さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ②
バリケードの中のジャズ
1969年7月、第2次早大闘争と呼ばれる学生運動の渦中にあった早稲田大学において、中核派から分離した反戦連合が、早稲田大学大隈講堂にあった、今では「早稲田の至宝」と呼ばれるドイツ製グランドピアノ、ブリュートナーを盗み出して民青(日本民主青年同盟)がバリケード封鎖している法経4号館に運びこみ、約1時間20分にわたって山下洋輔トリオのコンサートを行なった。
そのときの実況録音盤が「DANCING古事記」である。
この出来事は当時テレビ番組のディレクターだった田原総一朗によって撮影、編集され、東京12チャンネルの『ドキュメンタリー青春』シリーズの中で「バリケードの中のジャズ〜ゲバ学生対猛烈ピアニスト」として同年7月18日に放送された。
もともとは〝ハプニング〟を狙った田原総一朗が仕掛けたものだった。
肺浸潤という肺の疾患による1年半に及ぶ闘病生活を終えてカムバックしたものの、スランプに陥り、突破口を求めてもがいていた山下洋輔を起用してドキュメンタリーを制作したいと考えた田原が、山下がふともらした「ピアノを弾きながら死ねたらいいなぁ」という言葉を受けて、面識のあった反戦連合のリーダー、彦由常宏に「山下さんが弾きながら死ねる状況が作れないか」と相談したところ、この企てが出てきたという。
民青の本拠の地下ホールで反戦連合にピアノ演奏会を開かれたら、民青の面目は丸つぶれである。当然ながら民青は演奏会を阻止するためにはゲバルトをかけてくるだろう。エネルギッシュにピアノを弾いている山下をはさんで、反戦連合と民青の学生たちが石やゲバ棒で肉弾戦を繰り広げる。そんな中で、山下は願望通り死ねるかもしれない。いってみれば乱暴きわまる企てである。もちろん機動隊が導入されて、私が捕まる危険性もあった。
田原総一朗『メディアと権力』講談社より抜粋
いまはYou Tubeで「バリケードの中のジャズ」で検索すると、この放送作品のハイライトである、約7分の演奏シーンを見ることができる。
演奏が終わった後の、心なしか拍子抜けしたかのように聞こえる「ゲバルトは起きなかった。」というナレーションのとおり、田原が期待したような石が飛び交い、ゲバ棒が振り回される肉弾戦はなかった。
ノンセクト・ラディカルの目印である黒いヘルメットをかぶった反戦連合の学生たちが、山下トリオを囲み、頭を垂れるようにしてその演奏を静かに聴き入っている様子が映し出されているだけだ。
山下トリオのテンションの高さが伝わる緊迫感のみなぎった映像だが、音声では中村誠一がソプラノサックスを吹きまくっているのに、映像に出てくる中村はテナーサックスを吹いているという、音楽的にはかなりずさんな編集となっている。
聴衆の服装はヘルメットにゲバ棒だが、演奏の場面で三十分間をうめても少しも面白くない、と判断した田原氏は、仕方なく、この場面をクライマックスにしたお涙頂戴劇を作ることにしたらしい。女房に内職させたり、八百長電話をかけて来て断わらせたり、医者にこれ以上演奏すると死ぬぞ、といわせたりぼくを多摩川土手に連れってって夕日に向かって走らせたり、寝ころがってセンベイを食わせたり、無理やり連れてきた学生達と飲み屋で議論させたり、ぼくは言われるままにした。そんな事いやだ、とわめいて田原氏に飛びかかったとしてもそれは面白い場面としてテレビに映るだけなのだ。そういうやり方をする人である事は調査ずみである。
しかし、このマスコミの権化のような人とのつき合いは決して不愉快ではなかった。むしろ、色々な事を教えてもらい、感謝したい位である。
山下洋輔/真相「今も時だ」早稲田文学1971年6月号/『風雲ジャズ帖』音楽之友社所収より抜粋
田原総一朗もこのドキュメンタリーに「ヤラセ」が多くあったことは認めている。だがそれでも、真夏の暗い地下のホールで、溢れ落ちる大量の汗をぬぐう暇もなく眼鏡をかなぐり捨てながらブリュートナーを遠慮なく弾きまくる山下洋輔の映像は後世に残すべき記録といっていいだろう。
田原によると、当時からこのブリュートナーは門外不出とされていて、ピアノを置いてある部屋の鍵をなくした警備員がクビになったことがあるという。
1979年10月、私が所属していたジャズ研サークル「現代ジャズ愛好会」が、AACM 創設メンバーのひとり、ムハール・リチャード・エイブラムスを招いて大隈講堂で彼のピアノによるソロ・コンサートを主催したときも、このブリュートナーだった。「フルコン」と呼ばれる仕様の、大きなホールで使われる「フル・コンサート・ピアノ」で、ライブハウスによく置いてあるグランドピアノよりも大きくて長い。私にとってそれは初めてみる「フルコン」で、どこか異様な貫禄があった。
当時は「よそにはない珍しいピアノ」程度のことしか聞いておらず、私はずっと長い間「ベーゼンドルファー」の年代ものと勘違いをしていた。
フルトヴェングラーから「よく歌うピアノ」と絶賛されたブリュートナーは、「アリコートシステム」という独自の設計を採用している。最高音域で通常ハンマーによって打弦される3本の弦に加えて、打弦されることのない1本の弦(アリコート弦)を追加した構造だ。
このアリコート弦が、打弦された弦に共鳴することによって倍音が増幅され、特有の暖かく豊かな響きがもたらされる。
ブラームスやドビュッシー、プロコフィエフが愛用し、世界ピアノ4大メーカーのひとつといわれるブリュートナーは、近年ヨーロッパではスタインウェイに次ぐ人気となっており、日本でもようやくその真価が認められているようだが、その貴重な年代ものに肘打ちをくらわすなどの乱暴狼藉を働いたのが、この 1969年の山下洋輔のパフォーマンスということになる。
田原総一朗によると、大隈講堂からこのブリュートナーを運び出した学生たちの中に中上健次が加わっていたという。また山下洋輔によると、高橋三千綱や連合赤軍リンチ殺人事件(山岳ベース事件)の犠牲となった赤軍メンバー、山崎順もいたという。さらに北方謙三や伊集院静もピアノを運んでいたという説もあるが、ここまでくるともう、真実はわからない。
だが、立松和平は、その場には居合わせなかった。
「ぼくはそのコンサートにいっていない。たぶんバイトか何かしていて知らなかったのだ。後で聞いてほぞを噛んだ。」とこの『カイエ』に書いている。
しかし立松は、「DANCING古事記」の制作にかかわった重要人物の一人だった。そのことの顛末を振り返るというのが、この一文の主題だった。
原稿依頼をしたのは、『カイエ』編集長で立松と同い歳だった小野好恵だろう。
小野は、1975年から編集長を務めた『ユリイカ』で「ジャズは燃えつきたか」(1976年1月号)、「ジャズの彼方へ」(1977年1月号)などのジャズ特集で注目された後、1978年に青土社から冬樹社に移り『カイエ』を創刊、1980年第20号の山下洋輔特集号で休刊となるまで同誌でもジャズ特集を積極的に組んだ。
1996年に49歳の若さで病死した小野は、阿部薫のアルバムのライナーノーツへの執筆をはじめ(一関のジャズ喫茶『ベイシー』菅原正二店主によると小野が阿部を『ベイシー』に連れてきたこともあるという)ジャズや文芸、プロレスなどを中心に執筆、編集活動を行ない、ジャズの造詣も深い文芸編集者として、70年代からその死にいたるまで日本のジャズ言論界に大きな足跡を残した。
また、文芸にとどまらず、ジャズやビートルズ、映画、SFなど、ポップカルチャーについて文学者や詩人、作家、哲学者、思想家に原稿を依頼して特集を組むという小野が手がけた70年代の『ユリイカ』や『カイエ』の編集スタイルは、80年代以降に続々と登場したハイ・カルチャー雑誌の先駆けとなる仕事をしたといえるのではないかと思う。
1947年生まれの小野は、同世代の作家、村上春樹(1949年生まれ)と親交があった。
まだ村上が国分寺でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を経営していたころからの付き合いで、単行本『ジャズの事典』(1983年、冬樹社)では、「かつてジャズはつねに制度を拒みそれを乗り超えてきたものだったんだ」と題したインタビューで、胸襟を開いた村上春樹からジャズ喫茶経営時代の話や彼のジャズ観などを8ページにわたって聞き出すという、貴重な仕事をしている。
また、小野は村上龍(1952年生まれ)とも親交があつく、「ピーター・キャット」に彼を連れて遊びに行くこともあったという。
1979年の群像新人文学賞のパーティー会場で、小野と村上春樹がいっしょにいるところに出会った村上龍が、「こんなところで何をしているんですか?」と村上春樹に尋ねたら、小野に「バカだな、この人が受賞者だよ」と笑われたという逸話が残っている。(村上龍著『文学的エッセイ集』シングルカットより)。
同書によると小野を村上龍と引き合わせたのはジャズ評論家清水俊彦だった。その場には小野を『ユリイカ』編集部に引き入れた元ユリイカ編集長三浦雅士と、のちに《スーパー・エディター》と称してジャズ言論界に参入してきた中央公論社の文芸誌『海』の編集者安原顯の2人もいた。
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COMMENTS & TRACKBACKS
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あら!知りませんでした〜。ジェレミー・スティッグさん亡くなったですか。日本に住んでいた様なネット上のサイトを読んだような記憶があるな。う~む!皆さん、落としですですもんね。ご冥福をお祈り申し上げます。
福山さん、そうなんですよ。亡くなってから1カ月ぐらい公表されなかったですし、メディアでも報じられていないので、まだご存じない方も多いでしょうね。私が知ったのはあるフルート奏者からの情報でした。公式サイトでは日本での暮らしなどがブログや写真で見ることができますよ。
実は、一時フルートをやっていたんです~。へへへ。
最初は、ビル・エバンスとの有名盤ですね~。
若干ですが、フルート物のレコードはついつい集めがちです。
奥さんが、日本人だったような?お父さんの方のレコジャケ画の方が収集癖をくすぐかな~。ハイ
福山さんはフルートをやってらしたんですか。
私が初めて買ったジャズのLPは、古本屋で買ったフランク・ウェスのサヴォイ盤「オパス・イン・スイング」でした。高校1年ぐらいのころだと思います。すごくおっさんくさい選択だと思いますが、当時はフランク・ウェスも何もぜんぜんしらなくて、たしか800円ぐらいといちばん安かったからでした。
ジェレミー・スタイグの奥様は日本人ですね。公式サイトにもいろいろと書かれています。たしかにジェレミーのお父様のジャケ画はいいものばかりですね。