ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶となったのか

ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶となったのか

日本のモダン・ジャズ黎明期のジャズ喫茶

秋吉敏子や渡辺貞夫らは、ジャズ喫茶という名のライブスポットで仕事をするいっぽう、最新のモダン・ジャズのレコードを揃えたジャズ喫茶で本場アメリカのトレンドを勉強していた。そうしたジャズ喫茶のなかでももっとも早い時期に知られていたのは有楽町の「コンボ」だ。

この店については渡辺貞夫や岩浪洋三などがふれてきているが、いちばん詳しく語られているのは相倉久人の『至高の日本ジャズ全史』(集英社)だ。

相倉が「コンボ」を知ったのは1952年4月に東京で行なわれたジーン・クルーパ・トリオ公演の帰りだった。

コンサートが終わって会場を出ようとしたとき、誰かが「この近くにジャズのレコードを聴かせる店があるので寄ってみないか」といい出した。

ちょうど二、三人前を歩いていた牧さん(筆者注:ジャズ評論家の牧芳雄)も誘ってそこへ向かった。

場所はJR有楽町駅前の、中央口と京橋口のちょうど中間点。そのロケーションの利点を、のちにぼくは気障っぽく「ひといきに突っこめば、傘のいらない射程距離内に、その店はあった」と紹介したことがある。

ぼくよりひとつ年上の、小柄な男がマスターの川桐徹。みんなその背格好から「ショーティ」と呼んでいたが、やがてそれがナマって「ショーリさん」になった。初めは店に最新式のSPオートチェンジャー(一〇枚ほどのSP盤をセンタースピンドルに積んでおくと、一枚終わるごと自動的に次の盤がセットされ連続して演奏ができる)を仕込んでいたが、この初回の訪問時にはベニー・グッドマン楽団のカーネギーホールでの演奏(《ライヴ・アット・カーネギーホール一九三八(完全版)》としてCD化)がかかっていたのを思い出す。

やがて「コンボ」にも十インチLPが入り、米アドミラル社製の再生装置に変わった頃から「モダンジャズの店」の看板を掲げるようになった。常連として足繁く通いだすのは、その頃からである。

相倉が「コンボ」の常連になった頃には、たくさんのジャズメンが来ていた。

シャープ&フラッツの原信夫やジョージ川口、松本英彦、宮澤昭といったスターをはじめ、秋吉敏子、守安祥太郎、八城一夫、鈴木章治、与田輝夫、フランキー堺、高柳昌行、西条考之介、八木正生、三保敬太郎、澤田駿吾、ナベプロの社長になる渡辺晋や野々山定夫(ハナ肇)とのちに結成されるクレージーキャッツのメンバーたち、そして宇都宮からやってきた渡辺貞夫。白木秀夫がのちに結婚する水谷良重(現、八重子)と一緒に遊びにきたこともあったという。

ライターでは久保田二郎、福田一郎、そしていソノてルヲやまだ学生だった大橋巨泉や湯川れい子も来ていた。写真家阿部克自もまだ学生だった。常連というほどではないが、植草甚一や油井正一も来ていた。秋吉敏子に連れられてハンプトン・ホースも来た。変わり種では阪急ブレーブス選手で、のちにチーム専属通訳となったバルボンも顔を見せていた。

ミュージシャンが多かったのは、銀座や築地を仕事場としていた彼らが、クラブ通いの行き帰りに立ち寄ったからだ。1950年代前半、日本では銀座、有楽町がもっともジャズのにぎやかな町だった。

相倉によると、銀座、有楽町には鉄骨作りのビルが集中していて、東京の大半が空襲で焼け野原になったあとも、このエリアだけはわずかな補修で使用可能な建物が多く、進駐軍が接収後、GHQ本部を配置するのに都合がよかった。このため、いちはやく高級エンターテインメントの花も咲いたわけだ。

有楽町の「コンボ」は約6坪ちょっとのスペースだったという。外光が入りやすい造りだったため店内は明るく、「ジャズ喫茶特有の暗澹たる雰囲気とはほど遠かった」(相倉久人)。客の出入りがひんぱんで、「いつも和気あいあいとした空気があふれていて」、仕事場に通うジャズメンの休憩場所として愛されていたようだ。

また大橋巨泉によると、はじめは銀座の「スイング」に行っていたが、「名曲喫茶のように」静かに行儀よくしていなければならない店内になじめず、「コンボ」を知ってからはその自由闊達な雰囲気が気にいってすっかり常連になってしまったという。そして、スイングやディキシーのレコードばかりだった「スイング」に比べて「コンボ」はモダン・ジャズ中心だったことにも魅かれたようだ(『ゲバゲバ70年! 大橋巨泉自伝』講談社より)。

大橋巨泉が挙げているように、「コンボ」にジャズメンや評論家たちが集まってきたいちばんの理由は、当時はまだ珍しかったモダン・ジャズのレコードが豊富にあったからだ。

横浜「ちぐさ」も秋吉敏子や渡辺貞夫がレコードを目当てに東京から通っていたことで知られているが、1950年代前半は、ジャズ業界人にとってジャズ喫茶は最も重要な情報源だった。

秋吉や渡辺と親交の深かった天才ピアニスト守安祥太郎などは、バド・パウエルからウディ・ハーマンやディジー・ガレスピーのビッグバンドまで、SPレコードの再生をもとに完璧に採譜することできたという。

1954年7月、この守安祥太郎を中心に横浜・伊勢佐木町にあるクラブ「モカンボ」で行なわれた真夜中のジャムセッション、いわゆる「モカンボセッション」は、日本のモダン・ジャズ黎明期を語るうえで欠かせない歴史的出来事だが、参加したミュージシャンの多くは「コンボ」の常連であった。

相倉によると「コンボ」で出会ったミュージシャン同士の間でジャムセッションの話が持ち上がることが多かったという。このような交流の場として、当時のジャズ喫茶は大きな役割を果たしていたのだ。

50年代後半のある日、相倉が「コンボ」を訪ねてみると、店の扉には鍵がかかったままで、それっきりその扉が開くことはなかったという。客の誰にも知らせないまま、とつぜん閉店になったのだ。

店主は夜逃げしたと語る人もいるが、真相はわからない。こうして有楽町の「コンボ」は伝説の店となった。

『スイングジャーナル』1953年8月号に興味深いコラムがある。

パーカーのレコードを沢山集めている喫茶店に新宿のエルザがあります。ここは本誌ブラインドホルド・テストを録音する所として、又ジャズ・フアンのたまり場として好評を得ています。又、毎月定期的にレコード・コンサートを開いています。

これは「鳥と月の関係について」という題の1/3ページ程度の囲み記事の一節である。署名はない。

チャーリー・パーカーについて書いたものだが、フランキー堺を取り上げた「今月のスタア」という見開き2ページの記事の右隅に、なんの関係もなく唐突に入っている。おそらくスペースが空いてしまったために、急遽埋め草として編集部員が書いたものではないかと推測する。そして日頃懇意にしている新宿の「エルザ」という喫茶店の宣伝をしてあげようというサービス心もあったのではないか。

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「今月のスタア フランキー堺」の右隅に入れられた囲み記事「鳥と月の関係について」スイングジャーナル1953年8月号

この「エルザ」という店はジャズ喫茶らしいが、その存在は今ではほとんど語られることがない。

「本誌ブラインドホルド・テスト」云々とあるが、「ブラインドフォールド・テスト」とは、1940年代後半にアメリカのジャズ評論家レナード・フェザーが考案したゲームで、ジャズメンに事前に演奏者の名前を知らせずにブラインドフォールド(目隠し)で音源を聴かせ、その曲に対して星印による5段階評価をさせるというもの。

当初は『メトロノーム』誌上で行なわれたが、1956 年からは『ダウンビート』誌に企画が移り、カウント・ベイシーをはじめ、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク、チャールス・ミンガスなどが参加して同誌の名物企画として現在に至るまで長年人気を保ち続けている。

『スイングジャーナル』誌でも1953年にこの企画が連載され、原信夫や海老原啓一郎など、日本人ジャズメンのスターたちが毎号登場している。おそらく同誌はこの喫茶店「エルザ」にテープレコーダーを持ちこんで店のレコードを録音し、それをミュージシャンに聴かせてテストしていたのだろう。

先に挙げた有楽町の「コンボ」以外にも、1953年ごろには、従来のスィング・ジャズだけではなく、モダン・ジャズのレコードを買い入れることによって集客をはかるジャズ喫茶が存在していたことがこの囲み記事からわかる。

この囲み記事と同じ号の巻頭に、たいへん珍しい広告が掲載されている。東京・西新橋あたりにあったと思われる「ONYX(オニックス)」というジャズ喫茶の広告だ。

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ジャズ喫茶「オニックス」の広告。スイングジャーナル1953年8月号

この広告に驚かされるのは「珈琲とModern Jazzの店」と明記されていることだ。

筆者の知るかぎりでは、これは「モダン・ジャズ」という言葉が初めてジャズ喫茶の広告に登場したものだ。

興味深いのは、この広告が表紙をめくって2ページ目の上段に掲載されていることだ。この前号までの長い期間、『スイングジャーナル』はこのスペースを「目次」の定位置としていた。

本来、表紙裏のこのスペースは、雑誌の中ではもっとも広告掲載料金の高いスペースであり、また、雑誌の要といってもよい目次に替えて喫茶店の広告を載せるというのは、出版社側にしてみれば、ずいぶん思い切った判断である。

かなりの金額が動かないかぎり、このスペースを広告のために売ることはない。さらにこの「オニックス」の広告は、この号から1953年12月号まで4号連続して同じ場所に掲載されていて、相当の予算が注ぎこまれたことが推測される。

面白いのは、この号の次の9月号からは、同じ店でありながら広告デザインがまったく違っていることである。

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ジャズ喫茶「オニックス」の広告。スイングジャーナル1953年10月号

8月号のデザインと比べると、まるで別の店のようだ。なにより「珈琲と Modern Jazz」というフレーズが消えて「COFFEE&JAZZ」に変更されている。このデザインで12月号まで連続掲載されたことを考えると、広告主は明らかにこちらのデザインのほうが気に入ったのだろう。

このジャズ喫茶「オニックス」のことを語る人はこれまでほとんどなく、幻の店となっていたのだが、この店のオーナーから直接、話を聞きだして取材した記事があった。『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社・1981年)に収録されている「幻のジャズ喫茶オニックス」だ。矢部久美子という人がこの店の物語を6ページにわたってまとめている。

ジャズ喫茶オニックス
幻のジャズ喫茶「オニックス」文・矢部久美子 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より
ジャズ喫茶オニックス
『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社・1981年)

この記事を元に幻のジャズ喫茶「オニックス」の姿をここに書きとめておきたい。

「オニックス」のオーナーは、柴田久成(しばたひさなり)さんという人だった。柴田さんは有楽町「コンボ」の常連だった。他の客たちよりもやや年上で、高価な10インチ盤を70枚ほど所有していて、プロのバンドマンたちから「レコードを聴かせてくださいよ」とよく頼まれていたという。

柴田さんは1938年に慶應義塾大学経済学部を卒業して三井倉庫に入社、終戦直前に三井物産に移籍し、戦後は三井農林に勤務した。岩手県釜石市に総務課長と赴任した際に、ここで占領軍向けのWVTR(のちのFEN)を聴き、ジャズに親しんだようだ。1948年頃に東京に戻り、有楽町の三信ビルにあったメイズという貿易商社に足しげく通って輸入レコードを買っていたという。

そして1953年に会社を辞め、退職金30万円と妻の親戚が経営する茶道具専門店前田忠商店(現在は豊新堂と社名を変更)から借りた15万円を元手に、「田村町の谷口さんという人の1階(6畳)を借りることにした」という。

店の楡の木のテーブル4卓と16脚の椅子は、「コンボ」に来ていた芝のレンガ通りにあった家具屋に発注したものだった。店内はグレーとベージュ、ダークブルーにダークグレイといった色合いで、壁には鉄平石を使った3枚の大きなガラスがはめ込まれ、中川タマオの絵が3枚飾れていた。3枚の絵のタイトルはジャズの曲名から取られたもので、「The Sunnyside of the street」「How high the moon」「Jump of one o’clock(筆者注:One O’Clock Jumpのことかもしれない)」だった。

コーヒーカップやグラスは、2人の女性スタッフが選んだ。中川タマオから紹介された服飾美術学校を出たばかりの20歳の女性がフロアを担当し、「コンボ」で働いていたことのある女性がカウンターを担当した。店主と2人の女性という体制は、「コンボ」と同じだった。

そして、のちにジャズ写真の第一人者として活躍するカメラマンの阿部克自が、この「オニックス」のアドバイザー的な存在として、同店のマッチのデザインからオーディオまで助言していたという。おそらく先に挙げた『スイングジャーナル』の「Modern Jazzの店」という広告コピーも阿部の手によるものだろう。阿部と柴田さんは有楽町の「コンボ」で知り合った仲だった。矢部が柴田オーナーを取材した際には、阿部克自も同席している。

「アベチャン(阿部克自さん)がずいぶん助けてくれたよ。店内のデザインもアンプやなんかも。マッチもそうですよ、僕の目の前でスラスラって書いてくれて、これでどうって。あっいいじゃないって。『オニックス』っていう名まえもアベチャンが、ニューヨークの『オニックス・クラブ』からとったらどうだろうっていうことでね、つけたんですよ」  柴田「オニックス」元オーナー談/『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用。

阿部は「オニックス」がオープンした1953年に早稲田大学理工学部電気通信科を卒業したばかりだったが、「オニックス」の開店前からオーディオシステムの準備をしていたという。

「半年くらいかかったかなあ。アンプはもちろん手作りです。6L6という球(真空管)をプッシュブルで使ったんです。当時イギリスから輸入されたばかりのウイリアムソン回路でした。高音、中音、低音用に3台作って、マルチアンプ・システムです。スピーカーはグッドマン12だったかな。カートリッジはピカリングかフェアチャイルド、いずれにせよ、モノーラルでした。」 阿部克自談/別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2)(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用。

ジャズ喫茶オニックス
阿部克自がデザインしたジャズ喫茶「オニックス」のマッチ 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より
ジャズ喫茶オニックス
上段左から中川タマオ、阿部克自、〝ショーティー〟と呼ばれ親しまれた有楽町「コンボ」のマスター川桐徹 下段左からトミー、中川タマオの友人岡島茂夫 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より 残念ながら柴田オーナーはこの写真には写っていない

オープン当初、店にやってきたのは、近くの日本生命や横浜タイヤなどに勤めるサラリーマンだった。しかし、店でかけるジャズの傾向が最先端のモダンジャズに絞られていくに従って、ディキシーファンやサラリーマンの客が消えていったという。

ミュージシャンにね、これが聴きたいって言われれば、一生けんめい探してきたな。調子にのってどんどん集めちゃった。僕はパッションに走ったエモーショナルな演奏形態とはちがったね、知的に抑制されたクールっていうスタイルが好みなんです。レコードをあげると、ウディ・ハーマンの〝セカンドハード〟、マイルスの〝クールの誕生〟、スタン・ゲッツの〝コンプリート・ルースト・セッション〟、チャーリー・パーカーの〝スウェディッシュ・シュナップス〟、レニー・トリスターノの〝トリスターノ〟」 柴田久人/ 『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用」

『証言で綴る日本のジャズ2』(小川隆夫・駒草出版)によると、有楽町の「コンボ」がバド・パウエルなどのイースト・コースト・ジャズを中心にかけていたのに対して、新橋の「オニックス」はウエスト・コースト・ジャズのレコードが充実していたという。「コンボ」については同書で渡辺貞夫は「最新のジャズを聴ける唯一の場所」と語っているが、「オニックス」がかけていたレコードもかなりとんがっている。1953年には、「コンボ」と「オニックス」という、最先端のジャズを聴かせるジャズ喫茶が東京の有楽町と新橋にあったということは後生に語り継がれていくべきだろう。

「オニックス」は朝の10時から開けていたようだ。開店と同時にバンドマンが入ってきて、彼らは仕事にでかける夕方まで出たり入ったりして、店は彼らのペースになっていたという。夕方になってバンドマンたちが仕事に出かけるときは、柴田さんもついていくようになり、六本木の「ゴールデンゲイト」など、頻繁に行く店では柴田さんはマネージャーと思われてテーブルチャージをとられることはなかったという。柴田さんは深夜まで生演奏を聴き、明け方ごろに、家には帰らず「オニックス」に戻って店内で寝て、朝の10時に開店という毎日を続けた。

柴田さんの記憶によると「オニックス」に出入りしていたバンドマンは以下の通り。

ほとんど常連のクラス

高柳昌行、ジミー竹内、原田寛治、次山慧、滝本達郎、白木秀雄、池沢行生、杉浦良三、吉本栄、八木一夫、福原彰

週1回程度のクラス

渡辺貞夫、山屋清、五十嵐明要、宮沢昭、栗田八郎、五十嵐武要、西条孝之介、齋藤健二郎、丸山清子、世良譲

月1、2回程度のクラス

谷山忠男、松本英彦、チャーリー石黒、後藤芳子、鈴木寿夫、沢田駿吾、八木正生、萩原秀樹、金井秀人、中村八大、稲垣次郎

戦後の日本人ジャズメンのトップクラスが並ぶすごい顔ぶれだ。先に挙げたようにレコードリストがかなり充実していたことが、これだけのジャズメンを集めたのだろう。

1953年11月にノーマン・グランツがJATPを率いて来日するが、そのとき、ジーン・クルーパとやってきたもう一人のドラマー、J・C・ハードが「オニックス」でライブをやった。阿部克自のコネクションで店に来たらしい。そのときの柴田さんの回想。

「コーヒーも飲めないですよ。みんな立って満員。“Wellcome J.C.Heard”なんて書いてね。入場料なんてなかったよ」(『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用」

最新のレコードがかかり、来日ジャズメンのライブもある。「オニックス」には活気があった。

「オニックス・フィズっていうのがあったんですよ。焼酎と炭酸とお砂糖とレモン、あれが案外おいしいんですねえ。コーヒーが50円のころですよ。夜はいつも満員でした。でも徹底して回転が悪いのねえ。バンドマンの人たちが多かったですねえ。私は楽しかったですよ」(『別冊暮らしの設計 珈琲・紅茶の研究Part2』(中央公論社)所収「幻のジャズ喫茶『オニックス』より引用」

これは明るい笑顔で人気者だったというウェイトレスの竹友(旧姓真鍋)孝子さんの述懐。「オニックス」にはこの孝子さんも含めて計4名の女性が勤めていたという。

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「オニックス」の店内 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より

店はいつも客で賑わっていたのだが、柴田さんは経営が苦手だったようで、1年ほどして行き詰まってくる。珈琲のセールスマンに忠告されたこともあったという。

「1オンス16杯じゃだめだよ。柴田さん、40杯とらなきゃ」

柴田さんは店を続けることさえできればいいと思っていたので、経営スタイルを変えなかった。しかしやがて大家から「赤ちゃんが生まれたのでジャズを流すのはやめてくれ」と言われ、店を続けていくことができなくなる。オープンから1年半、1954年の秋だった。

閉店を惜しんだ常連たちから国電のガード下の倉庫へ移転するなどの案も出たが、これまで資金の援助をしてくれていた親戚の前田忠商店から「もうジャズはあきらめなさい」と諭され、万事休す。柴田さんは前田忠商店に就職する。柴田さんは前田忠商店から派遣されて百貨店などの茶道具売場で1979年まで働いていたという。

閉店のときには、「オニックス」のレコード・コレクションは150枚ぐらいになっていた。柴田さんはそれを店の関係者や常連たちに分け、手元に残ったのは3枚だけだった。

取材の締めくくりとして、1981年の3月、矢部は柴田さんと2人で、かつて「オニックス」のあったあたりを訪ねている。ジャズ喫茶「オニックス」は、「BARBER OTANI」という理髪店になっていた。

そしていま、グーグルマップで調べてみると、隣の「第5セイコービル」(東京都港区西新橋4-3-1)は残っているが、「BARBER OTANNI」はすでになく、その建物があったところは空き地になっている。

ジャズ喫茶オニックス
上の写真は1981年当時の「オニックス」があったところ。「BARBER OTANI」という理髪店になっていた。下の写真は「オニックス」オーナー柴田久成さん 『別冊暮しの研究 珈琲・喫茶の研究Part2』(中央公論社)より

(次のページへ続く)

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