ジャズ喫茶案内

「べっぴんさん」と神戸のジャズ喫茶

朝ドラに響くジャズ

NHK連続テレビ小説「べっぴんさん」。

2016年10月3日の放送開始以来、平均視聴率20%以上をキープしており、NHKの朝ドラとしてはまずまずの人気である。

昭和の初めに神戸の山の手令嬢として生まれ育った主人公坂東すみれ(芳根京子)が、女学校の同窓生や幼なじみ3人と戦後の混乱期にベビー服・子供服メーカー「キアリス」を起業し、その家族や仲間たちとともに昭和の高度経済成長期を駆け抜けていくという物語だ。

「キアリス」は子供服・子供向け用品・ベビー用品の草分け的アパレルメーカー、神戸の「ファミリア」を、坂東すみれはファミリアの創業者坂野惇子がモデルとされている。

今年1月の放送に入ってから時代は昭和35年となり、ジャズ喫茶を舞台にすみれの娘さくら(井頭愛美)ほか新キャストを中心に展開していくなかで、週間視聴率は自己ベストを2回更新、1月20日放送の第90話では自己最高の22.5%を記録するなど「ジャズ喫茶編」はなかなか好調だ。

NHKの朝ドラで「ジャズ喫茶」という言葉が出てくること自体が、もう愉快としかいいようがない。

ジャズ喫茶のことしか興味がないのかといわれればそれまでだが、ジャズ喫茶愛好者としては毎回楽しませていただいている。

神戸の盛り場のビルの地下にあるそのジャズの喫茶の名前は「ヨーソロー」という。航海用語で「直進」の号令を意味する「宣候(ようそろ)」からとられたものだ。

この言葉が船上で使われるようになったのは幕末期の海軍からといわれ、この号令がかかると「了解」「異常なし」という意味で「ヨーソロー」と復唱されるシーンを、船舶が登場する映画やテレビではときどき見ることができる。

懐かしい昭和の情景を愛した神戸出身の切り絵作家、成田一徹の作品が壁に数点飾られてシックな雰囲気の「ヨーソロー」の店内には、船の舵輪を使ったシャンデリアが天井からぶら下がっていたり、船室を連想させる丸窓が壁に並んでいる。

〝ママ〟と呼ばれる女主人の大村すず(江波杏子)は、病気で夫を、戦争で一人息子を失い孤独な境遇にあるが、こういう意匠の店にしたのは、船の沈没によって帰ってこなかった息子への思いがこめられているのかもしれない。

船をモチーフにした造りの喫茶店は、港や海に近いところでは珍しくない。ジャズ喫茶ですぐに思い浮かぶのは北海道・網走の「デリカップ」だ。この店は設計から施工まで、ヨットマンのマスターがキャビンをイメージしてすべて自分の手で作り上げたものだ。

横須賀には文字通り「Cabin」という店名のジャズ喫茶がある。横浜・長者町の老舗ジャズ喫茶「ファースト」も海をイメージした、港町の雰囲気が漂うインテリアだ。また、稲毛海岸に近い西千葉のジャズバー「ビリーズ・バー」の入り口扉は船室の丸窓そのもののデザインがあしらわれている。

また、「ヨーソロー」のカウンター隅には演奏中のレコードが灯台のミニュチュアレプリカに立てかけられてあるが、これと同じものが東京・神保町の「アディロンダック・カフェ」のカウンターにもある。

また、同じものではないが、東京・小金井にはその名も「ライトハウス(灯台)」というジャズ喫茶があって、ここにも灯台のミニチュアが置かれている。「ライトハウス」のマスターは、村上春樹がやっていたジャズ喫茶「ピーター・キャット」が国分寺にあったころにスタッフを務めていた人だ。

「ヨーソーロー」の店内でレコードをかけるシーンがときどき出てくるが、『NHKドラマ・ガイド 連続小説べっぴんさん Part2』(NHK出版)に掲載されている写真を見ると、レコードプレイヤーはスイスの精密機器メーカー、トーレンス社の50年代の銘機、TD124のようだ。ただし、トーンアームはオリジナルではなく、1966年にトーレンス社を傘下にしたドイツEMT社のEMT929にグレードアップされているようにみえる。

このターンテーブルは小道具スタッフがオーディオ・マニアから借りてきたものだそうだ。いまのところスピーカーなど他のオーディオ機器は見当たらないが、もともとセットにはないのかもしれない。

「ヨーソロー」にはドラムセットが置かれていて、ライブもできるようになっている。NHK神戸放送局がアップしている「べっぴんさんご当地サイト」にはこの「ジャズ喫茶編」の裏話が詳しく解説されているが、それによると、シェル(胴)の色がシャンパンゴールドのこのドラムセットは、1960年代に作られたヴィンテージで、神戸のライブハウスから借りてきたものだという。

おそらく、アート・ブレイキーをはじめマックス・ローチ、フィリー・ジョー・ジョーンズ、トニー・ウィリアムスなど、モダン・ジャズ・ドラミングの頂点に立つプレイヤーたちが愛用したグレッチ製だろう。彼らがこのシャンパンゴールドのグレッチを叩いている姿は、当時のたくさんの写真に残されている。

「ヨーソロー」が登場する最初の回で、プロ志望の河合二郎(林遣都)がこのドラムを叩いた。その曲がモダン・ジャズの超人気盤『クール・ストラッティン』(ピアニスト、ソニー・クラークのリーダーアルバム、1958年録音)に収録されている同タイトル曲だったものだから、ジャズ・ファンへのアピールは十分だったようだ。

ドラマーに扮する林遣都は、ドラム演奏はまったく未経験だったが、放送では実際にドラムを叩いている(音は差し替えのようだ)。チーフ演出の梛川善郎から音源を渡され、神戸在住のプロ・ドラマー、冨士正太朗から特訓を受けたという。「裏拍のリズムを取るのが、慣れるまで難しかったです」(林)という(『NHKドラマ・ガイド 連続小説べっぴんさん Part2』NHK出版より)。

放送では、二郎のバンドによって<クール・ストラッティン>ともう1曲、やはり『クール・ストラッティン』に収録されている<ブルー・マイナー>が演奏された。この<ブルー・マイナー>は「ジャズ喫茶編」のテーマ曲といってもいいぐらい、たびたび番組で流される。

トランペットを吹いているのは広瀬未来。ハードバップ系奏者としてアマチュア時代から注目され、ニューヨーク修行を経ていまは神戸を拠点に置き、この1月には「なにわ芸術祭:なにわジャズ大賞プロ部門」を受賞したばかりだ(広瀬は同賞初のアマチュア、プロ両部門を受賞)。そのほか、西田仁(ピアノ)、坂崎拓哉(ベース)など、いずれも神戸の若手ジャズメンがバンドメンバーとして出演している。

音源は「ヨーソロー」ではなく、NHKスタジオで録音されたもの(ドラムはおそらく吹き替え。このグループで一緒に活動している齊藤洋平か、ドラム指導にあたった冨士による演奏かもしれない)。

この「ヨーソロー」が実在するジャズ喫茶をモデルにしたのかどうか。

かつて元町にあった「ジャスト・イン・タイム」にも似ていると筆者は思うが、ネット(Twitter)の声を拾ってみると、やはり神戸・北野坂のジャズスポット「SONE(ソネ)」を挙げる人が多いようだ。

1969年創業の「SONE」は、ジャズ喫茶ではないがジャズの生演奏を聴かせるレストランで、神戸のジャズ・ライブの聖地として数多くのミュージシャンを育ててきた老舗である。木材を基調にした上品で落ち着いたインテリア、ゆったりとした広いスペースやステージ背後の赤レンガの壁などに共通点を感じる人が多いのだろう。

また、「SONE」のいまはなき名物ママ、曽根桂子さんと江波杏子演じる大村すずを重ね合わせる人も多いのかもしれない。曽根さんは、神戸ジャズのゴッドマザー的存在としてたくさんのジャズメンをバックアップしたことで知られている。

「べっぴんさん」では、主人公すみれの娘さくらが、すみれの同窓であり、「キアリス」の同僚でもある良子(百田夏菜子)の息子龍一(森永悠希)や君枝(土村芳)の息子健太郎(古川雄輝)ら高校生たちと「ヨーソロー」に出入りするようになる。

さくらは、ドラムを叩く河合二郎に密かに恋心をよせ、夏休みになるといつのまにか「ヨーソロー」の手伝いをはじめるようになる。両親がしぶしぶ認めたとはいえ、実家を出て叔母の家に住みながらのさくらの行動には、ドラマの中よりもドラマを見ている視聴者からの声が厳しい。

「女子高校生が制服を着てジャズ喫茶とは」「校則で喫茶店は出入り禁止のはず。ありえない。退学でしょう。」「良家の子女がジャズ喫茶なんて。」という声がTwitterに散見され、ある程度は予想をしていたが、〝ジャズ喫茶〟への世間の風あたりはなかなか強い。(次ページへつづく)

西の中島らも、東の中上健次

ジャズ喫茶の歴史については本サイトの「ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶になったのか」に詳しく書いているが、1960年頃から日本ではファンキー・ジャズ・ブーム、モダン・ジャズ・ブームが起こり、1961年のアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの来日が発火点となってそれが全国に広がり、60年代末までジャズ喫茶は全盛期を迎える。「べっぴんさん」でジャズ喫茶「ヨーソロー」が登場するのはまさにそのブームのさなかの1960年だった。

さくらと健太郎より一つ上の16歳で、彼らを初めて「ヨーソロー」に連れていった龍一に「いまはモダン・ジャズの時代や」というセリフを言わせているように、このモダン・ジャズ人気を支えたのは10代から20代前半の若者たちだった。

実際のところ、1960年当時、ジャズ喫茶に高校生はいたのだろうか。

文部省の学校基本調査によると1960年当時の高校進学率は60%にみたず、95%の現代に比べるとかなり低い。

当時の15歳のうち4割は中学卒業後、就職して社会人になるか、女性の場合は結婚することも珍しくはなかった。「べっぴんさん」では16歳の五月(久保田紗友)が「ヨーソロー」で働いているが、それはけっして珍しいことではなく、義務教育の中学を出ればもう大人扱いされる時代だった。

スイング・ジャーナル社が1966年に行なった「ジャズファンの実態」というアンケート調査がある。

これは同年12月に発行した『スイング・ジャーナル臨時増刊 モダン・ジャズ百科』に掲載されたもので、同誌の読者、ジャズ喫茶客、各地のジャズ・クラブの会員、レコード店のジャズ・レコード購買者など約5,000人を対象に行なったもので、回答率は約80%だった。

その回答者の年齢をみると以下の通り。

15〜17歳 211人

18〜19歳 857人

20〜24歳 1,815人

25〜29歳 883人

30代 347人

40代 51人

50代 23人

職業別では 学生45%、会社員28%、無職4%、その他23%。

ジャズ喫茶に行きますかという質問には、ジャズ喫茶のある地域では「行く」が96%。

いちばんコアな層は、18〜24歳で約70%。

回答数3,766のうち、15〜17歳が211人ということは、1966年当時は、ジャズファン全体のうち、6%弱は高校生もしくは同年代の子たちが含まれていることを示している。

ちょうどこの調査が行なわれたころ、神戸では、村上春樹(1949年生まれ)や高橋源一郎(1951年生まれ)がジャズ喫茶に通っていたようだ。

1966年当時、村上は県立神戸高校3年生、高橋は私立灘高校1年生で、村上は北長狭通り1丁目の「バンビ(バンビーとも呼ぶ)」、高橋は北長狭通り2丁目の「さりげなく」に通っていた(のちに村上も『さりげなく』にも行くようになる)。高橋によると灘中時代からもうジャズ喫茶通いを始めていたという。

また、この2人より少し遅れて中島らも(1952年生まれ)が、灘高3年生だった1970年から1971年の浪人時代にかけて「バンビ」に通うようになる。

予備校生の中島がジャズ喫茶で薬物に溺れていた様子は、その自伝的作品や、らもの妻、中島美代子の自伝によって明らかにされている。

彼が常連だった「バンビ」は、60年代後半に現れたフーテン族に好まれた店であったようだが、かつて高校生の村上春樹もここに通っていたように、ジャズ喫茶で薬物を摂取するかどうかは、客によってそれぞれ違うというのが実態だろう。

これは新宿・歌舞伎町の「ジャズ・ヴィレッヂ」に18 歳(1965年)から通い、睡眠薬や鎮痛剤を摂取しいていた中上健次にもいえることだ。

「ジャズ・ヴィレッヂ」は、ジャズ喫茶通いをしていた若者たちからも、薬物常習者の多いアブナい店と敬遠されていたようだが、当時はこのようなジャズ喫茶は少数派だった。そして多くの客にとってジャズ喫茶に行く目的は薬物でラリることではなかった。

ただ、アメリカでもそうだったように、ジャズと薬物にはそれなりにつながりがあり、それは日本でも同じだったことも否定できない事実だ。

日本では、1960年、当時人気プレイヤーだった高柳昌行がヘロイン所持で二度逮捕され、二度とも執行猶予の温情判決を受けるという出来事があった。

当時の高柳はスイング・ジャーナル読者投票のギタリスト部門で1位に選出されるほどの人気で、朝日新聞をはじめ週刊誌が取り上げるスキャンダルとなった。

二度目の逮捕、執行猶予判決の直後に『スイング・ジャーナル』は「我々は麻薬が必要なのか? あえてミュージシャン諸氏に問う」という論説を雑誌の巻頭に見開き2ページで掲載するという異例の対応をとった。

論説では「ジャズ界というものが今や立派に一般社会の一部になっている現在、我々ジャズ関係者も立派な社会人であらねばならないでしょう」と述べ、10月6日に読売ホールのコンサートの舞台で高柳が観客に謝罪し、満員の観客もそれを暖かく受け入れたとしたあとで、最後を次の言葉で締めている。

「ミュージシャン諸氏よ、再び最後に声を大にして言います。この暖いファンを二度と裏切る事のない様に、そして我々の愛するジャズを社会的にほうむる事のない様に、そしてあの暖かい判決を下した赤穂裁判長の期待にそむかないように…。」  (スイング・ジャーナル1960年11月号より抜粋)

スイング・ジャーナルの論説記事が暗に認めているように、ジャズメンと麻薬は高柳1人の問題ではなかった。

そして翌1961年、高柳は三度目の逮捕をされて実刑判決をうける。この事件は、モダン・ジャズ・ブームが絶頂期にさしかかろうとしていた矢先に現れた大きな落とし穴だった。

1963年ごろに、ティーンエイジャーの間で睡眠薬であるハイミナールの過剰摂取が東京を中心に流行して社会問題になったこともジャズに関連するものに対する世間の見る目を冷たくさせた。

60年代に歌手としてヒットを飛ばした俳優、音楽プロデューサーの荒木一郎の自伝的小説『ありんこアフター・ダーク』(河出書房)は、東京オリンピック直前の1963年ごろの、渋谷・百軒店に実在したジャズ喫茶「ありんこ」を舞台に当時の若者たちの風俗を描いたものだが、荒木とおぼしき高校3年生の主人公がおっかなびっくりでハイミナールに手を出し、それを断つまでの様子や、ハイミナール中毒に苦しむ十代の若い女の子が出てくる。

ただ、小説では当時の不良仲間のうちでも薬物常用者は落伍者のように蔑まれていて、ジャズ喫茶客の多くが好んで薬物を常用していたと描かれているわけではない。

ジャズ喫茶店主にしてみたら、営業停止になるような面倒には巻き込まれたくないと考えるのが当然で、札幌の「ジャマイカ」の樋口重光マスターのように、当時、ラリッてる客を見つけると殴り飛ばして追い出したという話もあれば、新宿「ジャズ・ヴィレッヂ」でさえ、店のマネージャーが中上健次を「クスリに酔いすぎる」と出入り禁止にしたと中上自身がエッセイで書いている(『野生の青春』スイング・ジャーナル1977年5月臨時増刊に寄稿。のちに『路上のジャズ』中公文庫に収録))。

ジャズ喫茶の客層の大半は、クラシックの名曲喫茶と似たりよったりの音楽愛好家であり、ジャズ喫茶とは、今もそうだが昔も「大きい音でレコードがかかる喫茶店」程度のものだ。

ただ、西の中島らも、東の中上健次の両巨頭のような、フーテンもしくはその予備軍のような無頼の徒が都会に現れた60年代末期、彼らが繁華街のジャズ喫茶に出入りしていたことは確かであり(ジャズ喫茶に限らずゴーゴー喫茶やふつうの喫茶店にもいたようだが)、そうした一時期の風俗によってジャズ喫茶がアヘン窟であるかのようなイメージを拡散されてしまった面はまちがいなくある。

そして『べっぴんさん』で高校生がジャズ喫茶に出入りすることに眉をひそめる人がいまも少なからずいることは、いまだにそうしたネガティブなイメージが根強く残っているということだ。

いまはジャズ喫茶も含めて喫茶店の出入り禁止を校則とする高校も少なくないようだが、高校の校則がこのように厳しくなったのは、1980年代以降の管理教育が現場で徹底されるようになってからではないだろうか。

慶應義塾や麻布学園は校則らしきもののないことが知られているが、それに加えて中島らもや高橋源一郎の灘高校のような超進学私立校や、村上春樹の神戸高校のような旧制中学からの歴史を持つ公立高校の場合は、昔から総じて校則はゆるめのようである。

それは、生徒の自主性、自律性を尊重するリベラルな校風を誇示することがある種のステイタスであり、エリート意識のあらわれのひとつという見方もできるかもしれない。

「べっぴんさん」のすみれや姉のゆり、そして娘のさくらが通う女子高校「栄心女学院」の校舎は神戸女学院でロケされたものだが、この神戸女学院も校則のゆるい自由な校風で知られ、制服もないというから歴史ある私立女子学園の中ではかなり珍しい部類に入る。

ドラマでさくらに制服を着せたのは、高校生らしさを強調するための演出だろう。ただ、モデルといわれるファミリアの創業者坂野惇子と姉の光子が通っていた甲南高等女学校(現在の甲南女子高校)は、校則もそれなりにきちんとあり、昔から制服も着用している。

さくらや健太郎は制服のままで「ヨーソロー」にやってくるが、龍一も含めて高校生が出入りすることに本人たちも他の客も店主もまったく気にとめていないところをみると、彼らの間では、あの界隈の高校には喫茶店の出入り禁止という校則はないという認識が共有されていたと受けとめるしかないだろう。

実際、1960年代から1970年代にかけては、制服着用も含めて高校生のころからジャズ喫茶に行っていたという話は、私自身のケースも含めて、ジャズ・ファンの間ではたくさん聞くことができる。禁止という高校もあっただろうが、そこまでは関知しないという高校が少数派だったというわけでもなさそうだ。

また、ジャズ喫茶に良家の子女は来なかったかというとそうでもなく、出光興産の創業者の四女で、大学3年生のときにホレス・シルバーの『トーキョー・ブルース』(1962年)のジャケットに着物姿で登場してジャズ・ファンを驚かせ、のちにニューヨークに渡って映像作家になった出光真子のような女性もいた。彼女の場合はいつも親の目を盗んでいたようだが。(次ページへ続く)

管理教育とママのいるジャズ喫茶

高校の校則が全般に厳しくなったのは1970年代以降ではないだろうか。

その理由としては、まずは進学率が90%を超えてしまうと、手間や世話のかかる生徒がどうしても多くなり、生徒の自主性、自律性を尊重するという建前だけでは現場が成り立たないという点があるだろう。

また、1970年前後の全共闘運動、学園紛争の影響が高校現場にも及び、学園の自治を要求する生徒会に手を焼いたことへの反動から、生徒への管理を強化する方向に学校が舵を切ったという面も大きい。

この傾向が顕著になったのは、全国の国公立大学に共通一次試験が実施され、私立も含めて偏差値による大学ランク付けや進路指導が徹底されるようになった1970年代末以降ではないかと思う。

とくに1980年代に入ってからは、たとえば愛知県の高校では厳しすぎる集団訓練によって自殺者が出るなど、過度の「管理教育」が社会問題となった時期もあった。

筆者は1978年に高校を卒業したので、その翌年から共通一次試験が導入された世代なのだが、この時期、自分の高校の雰囲気が変わってしまったことは肌で感じた。

私の高校は旧制中学を前身とする県立校だったが、高知県では戦後は私立のほうが受験に強く、県内では3番手程度の進学校だった。校風はゆるく、市内の繁華街にあったため、昼休みは学校を抜け出して外の飲食店で昼食を済ませる者もいた。また、制服による喫茶店の出入りも禁止ではなく、放課後に立ち寄る生徒はたくさんいた。関連する校則といえば「盛り場をむやみにうろつかない」という程度のものだった。

しかし、私よりも1つ下の学年、ちょうど共通一次試験元年の世代あたりから、校則が少しずつ厳しくなりはじめた。

たとえば私の記憶にあるのは、男子の制服の下は、白いものであればボタンダウン・シャツもOKだったのが、その学年からは禁止となったことや、修学旅行の自由行動のさいは、われわれの学年までは私服でも可だったのが、その学年からはジャージ着用を強制となったことなどだ。同じ学校の中で学年によってルールが違っていいものかとあきれたものだったが、粛々と校則が変えられていった。

なぜ、こうした変化が起きたのか、いちばんの理由は、「よい高校」とは、偏差値の高い大学にできるだけたくさん生徒を進学させる学校であり、「よい高校生」とは、脇目もふらず意識を勉学に集中する生徒だからだ。

「よい高校生」を多く集めるためには「よい高校」を目指しつづけなければならない。そのための手段としての校則強化があった。

それは学校の責任だけではなく、それを求める保護者が多かったという面もある。また、それが生徒本人にとってもいちばんよいのだという考え方もある。

この共通一次試験が導入された70年代末以降に高校生活を送った人は、その前の世代よりも厳しい校則を経験した人が確実に多いだろう。「べっぴんさん」でジャズ喫茶に高校生がいることに対して「こんなこと、ありえんだろう」という声を挙げる人たちの多くはこの世代だろうし、自身では体験していないのだから無理もないことかもしれない。

いっぽう、さくらや龍一、健太郎たち、昭和30年代に思春期を迎えた世代は、戦後もっとも自由な空気のなかで十代を送ることができたのかもしれない。

敗戦によってそれまでの日本を支配していた体制や思想、価値観が崩壊し、自信を失っていた大人たちに対して、アメリカによってもたらされた新しい民主主義の下で「それは違う」と異議を唱えることのできた時代だったからだ。

話を現代に移すと、校則というのは、国が定めた法律でも地方自治体による条例でもない。

同じ時代、同じ地域であっても、各校によって厳しさの度合いに天と地ほどの違いのある究極のローカル・ルールだ。いまでも制服のまま喫茶店に入ってもなんのおとがめもない高校もある。

たとえば、2年前だが、岩手県一関市のジャズ喫茶「ベイシー」で、制服姿の男子高校生5、6人が座っているのを見かけたことがある。店のすぐ近くに県立一関第一高校があるので、そこの生徒たちだったのかもしれない。マスターの菅原正二さんはこの高校の卒業生だ。「ベイシー」が全国的に著名な店であり、マスターが地元の名士ということもあって、それをとがめる地元の人間はまずいないだろう。

さきほど「ヨーソロー」のモデルとして挙げた神戸のジャズ・レストラン「SONE」の場合は、ママの曽根さん自らが地方の中学校や高校に声をかけて、修学旅行生たちが店にやってきてジャズの演奏を楽しんだり、生徒たちが演奏をしたりしたという。曽根さんによると、中高生のうちから生のジャズに触れる機会を多く持ってもらえればということだったそうだ。

このように、コミュニティのつながりや信頼関係の中で制服姿の学生がやってくるジャズ喫茶やジャズ・スポットもある。

東京・神田のジャズバー「Root Down」のマスターは、筆者より4、5歳下だが、すでに中学の頃から御茶の水駿河台下のジャズ喫茶「スマイル」に通っていたそうだ。そこには中高一貫の有名な私立女子中学生も来ていたという。

中学生がジャズ喫茶に通うというのも東京ならではだが、モダンジャズブームが全盛期を迎えた60年代半ごろからは、中学生のジャズファンもかなり増えたようだ。しかし高校生とは違って、義務教育下にある中学生のジャズ喫茶通いについては前述のハイミナールなどの薬物問題なども絡んで、世間の目はかなり厳しかったようだ。『ジャズランド』1977年 11月号の座談会「話そう! ジャズの楽しさを!!」(出席者:中平穂積、松任谷国子、小寺欣一、司会・岩浪洋三)の中で、新宿「DUG」オーナーが中平穂積氏が、当時について次のように振り返っている。

岩浪 今一番下の年令でジャズ聞くのはいくつ位でしょうか。

小寺 くわしくデーター調べていないからわからないですね。FM東京では十六位までしか調べてないんです。

中平 だいたい中学三年位からじゃないですか。ずーっと前だけど僕のとこの店へも中学三年位のが、三人組で、どうしても聞きたいから、入れてくれという人達がいましたがね。聞いてみると、レコード買いたいけどお金もないし、そうかと云って、年少だからどこのジャズ喫茶も入れてくれないしというわけ。かわいそうだけど、僕のところでもまずいからことわりましたがね。

小寺 喫茶店も年令制限があるんですか?

中平 十年位前は、おまわりさんが、青少年補導でしょっちゅう廻って来ていましたからね、入れると僕らが始末書書かされるのでね。年少のジャズファンはそういう点かわいそうですね。ラジオではそうジャズばっかりやっていないし、レコード買うにもお金もないわけだしね。

「スマイル」に中学生も来ていたのは70年代に入ってからの話だが、彼らのような「年少」が入ることができたのは「スマイル」のママ、加納とも枝さんのキャラクターに負うところも大きいだろう。

加納さんは2003年に移住先のニューヨークですい臓ガンのため亡くなるが、昭和のジャズ喫茶名物ママの一人と言っていい存在だ。熱烈な映画ファンとしても知られ、『話の特集』や『キネマ旬報』などで映画に関するコラム、エッセイを連載し、『シネマの快楽に酔いしれて』(清流出版)という本も上梓している。

1953年前後の話だが、加納さんは映画会社にその熱心さを認められ、通っていた私立共立女子中学の制服姿でいつも試写室に入り、封切り前の作品を映画評論家たちと観ていたという。ある評論家に「あなたはどこの会社の方ですか」と尋ねられて「共立です」と応えたそうだ。こういうママだから、自分の店に女子中学生がいてもさして気にとめなかったのだろう。

「スマイル」のリクエストのルールは他店とは少し違っていて、ふつうはレコードの片面ぜんぶをかけるのだが、この店でリクエストが認められるのは1曲のみだった。ジュークボックスのような感覚だったのかもしれない。会話は禁止ではなく、ママと客がジャズや映画の話題で盛り上がる店だった。

「ヨーソロー」のすずママもそうだが、店主が女性だと、店の雰囲気は明らかにちがう。

女性客が安心して落ち着けるのだ。どのジャズ喫茶にもいえることだが、ママのいる店には女性客が多い。

「ヨーソロー」で五月やさくらが働き、いつのまにか親の世代の明美やすみれが店のなじみとなり、カウンターに座って珈琲をほっこり飲んでいるのも、このすずママの存在ゆえだろう。

ドラマでは、五月の恋人、河合二郎が上京してプロ・ドラマーになるかどうか迷ったあげく、父親に逃げられて残されてしまった弟や母親の面倒、そして妊娠をさせた五月のために神戸に残るという決断をすることになった。

そして五月の出産後、すずママは、自分は引退して二郎と五月に「ヨーソロー」を継がせると宣言する。これが2月11日に放送された第109話で、「ヨーソロー」を中心に展開していた「ジャズ喫茶編」は、おそらくここでひと区切りがついたことになるだろう。

初めて河合二郎が出てきたときにすぐに連想したのは、「ベイシー」のマスター、菅原正二さんだ。

菅原さんは大学在籍中は早稲田大学ハイソサエティ・オーケストラでドラムを叩き、アメリカまで遠征するほどの腕前だったが、身体を壊したことにより故郷の岩手の一関に帰り、やがて「オーディオでは日本一のジャズ喫茶」言われる店を開いた。店にはドラムセットが置かれ、気が向いたときにはレコードに合わせて叩いたり、ライブでも叩いたりする。二郎もゆくゆくは日本一と呼ばれるジャズ喫茶のマスターになるかもしれない。(次ページへつづく)

神戸ジャズ喫茶巡り

さて、いまも神戸はジャズの盛んな街であり、自治体が中心となってイヴェントを開催して「ジャズの街神戸」を全国にアピールしている。なかでも三宮、元町界隈にはジャズ・スポットが集中していて、その気になれば1日でぜんぶまわることもできる。

神戸のジャズ喫茶、ジャズバーをちょっと紹介してみよう。

JAMJAM(ジャムジャム)

元町駅からすぐ、元町通1丁目の ビル地下にある「JAMJAM」は、おそらく関西ではもっとも爆音で聴かせてくれるジャズ喫茶だ。とにかく音がデカイ。

大きな特徴は、会話厳禁スペースと談話スペースに分れているところ。スピーカー前の会話厳禁席には真剣にジャズを聴く客が多いので、オーダーをするときも声を出さずにメニューを指差したほうがいい。いっぽう、会話スペースはゆったりとしたソファーに腰掛けてリラックスできる。

ケーキなど甘味類のメニューも豊富で若い女性客も少なくない。硬派と軟派、ふたつの顔を持ち合わせた面白い店だ。

M&M(エム・アンド・エム)

「JAMJAM 」から歩いて5分ぐらい。神戸の中華街「南京町」の西安門のそば、「うみねこ堂書林」という古本屋の2階にある。

初代から引き継いだ2代目オーナーはまだ30代のご夫婦。窓に花が飾られていたり、清潔感のあるインテリアの随所に女性オーナーらしい心づかいが見えて、威圧感はまったくない。

カレーをはじめ飲食メニューが豊富なので女性客も多い。中華街見物のついでに立ち寄る客も多いようだ。くつろいで会話を楽しんでいる客が大半だが、BGM程度でジャズを流しているわけではなく、マッキントッシュのアンプと大きなJBLスピーカーというジャズ王道のオーディオで、アナログレコードの音をしっかりと聴かせてくれる。

茶房Voice(ヴォイス)

全国にある「センター街」の元祖といわれる神戸三宮センター街。アーケード商店街には珍しい2階構造になっているが、そこに面した複合商業施設、センタープラザ西館の2階にある喫茶店。

先代マスターのジャズ好きがこうじて所有するジャズ・レコード数はいつのまにか6,000枚を超え、ジャズ喫茶のようになってしまったという。長い歴史があるため、神戸のジャズ・シーンではよく知られた存在。

真空管アンプでヴィンテージのアルテック・スピーカーを鳴らしているが、音は小さめ。珈琲店として楽しんだほうがいいだろう。茶房という名がしっくりくる、たいへん落ち着ける店だ。

隣には先代が経営する真空管アンプの修理や販売を行なうオーディオの店「Radio days」、センタープラザ東館地下1階には系列店のカレー屋「SAVOY」がある。

JAVA(ジャヴァ)

三宮駅西口を出てすぐの高架線下にある創業1953年の歴史ある店。当時の造りをほぼそのまま今に残しているようで、昭和30年代のジャズ喫茶の雰囲気を満喫できる。来店して歌ったという江利チエミやここでレコードコンサートをやった大橋巨泉のサイン、当時使っていたオーディオ機器などが店内にディスプレイされている。

巨泉と神戸とは縁があり、夜行列車に乗って東京からよく仕事に来ていた。自伝によると、いちばん最初に彼が神戸でDJをやったのは1957年のことで、創業したばかりの「コペン」というジャズ喫茶だった。

当時の巨泉はまだ仕事が少なく、積極的にジャズ喫茶に声をかけて回っていたようだ。「ジャヴァ」でのレコードコンサートもその時期に行なったものだろう。

ちなみに巨泉はこの年の秋に公開された石原裕次郎の映画『嵐を呼ぶ男』の挿入歌、「おいらはドラマー」のフレーズで知られるタイトル曲を手がけたことで注目を浴びて売れっ子となり、困窮生活から脱する。

グーグル・マップのこの店の表示はまったく間違っているので要注意。三宮駅西口改札を出るとすぐ左手に見える「ドトールコーヒー」の前を、向かって左に直進するとすぐ。

「さりげなく」

村上春樹が通っていたジャズ喫茶としても知られるが、オーナーが替わって場所も北野坂に移り、いまは夜のみ営業のジャズバー。

めずらしい店名は先代マスターの国東光治さんが、ロジャース&ハートのスタンダードナンバー「It Never Entered My Mind」のタイトルを自身で「さりげなく」と訳してつけたものだと、かつて常連だった人から筆者はその由来をうかがったことがある。

国東さんはアニタ・オデイが歌うバージョンがお気に入りだったようだが、マイルス・デイヴィスの演奏でもよく知られている。2代目マスターの冨山公雄さんになってからすでに30年を越えた。 ボックス席もあるがカウンター席中心の店。

他にも三宮、元町界隈には老舗ジャズ喫茶「木馬」が移転してリニューアルした「MOKUBA’S TAVERN」やカフェでありライブスポットでもある「萬屋宗兵衛」などがあるが、「KOBE jazz.jp」というウエブサイトの「ジャズ探訪記」に、神戸のジャズ喫茶、ジャズバー、ライブスポットを一軒ずつ丁寧に取材した素晴らしい記事が掲載されているので、ご興味を持っていただいた方はそれをぜひチェックしていただきたい。

ところで朝ドラの常連、佐川満男が今回も出演している。

キアリスの看板商品であるベビー肌着用のメリヤス生地を織る工場の職人として登場、当時もすでに稀少となっていた古い機械を操る、キアリスのブランド力を縁の下で支える役どころだ。

前回登場の「マッサン」では、北海道・余市工場のウイスキー蒸留機の要となる真鍮ポットスチルをつくる製作所の社長を演じていたが、「カーネーション」や「だんだん」など、NHK大阪制作の朝ドラにはもう欠かせない顔だ。

筆者の世代は、佐川ミツオから佐川満男と改名し、アゴヒゲをたくわえたダンディな顔立ちで「今は幸せかい」(1968年)を大ヒットさせてスターの座に返り咲いた頃からしか知らないが、「佐川ミツオ」で1960年にデビューした当時は、「無情の夢」や「ゴンドラの唄」などを少年がさえずるような甘い声でヒットさせた、いまでいえばジャニーズふうの人気アイドルだった。

内田裕也のオフィシャルサイトによると、内田が生まれて初めて結成したバンドのメンバーの一人が佐川ミツオだった。

1957年、大阪の高校を中退した内田は、佐川とバンド・ボーイをしながらロカビリー・バンドで活動を始めたという。佐川はその後、のちにホリプロ社長となる掘威夫率いるロカビリー・バンド、スウィングウエストのボーカリストを務めた後、ソロデビューする。

「逢いたいなァママ/哀愁のジャズ喫茶」佐川ミツオ歌、佐伯孝夫作詞、吉田正作曲/ビクターレコード/1961年

本記事のキャッチ画像として使っているのは、1961年に佐川ミツオがリリースしたシングル「逢いたいなァママ(A面)/哀愁のジャズ喫茶(B面)」のジャケット。

「逢いたいなァママ」はあまりパッとしない結果に終わった曲だ。作詞は佐伯孝夫、曲は吉田正。「有楽町で逢いましょう」をはじめ「東京ナイト・クラブ」「潮来笠」「いつでも夢を」など、昭和30年代から40年代にかけて多数の大ヒットを生み出したゴールデン・コンビだ。

このコンビによる大ヒットのひとつにフランク永井の「西銀座駅前」(1958年)があるが、歌詞の三番に「若い二人はジャズ喫茶 ひとりの俺の行く先は 信号燈が知ってる筈さ」とあるように、佐伯孝夫はジャズ喫茶を当時流行の風俗として扱うのを好んだようだ。ちなみに西銀座にはジャズ喫茶ブームの先鞭をつけた「テネシー」などがあった。

蛇足だが、昔は地下鉄丸の内線に「西銀座」という駅があり、この歌はその開通の翌年にできたもの。1964年に日比谷線銀座駅が開通したときに、銀座線「銀座」駅と丸の内線「西銀座」駅と日比谷線「銀座」駅が統合されていまの東京地下鉄(東京メトロ)「銀座」駅となった。

<逢いたいなァママ><哀愁のジャズ喫茶>ともに、ジャズ喫茶を題材にしたものだが、管楽器のオケが入ってはいるものの、ジャズ的な要素はほとんどなく、泥臭いリズムは1950年代のアメリカのR&Bに近い。佐川ミツオの持ち味だった過剰なまでにウエットでとろりと甘い歌声が響く、情感豊かな昭和歌謡になっている。

佐川満男は神戸出身でいまも神戸に住んでいる。1960年の彼は21歳。「べっぴんさん」で描くその頃の神戸は、まさに彼の青春そのものだった。  (了)

text by katsumasa kusunose@jazzcity