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さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ③

さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ③

 『モズ/MOZZ』の最重要人物、軒口隆策

「モズ/MOZZ」の3代目店主、〝オババ〟こと菅野裕子ママが亡くなったのは1996年の3月14日だった。

ママの誕生日の翌日の3月4日、「モズ」のすぐそばのマンションの自室で倒れているところを発見されて、新大久保の救急病院にかつぎこまれた。おそらく、めまいか何かに襲われたのだろう、意識を失い倒れたときに頭部を強打して脳挫傷を負ったのが致命的となり、昏睡状態から回復することなくその病院で息を引きとった。

ママが昏睡状態の間、病院に壮年の男性の見舞い客ばかりがたくさんやってくるのを見て、医師や看護婦から「この患者さんはどんな素性の人なのですか?」と親族はよく尋ねられたという。

そして3月16 日に新宿区上落合の落合斎場で葬儀を行い、ママの遺体を焼き、その骨を高尾霊園に埋葬した。

通夜の弔問や出棺のときには、ジャズ関係者から元全共闘まで、どうも堅気にはみえない、いかつい顔ぶれが黒服を着てズラリと並んだものだから、町内会の世話人さんたちから「その筋の姐さんですか?」とも尋ねられたという。

なかには式服のかわりに濃紺の地に太いペンシルストライプの派手なスーツを着てやってきて、それじゃあヤクザそのものだと、湿っぽい空気を吹き飛ばして笑いをとっていた者もいた。

それから約1年後、ママの実妹の〝おはるさん〟を中心に、おはるさんと中学に上がったばかりのその息子、私を含む「モズ」の常連や関係者——最後のマスターとなった4代目のクニさん、「モズ」を経済的に支援した現代ジャズ愛好会のT先輩、幹事長だったK先輩など、正確な人数は覚えていないが、総勢7人か8人ぐらいでツアーを組んで香港に2泊3日の旅に出かけた。

香港大学に留学中だったもう一人の〝裕子〟を訪ねるのが目的だった。

ママと同じ名前ということもあってか、私と同じ学年のジャズ研仲間で、常連だった裕子とママはとても気が合って、ママが倒れる前日まで2人は電話や手紙でやりとりをしていた。

ママは倒れる前までずっと、「香港の裕子に会いに行きたい」と言っていたので、その慰霊をかねての旅行だった。

つい最近、いまは川崎で暮している裕子の縁でおはるさんと連絡が取れて再会した。香港旅行以来だから、19年ぶりだった。

おはるさんとモズのママとは20ぐらい歳が離れていたが、姉妹の仲はよく、おはるさんは手伝いで「モズ」によく来ていた。ほんとうの名前は「晴美」というのだが、ママがいつも「おはる」と呼ぶので「モズ」の客も「おはるさん」と呼ぶようになった。

おはるさんとは昔からたくさん話をしてはいたのだが、謎の多い「モズ」のママの半生についてはあまり聞いたことがなかった。

たとえばその年齢については「けっして口外してはならん」とママからおはるさんに厳しい箝口令が敷かれていたのだが、ママがこの世からいなくなってもう20年もたったわけだし、そろそろ訊いてみても差し支えないだろうと思って試しにおはるさんにうかがってみたら、あっさりと教えてくれた。ただし、ここに書き記すのはやはりまだ気がひける。

おはるさん夫婦の家は静岡にあるのだが、夫の仕事の都合で十数年前から名古屋に住んでいた。

尾張徳川家ゆかりの日本庭園、徳川園のある白壁地区は、名古屋ではちょっとしたハイソなエリアとして知られているが、おはるさん夫婦が借りているマンションはその近くにあり、いちばん場所がわかりやすいこの街の「コメダ珈琲」で19年ぶりに会うことになった。

芸能人のような大きなサングラスをかけ、ひっつめ髪で、ゆったりとしたちょっとエスニックなデザインのチュニックを着て「コメダ珈琲」に現れた小柄なその姿は、生前の「モズのオババ」にそっくりだった。

おはるさんはちょうどオババが死んだときと同じくらいの歳になっていた。

「姉(ママ)は『モズ』の3代目店主になるのよね。いちばん最初は老夫婦がやっていて、その頃はまだ学生だった大橋巨泉が通っていたとノンちゃんが言っていたわ」

「2代目は40代ぐらいの中年の女性で、ノンちゃんは『おねえさん』って呼んでいた。ノンちゃんは、大学に入ってすぐにその2代目の『モズ』でアルバイトを始めたんだけど、大学3年のときにうちの姉に経営者が替わっても、彼はそのまま『モズ』で働き続けたのよね」

ひさしぶりにおはるさん独特の、ちょっとトボけた感じのするノンビリとしたイントネーションのしゃべり方を聞いた。声色は昔よりもママによく似てきていた。

ノンちゃんとは、のちにジャズ評論家となった軒口隆策(のきぐちりゅうさく)のことだ。

軒口は1946年、東京に生まれた。早稲田大学モダンジャズ研究会の出身で、20代後半から『jazz』(ジャズピープル社)、『ジャズランド』(海潮社)でジャズ評論を書き始め、『ジャズ批評』(ジャズ批評社)や『ジャズライフ』(立東社)などで活躍した。

「姉は『モズ』を始めた頃は、ジャズについてはなんにも知らなくて、ほとんど素人だった。だけど、ノンちゃんが店で働き続けてくれるというから、店をやれると思ったみたい」

「2代目のときから、ノンちゃんがレコードを買ったり、かけたりして店を仕切っていたのね。居抜きでレコードもオーディオもぜんぶそのまま引き継いだけど、お客さんもノンちゃんの馴染みを引き継ぐようなかたちだったのね」(おはるさん)

菅野裕子ママは、東京で生まれ育った。父は、明治大学出身の衆議院の大物議員の下で書生や秘書として長らく働いたという。その大物議員から、地盤を引き継がせるかわりに一人娘との結婚を条件に出されたが、どうしても気乗りしなくて、その話を断わってしまった。

「でも、いまとは違って昔の政治家だからケチくさいところがないのね。いったん断わった父に、わかった、縁談の話はなかったことにするから、そのまま地盤を受け継いでくれと頼まれたの」

「ただ、父もさすがに申し訳なくてその話も辞退したら、その議員が静岡にある製紙会社のけっこうなポストを斡旋してくれてね、そのとき父は40代半ばで、それから最後までふつうの会社員だったわ。静岡、大阪、滋賀、唐津と転勤して、小さかった姉もそれについていった。最後に落ち着いたのが世田谷だった」(おはるさん)

おはるさんとママとは歳がかなり離れているが、ママには、年子の弟が2人いる。小さい頃は、家には子守り用のお手伝いさんと家事をするお手伝いさんの2人がいて、ママの実母は子育てにはあまり熱心ではなく、ママはそのお手伝いさんに大事に育てられたようだ。

「姉は、和風の顔立ちでいっけんおしとやかで優しそうなのよね。私は祐天寺で育ったんだけど、目黒の写真館に、新日本髪を結って着物を来た若い女性の大きな写真がずっと飾られていて、その写真館の前を通るたびにどこかで見たことがある人だなーと思ってたら、母からそれは姉だ聞かされて『ええーっ』ってびっくりしたわよ(笑)」

「写真館の主人が姉のことをとても気に入って、たくさん写真を撮ったらしいんだけど、そのなかでいちばんのお気に入りを店で飾ってたのね。そういえば姉は、祐天寺あたりではなんとか小町とか言われてたらしいわよ」(おはるさん)

言われてみれば、ママもおはるさんも、色白の小顔で目はパッチリと開いていて、新日本髪がよく似合いそうだ。

おはるさんが言うように「モズ」のママは、いっけんおしとやかで、そして付け焼き刃ではけっして身につけることのできない「品」のようなものがあった。

「姉に『おまえの仲間はみんなペーペーばっかりだ』とバカにされたことがあるんだけど(笑)、確かに姉は人ウケが良くて、一流の人、ひとかどの人たちとのおつき合いが多かったわね。元華族とかどこかの石油会社の社長とか新聞社の幹部とか」

「はじめは社会的地位はそれほどでもなくても、だんだん偉くなっていって。また、そういう人たちのお友達もみんな立派な人だから、どんどん付き合う人たちが立派になっていくのよね」(おはるさん)

おそらく父が大物国会議員の元秘書だったこともあってママの家には政財界の有力者たちが多く出入りしていて、そうした人たちの間でも気に入られたのだろう。若いころからママは、そうした人脈で得た自分の〝仲間〟と連れ立って東京の街を食べ歩きするのが好きだったという。

「姉が最初に開いたのは、新橋の小さなバーだったのよ。ちょっとお洒落な、常連の人ばかりを相手にするような店だった」

「仲間と連れ立って食べ歩きや飲み歩きをしているうちに、そこで知った店の手伝いをするようになって、そうしてこつこつ貯めたお金で店を開いたみたいね。この新橋の店で、バーテンダーや女の子を雇ってママさんと呼ばれる商売を始めるようになったの」

「才覚があったみたいで、しばらくして自由が丘にとんかつ屋も開いたわ。目黒に『とんき』という有名なとんかつ屋がいまもあるわよね。姉はあそこが大好きでよく通っていて、自分もこんな店をやりたいって言ってたんだけど、そのうち自由が丘の駅近くの角にいい物件があると聞いて、日本料理の板前さんを雇ってそこで『とんこ』という名前のとんかつ屋をはじめたの」(おはるさん)

ママが新橋でバーを開き、自由が丘で2軒目の店となるとんかつ屋を始めたのは、おそらく1950年代の終わりから60年代半ばぐらいのことだろう。

「姉の弟が、早稲田のジャズ喫茶の主人が店を手放したがっているという話を知り合いから聞きつけて、それを姉に教えたのがきかっけだったの。姉はその物件を見に行って、すぐに気に入ったみたい」

「そのころ姉は大田区の山王に住んでいたんだけど、そこから新橋や自由が丘の店に通うのがもうしんどくなっていたと言ってたわ。それでその2軒を処分して、『モズ』を買ったの」(おはるさん)

ママがどういう理由で「モズ」を気に入ったのかは、よくわからない。おそらく、当時はまだジャズ喫茶ブームが続いていて、それが有望な商売にみえたということもあっただろう。

また軒口隆策という、店の勝手をよく知ったジャズマニアが、いわば「居抜き」でスタッフとして残ってくれたことも大きかった。おそらくママと軒口は、すぐに意気投合したに違いない。

軒口隆策は、モダンジャズブームが爆発した60年代始めの中学生の頃からジャズを聴き始め、アルトサックスを吹き始めた早熟な少年だった。高校生になるともう新宿のジャズ喫茶に入り浸っていたという。

1965年に早稲田大学に進学してからはモダンジャズ研究会に入り、タモリや増尾好秋とは同期で一年先輩に鈴木良雄がいた。

店がジャズ研の〝部室〟に。マネージャーと称していたタモリ

早稲田大学の公認サークルとして発足したジャズ研の中で、もっとも古いのが早稲田大学ハイ・ソサエティ・オーケストラ(通称ハイソ)で設立は1955年。それに続く早稲田ニューオルリンズジャズクラブ(通称ニューオリ)の発足が1957年だった。

モダンジャズ研究会(通称ダンモ)は1950年代後半から同好サークルとして活動をしていたようだが、大学公認となったのは、ピアニストの桝山了などが中心となった1960年からだった。ちなみに桝山はのちにジャズバンド「大橋巨泉とサラブレッズ」に加入して、テレビ番組「11PM」にも出演するようになる。

『ジャズ日本列島』(ジャズ批評社)の1986年版には、モズの創業年月日が1955年6月30日と明記されているが、これはたぶん研究熱心な性格の軒口が調べ上げた情報にもとづくものではないかと推測する。

創業当時から60年代末まで、早稲田大学近辺には「モズ」以外にジャズ喫茶はなかったようなので、ジャズ研に所属していたり、大橋巨泉のようなマニアックなジャズファンの学生たちの多くは「モズ」に来ていたと思われる。

こうした雰囲気の中で、1965年に入学して以来、「モズ」の世話をあれこれと焼いたのが、軒口だった。このころはすでに2代目の女性主人に経営が変わっていたが、この人もジャズは素人だったそうなので、軒口の存在抜きではジャズファン相手の商売はできなかっただろう。

「モズ」のレコードコレクションは、ジャズ批評社の『ジャズ日本列島』によると、1975年版では724 枚、翌1976年版では800枚前後、1986年版では2,000枚となっている。

1976年から1986年の10年間に飛躍的に増えているのは、この間にトリオレコードやDIWなど、レーベル社員のOBたちから毎月かなりの数の新譜見本盤が寄贈されていたことに大きな要因があるだろう。

また70年代末ごろから、レコードはかつてほどには高価なものではなくなり、部員やOBが、いらなくなったものや店で自分が聴きたかったもの、また「モズ」のリストに加えるべきと考えたレコードを店に置いていくケースがそれまで以上に増えたこととも関連があるだろう。

70年代末ごろの、700〜800枚前後だった「モズ」のレコードコレクションは、少数精鋭で必要最小限のものしかない、実にコンパクトによくまとまったものだった。

戦前のトラディショナルなものから主流派、新主流派、フリージャズやフュージョンにいたるまで、あまり偏りのない、バランスのとれたものだった。

ベテランのジャズ喫茶マスターになると、店で本当に必要なレコードというのは数百枚程度でいいという話をよくするものだが、「モズ」のレコードはそういうものだった。それは長年、この店に出入りしていた学生やOBたちによって練り上げられていったコレクションだった。

おはるさんによるとママが「モズ」を手に入れたのは軒口が大学3年だったときだったというので、1967年ということになる。この当時、店ではモダンジャズ研究会の例会が行なわれ、部員もずいぶん出入りしていたようだ。

「その頃は、タモリ、増尾ちゃんがよく来ていた。チンさん(鈴木良雄)はあんまり来なかったわね」

「タモリは『ジャズ研のマネージャーをやってるもんですから見回りに来ました』って言っては、お金がないからってタダで珈琲を飲んでたわね(筆者注:タダではなくツケだった可能性もあり)。しょっちゅう〝見回り〟に珈琲を飲みに店に来ては出ていって、それでまた店に帰ってきたり」(おはるさん)

1965年に早稲田大学に入学したタモリは、翌66年には学費未納で除籍処分になる。ただ〝中退〟後もそのままモダンジャズ研究会にマネージャーとして出入りしていたというから、ちょうどママが3代目になったばかりのころだ。

私も、ママからタモリとの話は何度か聞いた。2人は波長が合ったようで、お金がなかったタモリがよく店に来ていたということも聞いた。また、ママが夜遅く独りで帰るときは、タモリがガードマンと称してママの自宅近くまで送り届けてくれることもあったようだ。

モダンジャズ研究会のたまり場となったことで、「モズ」には独特のルールが生まれた。部員なら珈琲1杯でなんどでも店に自由に出入りできたのである。

たとえば、昼過ぎに店にやってきて珈琲を一杯飲んで、それから荷物を置いてノートとペンだけを持って「授業に行ってきます」と出かけて、授業から帰ってくるとコップの水一杯だけで閉店までいることができた。

授業だけでなく、「モズ」で4人揃うと隣の雀荘に行って遊んでからまた帰ってくる者たちや、アルバイトに出かけて、終わると「ただいまー」と戻ってくる者、夕食に出かけて家には帰らずまた戻ってくる者もいた。

ワン・オーダーさえすれば、開店から閉店まで出入り自由、このルールは一般の学生や大人には適用されなかったがジャズ研(ダンモや現代ジャズ愛好会)に所属している者にはそれが許された。

いつからそうなったのかはわからないが、おそらく軒口やタモリの頃にこういう習慣が生まれたのではないかと思う。

おはるさんが振り返る。

「ダンモのイトウくんだっけ? みんなにカボチャ、カボチャって呼ばれてた人。政経学部だったかしら。彼にはしょっちゅう替わりに授業に行かされたわ。大教室で、回ってくるメモ用紙のような小さな出席票に名前と学籍番号を書いて提出したら出席扱いになるわけ。自分はずっと『モズ』にいて、『おはるさん、行ってきてよ』とかいって私を使うわけ」

明るくて気のいいおはるさんは、ママや周囲の人からよく「使われていた」ようだ。

おはるさんは、早稲田の「モズ」やゴールデン街の「百舌鳥」の手が足りないときは、ひんぱんに助っ人として駆り出された。新宿5丁目にモダンジャズ研究会OBが開き、タモリが「取締役宣伝部長」を買って出ていることで知られるジャズクラブ「JAZZ SPOT J」があるが、「モズ」のママの指令でこの店の手伝いをさせられたこともあったという。

ところで、ママのことを「ごうつくババア」と呼ぶ人もたまにいたが、たしかに商売をやっている人間ならではの金銭に対するこだわりや細かなところもあったが、こと学生に対してはほんとうに寛容だった。

おそらく若いころから政財界の羽振りのいい友人や客たちを相手にしてきたママにとって、「モズ」に出入りするペーペーの学生たちの懐具合などは、ハナから期待していなかったのだろう。

ただ、なかには不心得な者もいて、水だけ飲んで珈琲も何も頼まずに帰ろうとするときだけは、「ちょっとアンタ、オーダーをまだ何もしてないわよ」とハッキリと注意して注文を取り立てた。

ここで思い出したのだが、「モズ」の扉をあけるとすぐ左手にカウンターがあって、このカウンターで何もオーダーしないまま立ち話をしばらくしてからそのまま帰るという学生もたくさんいた。店の席に座ってしまうと何かを頼まないと帰れなかったが、カウンターでの立ち話だけならママは見逃してくれた。

タモリも「見回りにきました」と言って立ち話をしては帰っていったという話をママがしてくれたことがあった。タモリに限らず、誰が来ているかを確認するためだけに店にやってくる学生はたくさんいた。

学生たちに対しての寛容さというのは店でかける音源に対してもあって、なかにはジミ・ヘンドリックスのようなロックを持ち込んでかける者もいたが、たいていママは何も注意しなかった。

私もレゲエやファンク、R&B、ブルース、アフリカンポップスと、いろいろなものをかけさせていただいたが、ママは何も怒らなかったし、ときには「コレ、いいわね」ということもあった。

ジャズについてはまったく知識もなかったママだが、長年店で聴いているうちに自然に彼女ならではの批評眼が培われていったようだった。出発点がジャズファンではなかっただけに、かえっていろんなジャンルのものにこだわりなく関心を示した。

ただ、ママにはママなりのモノサシがあったようで、それにかなわない音源をかける者に対しては、「ちょっとアンタ、いいかげんにしなさいよ。ここはジャズの店なんだから」と厳しく注意した。

いずれにしても「モズ」は学生街という立地ならではという営業形態の店だった。

「姉は『モズ』をやる前から新宿あたりのジャズバーにはときどきでかけていて、そのうち自分もやってみたいと思うようになったんでしょうね。ノンちゃんが授業に出ているときはジャズ研のほかの学生がカウンターの中に入ってやってくれたし」

「姉はジャズをなんにも知らなかったけど、店に来る客がジャズに詳しかったもんだから、そういう人たちがぜんぶ姉の手足になってやってくれたのよね」(おはるさん)

ジャズ研部員が店番やレコード係をはじめ、珈琲や軽食を客に出したりといった仕事を手伝うのは、長年の「モズの伝統」だった。私もずいぶん、店を手伝った。私と同い歳でいまは渋谷の「メアリージェーン」の店主をやっている松尾史朗も、1年ぐらい、ほぼ専従というかたちで店を手伝っていた。

おそらく、初代の老夫婦や2代目の女店主のころはここまでユルくはなく、喫茶店として通常の営業形態だったのだろう。「モズ」がジャズ研の部室のようになっていったのはママの代からではないだろうか。

 ナベサダが「モズ」でジャム・セッション

「モズ」がいちばんにぎやかだったのは、軒口たちの世代の頃ではないだろうか。

「あの頃はね、ナベサダ(渡辺貞夫)がおしのびでときどき店に来ていたみたい。当時は店でダンモのジャム・セッションをやることもあって、一度、ナベサダが参加したこともあったのね。私は残念ながらその場にいなかったんだけど」

「そのときはもう、すごいたくさんの人が集まって、店の中に入りきらなくて、2階の『モズ』から1階まで階段に人だかりができていたんだって。1階の八百屋さんの前や階段下のトイレのあたりまで人でいっぱいになったって。店に入れない人はタダでいいからということで、店のドアを開けて外でずっと聴いていたみたい」(おはるさん)

渡辺貞夫が「モズ」にたまに来ていたというのは、おそらく当時ダンモにいた増尾好秋や鈴木良雄との関係からだろう。

軒口と同期の増尾はのちにニューヨークに渡り、ソニー・ロリンズのバンドのレギュラー・ギタリストとしてその名を世界的に知られるようになるが、1年生のときから「モダンジャズ研究会始まって以来の逸材」として注目され、1968年からは渡辺貞夫グループのメンバーに抜擢された。

また増尾より一学年先輩で、のちにスタン・ゲッツのバンドやアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのレギュラーとして活躍した鈴木良雄も、1969年から渡辺貞夫グループのベーシストとして増尾とともに在籍していた。

ナベサダの「モズ」でのセッション参加はこのような縁があったからこそのものだろう。

早稲田大学モダンジャズ研究会は、発足当初は「演奏部」と「鑑賞部」があった。

1950年代後半 からプレイヤーのみの同好会としてその母体が活動していたようだが、大学公認サークルとなるためには会員数を増やすことが必要ということで「鑑賞部」を設けたらしい。

「演奏部」からは鈴木良雄や増尾好秋をはじめ、たくさんのプロミュージシャンを輩出した。またジャズクラブやジャズ喫茶経営者も多い。「鑑賞部」からは、岡崎正通や小西啓一、スイングジャーナル編集長の村田文一などが出た。

しかし1969年にこの「演奏部」と「鑑賞部」が分裂、「鑑賞部」が脱退して「現代ジャズ愛好会」が生まれた。

仲違いの理由は、「ジャズ・レコードを真剣に聴かずに思想性のないジャズをやっている」(鑑賞部)、「演奏もできない〝聞き専〟にジャズがほんとうにわかるのか」(演奏部)といった類の意見の対立があったと聞いている。

1969年の『スイングジャーナル』の読者投稿欄で、現代ジャズ愛好会の会員募集の呼びかけが行なわれている。その文面を抜粋しておこう。

このほど17名の有志を率いて発足した当愛好会は、ヤング・パワーの結集である。現在は、活躍中のプレイヤーの個別的研究や、レコード批評などを主な活動内容としている。

新宿区戸塚1 喫茶「もず」 Tel.(203)4489   新屋紀昭

『スイングジャーナル』1969年10月号「SJアンテナ」より抜粋

「もず」の住所が「戸塚1」となっているが、これは新宿区によって住所表示の変更がされる1975年以前のものだからだ。『ジャズ日本列島』1975年版には「モズ」の住所は「新宿区戸塚町1-568」とあるが、翌年発行された同誌の1976年版には「新宿区西早稲田1-14-14」と現在と同じ住所表示に変わっている。

分裂前のモダンジャズ研究会は、「モズ」で定期例会を行なっていたが、現代ジャズ愛好会が生まれてからは同会がそこで例会を行なうようになり、ダンモ部員たちは徐々に店とは疎遠になっていったようだ。

両方のサークルを掛け持ちする者もいたが、1975年に高田馬場にジャズ喫茶「イントロ」がオープンしてからは、ダンモ部員の多くはこの店をたまり場とするようになった。

また1981年には早稲田通り沿いで高田馬場駅寄りのところに、タモリや増尾好秋より1年後輩のモダンジャズ研究会のドラマーで、「モズ」にも通っていたという城石博通が経営するジャズ喫茶「ドキシー」もオープンした。

ダンモ部員が遠ざかっていくなかで、軒口隆策は最後まで「モズ」に通い続けた。

OBたちの要請を受けて70年代の半ばに新宿ゴールデン街に姉妹店のジャズバー「百舌鳥」ができてからは、そこで飲むことのほうが多かったが、それでも週1回の例会が開かれているときには、よく「モズ」のカウンターに座って飲んでいた。

現代ジャズ愛好会の例会というのは、毎回発表者が約2時間、ある特定のテーマのもとに選んだレコードを何枚かかけながら、自身の意見や感想、ジャズ論を発表するというものだった。月に1回はブラインドフォールド・テスト(聴き手に事前に情報を与えずに演奏者を言い当てさせるゲーム。目隠しテスト)が行なわれていた。

軒口は、先輩風を吹かせることもなく、いつも黙ってその例会に耳を傾けていた。

大学卒業後、軒口は楽器やレコードを販売したり、音楽教室を運営している銀座十字屋に就職し、そこで働きながらジャズ評論を書き始めた。

商業誌へのデビューはおそらく『jazz』(ジャズピープル社)で、同誌の1975年4月号でフィル・ウッズ、同年5月号でチャーリー・パーカーについての本格的な長文を2号続けて寄稿している。

その後『ジャズランド』(海潮社)が1975年9月に創刊されてからは、しばらくの間、同誌を中心に執筆した。同誌の編集長は、早稲田のモダンジャズ研究会出身で、軒口の2年後輩にあたる村田文一だった。村田は創刊当時まだ27歳で、杉田誠一編集人の『jazz』誌の1969年創刊号からのスタッフという経験をへての抜擢だった。

『ジャズランド』には、モダンジャズ研究会出身の岡崎正通や小西啓一をはじめ、平岡正明、悠雅彦、黒田恭一、川本三郎、安原顯など早大出身の執筆者が多く、まるで「ワセダランド」という趣だった。

また、村上春樹も、のちに広く知られて評判になった「ジャズ喫茶のマスターになるための18のQ&A」という一文を創刊号の読者投稿欄「解放区」に寄稿したり(創刊号なので投書ではなく依頼されたものだろう)、当時経営していたジャズ喫茶「ピーターキャッツ」の広告を出稿するなど、他のジャズ専門誌よりも同誌とのつながりははるかに強かった。

もちろん早大出身者だけではなく、間章、鍵谷幸信、中野宏昭、池上比沙之、奥成達、岩浪洋三、瀬川昌久、岡村融、岩崎千明など、この時代のジャズやオーディオ言論界を代表する執筆者も数多く寄稿していた。

軒口のジャズ評論は戦前ジャズからフリージャズやフュージョンまで、その守備範囲は広く、あまり偏りがなかった。

プレイヤー出身らしくジャズの楽理やプレイヤー視点に裏付けされた理詰めの論を展開はするものの、難解な専門用語や概念を持ち出して相手を煙に巻くというよりも、その解説は平易であることを心がけているようだった。

洞察力にすぐれ、物事の核心を逡巡することなく掴みとってそれをポンと目の前に置くというスタイルで、歯に衣着せぬ、向こう傷も恐れないという不敵な一面があった。

軒口の評論にもっとも近いものを挙げるとすれば、それは大橋巨泉ではないかと私は思う。

『ジャズランド』が1977年に休刊してからの軒口は、同年に創刊した『ジャズライフ』(立東社)や『ジャズ批評』を主な執筆の場とした。

また、『ジャズランド』編集長だった軒口の後輩、村田文一は、1993年から『スイングジャーナル』編集長となるが、1999年に現役編集長のまま、51歳の若さで急逝している。

『ジャズランド』の中から軒口の一文を抜粋しよう。1975年11月号の山下洋輔トリオの『クレイ』についての月評から、その前節の部分。彼が29歳のときの論考である。

音楽の前衛というものを考えると、三角形の底辺の様に広いオーソドックスに対して、上方の角の様に鋭い先鋒として前衛が現れる訳だが、ジャズに限って考えると、所謂、オーソドックスをふくめ、10年もすればまったくスタイルが変わってしまうタイプの音楽であるので、逆三角形の上辺の様に広がりを持った前線があり、そのすべてが前衛から刺激を受けながら変化していくという形が考えられる。

つまり、ジャズの様に休むことなく変化する音楽に正当に荷担している音楽家は他の音楽とくらべ、基本的に自らを後衛に甘んじさせない姿勢を持っているので前衛の意味が拡散してしまうのだが、それらの中でも犠牲を払いつつ突進する鋭い部分、たとえば60年のコールマン、64年のアルバート・アイラーの様な部分があり、これを狭義での前衛と呼ぶべきだろう。

なぜこういうことを書いたかというと、前衛ジャズという言いかたが、一般に、フリー・リズム、アウト・オブ・コード等、ある種の方法論により規定されるフリー・ジャズを指すことが多く、これは例えばモダン・ジャズが、いつまでも「モダン」であり得ない様に、確立された「前衛ジャズ」が永遠に「前衛」の位置にある訳もなく、ひところ言われた「前衛ジャズ」は完全にジャズの一形式として固定してきたと思えるからだ。

この様に、スタイルとして確定したいま、そのスタイルの洗練を課題とすべき前衛=フリー・ジャズの最も爛熟した姿を示すのが山下トリオである。

だから坂田が、「自分で演っているのを前衛と思わない。又、フリーという考え方自体もう古い」と言っているのはまったく正しい。山下トリオはまるで、スイングや、ハードバップを演奏する様にフリーを演奏する世界でも珍しいフリー・ジャズ・ユニットである。

『ジャズランド』(海潮社)1975年11月号p110より抜粋

これは、軒口のジャズ評論の中ではやや理屈っぽいものであるが、彼のジャズ観がよく現れていると思う。

自身の構築した論に現実のジャズの状況をあてはめて断じるよりも、まず現場でジャズに何が起こっているのかをよく見定めたうえで、自分なりの解釈、受け止め方をそこに適用して語る柔軟性に軒口の特徴があり、それゆえの間口の広さが彼にはあった。

モズ2号店計画とその挫折

「モズ」に転機が訪れたのは1980年代の半ば頃だった。

ママが体の不調を訴えることが多く、店を開けるのが遅くなり、休みがちになった。

おはるさんによれば、窓がなく小さな換気扇がひとつあるだけという貧弱な空調施設の「モズ」で、長い間客の煙草から吐き出される副流煙を吸い続けたことも体調を損なわせた一因だったという。

この頃から血栓予防のために血液をサラサラにする薬を常用するようになっていたが、ママが倒れて脳挫傷を負ったとき、この薬のせいで脳内の出血が止まらなくなったのもよくなかったという。

寝込んで開店時間の12時を過ぎてもママが来られないときは、学生の誰かが近くのママの自宅マンションに行って鍵をもらい、学生たちだけで店をあけて営業を始めることも多くなった。

新宿ゴールデン街の姉妹店「百舌鳥」も閉めてしまった。

そんなとき、軒口が「モズ」の2号店を新宿で始めるという計画が持ち上がった。

「ノンちゃんは学生の頃からゆくゆくは『モズ』を引き継ぎたいという話をしていたのよね。それで新宿の歌舞伎町にいい物件が見つかったということで、2号店を出そうということになったの」

「売上の何割かをママに渡して、早稲田の店はママが細々と続けていくということで話がまとまったの。手付け金の30万円をすでに払って、あとは内装工事をノンちゃんの好きなようにやればいいというところまできていたのよ」(おはるさん)

その矢先に、軒口が倒れた。本人の気づかぬうちにすい臓を患っていたのだ。

「夜中にとつぜんお腹が痛くなって、七転八倒しながら救急車で病院に運ばれたの。医者が処置をしようとお腹を開けてみたら、すい臓が溶けだしちゃってて、もう手の施しようがなかったみたい」

「ノンちゃんは、高校生ぐらいのころから睡眠薬を飲んでいたらしいの。高校生のときはまさかと思うけど、いつも睡眠薬をお酒で流し込んでいたのよ。ふつうは水で飲むものでしょう。新宿のジャズ喫茶に入り浸っていたころに覚えたみたいね。『夜どうしても眠れないんだ』ってノンちゃんが話してくれたことがあったわ」(おはるさん)

軒口は入院してすぐに亡くなった。41歳という若さだった。ジャズ評論家としてまだ一冊の単著も共著も上梓していなかった。

「ノンちゃんは『ジジイになったらヒゲを生やして、パイプをくゆらせて、お客さんからリクエストがあったら〝えー、こんなのかけるのー?〟とかいいながらお客さんの好きなものをかけてあげたり、自分の好きなものをかけていたい』って言ってたのよね。彼はお酒も好きだったけど、おつまみとかを作って人に食べさせてあげるのも好きだった」(おはるさん)

吉祥寺「メグ」の店主寺島靖国の初の著書『辛口JAZZノート』(日本文芸社)が10万部を越えるベストセラーとなったのは、軒口隆策が亡くなった1987年だった。

これをきっかけにジャズ喫茶店主がクローズアップされるようになり、四谷「いーぐる」の後藤雅洋をはじめ、神保町『響』の大木俊之助や吉祥寺『ファンキー』の野口伊織、中野「ビアズレー」の原田充、「A&F」の大西米寛、高田馬場「イントロ」の茂串邦明、「マイルストーン」の織戸優、一関「ベイシー」の菅原正二など、ジャズ喫茶マスターの論客がジャズ・メディアをにぎわす時代、「おやじ派の時代」(『ジャズ喫茶リアル・ヒストリー』後藤雅洋/河出書房新社より)がやってくる。

もし、後藤雅洋より一歳上の同世代で、ジャズ専門誌の執筆者としてのキャリアをすでに十分に積んでいた軒口が計画通りに新宿にジャズ喫茶を開いていたら、彼もまたその〝ジャズ喫茶おやじ〟たちのなかに名前をつらねていたにちがいない。

軒口がアルトサックスをやめたのは、自然気胸を発症して肺に穴が空いてしまったからだという。

元来自然気胸というのは、青白く瘦身の文学的美青年がかかる病のような印象があるが、実際の軒口の容貌は、ツルの太い黒縁メガネをかけた、大橋巨泉といソノてルヲと岩浪洋三と新橋のサラリーマンを足し合わせたような、がっちりとしたものだった。

だがいっけん磊落にみえても、私のようなひと回り以上も年下の後輩に対しても初対面のときは丁寧語を使うようなシャイなところがあった。

真夏のある夜、真っ白い紬の浴衣を着て上機嫌で「モズ」に現れ、カウンターで水割りを飲んでいた軒口の様子が、私の中ではいちばん印象深く、いまもその姿を思い出すことができる。

「あの人も人付き合いが駄目で、孤独症で、ジャズはものすごい好きだから、最後までジャズに携わって死にたいって言ってた。ノンちゃんみたいに、『モズ』の雰囲気が好きで、『モズ』とジャズをこよなく愛してという人でなければ、あの店は続けられなかったのよね」(おはるさん)

「モズ」はママが亡くなる2年前の1994年に、すぐ近くの早稲田通りに面した場所に移転してジャズバーとしてリニューアル・オープンした。かつて現代ジャズ愛好会に所属し、私と同い歳の橋本邦彦が雇われ店長として4代目を継いだ。

そしてママの死から7年後の2003年、「モズ」は経営不振のために閉店した。

(文中は敬称略とさせていただきました)

text by katsumasa kusunose@jazzcity

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【写真:西早稲田のジャズ喫茶「モズ」のマッチ/画像提供:松浦成宏】

 

 

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  1. by 大野温子

    失礼します。1977〜81年、現代ジャズ愛好会に所属し、もずに通っていました。私は第一文学部でした。
    現在は、趣味でたまにジャズミュージシャンのイラストを描いたりジャズ歌詞を和訳したりしています。
    ツイッターからたまたま「もず」の記事を見つけました。
    裕子ママ、おはるさんなど、当時が懐かしすぎてしばし見入ってしまいました。
    部員さんもうろ覚えですが、楠瀬さんのお名前、聞いた気がします(勘違いでしたらご容赦)。
    もずを継いだ橋本さんは教育学部の、ママと気があった裕子ちゃんは学短?の女性のことでしょうか。
    もずの閉店、ママの逝去など、後になって風の便りに耳にしました。
    もずの来歴やママのプロフィールなど、とても興味深かったです。書いてくださってありがとうございます。

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