう。

「姉の弟が、早稲田のジャズ喫茶の主人が店を手放したがっているという話を知り合いから聞きつけて、それを姉に教えたのがきかっけだったの。姉はその物件を見に行って、すぐに気に入ったみたい」

「そのころ姉は大田区の山王に住んでいたんだけど、そこから新橋や自由が丘の店に通うのがもうしんどくなっていたと言ってたわ。それでその2軒を処分して、『モズ』を買ったの」(おはるさん)

ママがどういう理由で「モズ」を気に入ったのかは、よくわからない。おそらく、当時はまだジャズ喫茶ブームが続いていて、それが有望な商売にみえたということもあっただろう。

また軒口隆策という、店の勝手をよく知ったジャズマニアが、いわば「居抜き」でスタッフとして残ってくれたことも大きかった。おそらくママと軒口は、すぐに意気投合したに違いない。

軒口隆策は、モダンジャズブームが爆発した60年代始めの中学生の頃からジャズを聴き始め、アルトサックスを吹き始めた早熟な少年だった。高校生になるともう新宿のジャズ喫茶に入り浸っていたという。

1965年に早稲田大学に進学してからはモダンジャズ研究会に入り、タモリや増尾好秋とは同期で一年先輩に鈴木良雄がいた。
(次ページへ続く)

「ジャズ喫茶案内」運営管理人。1959年生まれ。高知県出身。ジャズ喫茶初体験は18歳。ジャズライブ初体験は1978 年、 ジャズ喫茶「アルテック」(高知)でのビル・エヴァンス・トリオ。東京での出版社勤務を経て2013年、名古屋移住。jazzcity代表。

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