ジャズ喫茶案内

東京・四谷 いーぐる  ジャズ喫茶の物語

ロック喫茶として生まれた空間

東京・四谷のジャズ喫茶「いーぐる」が2019年12月14日で創業52周年を迎えた。これは東京で現在営業をしているジャズ喫茶の中では、1956年開業の日暮里「シャルマン」、1960年開業の明大前「マイルス」と浅草「フラミンゴ」、そして「いーぐる」と同じ1967年の11月に開業した新宿「DUG」に続いて5番目に古い。

筆者がこの店を初めて訪ねたのは1979年のことだった。店の入口も内装も今とほとんど変わらないが、当時の第一印象は、照明も雰囲気もジャズ喫茶にしては明るいなというものだった。

この頃筆者はジャズ関係の公演告知のチラシやポスターを置いてもらうために都内のジャズ喫茶や喫茶店を回るアルバイトをしていたが、数十軒訪ねた店の中でも「いーぐる」の「明るさ」は印象に残った。その後、数カ月に一度ぐらいの頻度で訪ねたが、その第一印象が変わることはなかった。

同じ時期に東京・八王子の「はり猫」というジャズ喫茶を訪ねたことがあるが、ここもやはり明るくて、やや軟派な雰囲気とすら感じられたものだった。「はり猫」は開業したばかりだったのだが、第一印象は当時流行のまっただなかにあった「アメリカ西海岸風のカフェのよう」だった。

メンズ誌『POPEYE』が創刊されたのは1976年の夏だが、創刊号で1冊まるごと「カリフォルニア特集」を展開し、その後もサーフィンやテニスなどのスポーツをはじめ、衣食住の広範囲にわたって《アメリカ西海岸のライフスタイル》を徹底的に紹介したこの雑誌は、大学生を中心とする若者たちの心を完全にとらえた。おりしも1976年暮れにイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が大ヒットしたこともそのブームに拍車をかけた。

「陸(おか)サーファー」と呼ばれる、サーフィンはできないがファッションだけはサーファー・スタイルの大学生や、テニスをするわけでもないのにテニスラケットを小脇に抱えて歩く若い男女が都会の街角やキャンパスに溢れた。

彼らが行く飲食店も、アメリカ西海岸ふうの意匠が凝らされた内装が好まれるようになり、アメリカ西海岸から直輸入された調度品やオブジェが飾られたカフェが続々とオープンした。それらの多くは1981年に大ヒットした大瀧詠一の『A LONG VACATION』のカヴァージャケット、永井博のイラストレーションの世界を再現しようとしたものだった。たとえばプラスチック製のヤシの木のオブジェは「西海岸の気分」を演出するためには必須のアイテムで、多くの若者たちが自室にもそれを飾り、彼らのクルマのダッシュボードの上にそれを置いた。

筆者が抱いた「アメリカ西海岸ふうカフェ」という印象を数年前に 「はり猫」の宮崎店主に話すと、「当時は『明るい』とずいぶん言われたものですよ」と同意してくれた。しかし今では、この「はり猫」はむしろ「店内の照明が暗いジャズ喫茶」の部類に入れられてしまうだろう。

「いーぐる」の後藤雅洋店主は「(昔のいーぐるが明るかったという印象を抱くのは)相対的なものじゃないでしょうか」と説明してくれたが、やはり当時の喫茶店、特にジャズ喫茶の多くは「いーぐる」や「はり猫」よりも暗かった、ということなのだろう。

しかし、私が「いーぐる」に抱いた「流行りの西海岸ふう」というイメージは間違っていた。

「いーぐる」ができあがったのは、日本にアメリカ西海岸ブームがやってくるよりも前、1973年だったからである。こうしたアメリカ西海岸テイストの源流をたどると、60年代末期のアメリカで生まれた現代文明批判的な思潮にたどりつくのだろうが、ここでそれを詳細に指摘するのはやめておこう。

いまでは「ジャズ喫茶の老舗」と言われ、その空間はジャズ喫茶の伝統を伝えるものと受けとめられがちな「いーぐる」だが、もともとこの店舗は〈ロック喫茶〉の空間として設計されたものだった。この点も当時の「いーぐる」が他のジャズ喫茶よりも明るく感じられた原因のひとつなのかもしれない。

「この店は、最初は『ディスクチャート』というロック喫茶でした。ただ、全然お客さんが来なくて半年で潰れちゃって、その時に(すぐ近くで)同時並行的にやっていたジャズ喫茶をこっちに持ってきたんです」(後藤店主)

1967年開業当初の「いーぐる」は、後藤店主の父親が経営していたバーの地下で開店休業状態だったスペースをジャズ喫茶として使ったもので、大きさは現店舗の半分ぐらいだった。

開業前、後藤店主は慶應高校の同級生が作った「レ・シャドウズ」(英国のザ・シャドウズのもじり)というアマチュア・バンドのマネージャーをやっていて、そのバンドが友人たちを集めて夜な夜なバーの地下でパーティを開いているのを見た後藤店主の父親が「遊んでるなら店でもやってみろ」と言ったのがきっかけだった。

しかし開業して6年後の1973年の春、新宿通りの拡幅工事によって、この店舗はやむなく立ち退きをすることになる。一方、同じ新宿通り沿いでその旧「いーぐる」よりも数十メートルほど西(JR四谷駅から新宿方向寄り)のあたりは、すでに拡幅工事が終わっており、後藤店主はそこにも1972年10月から2軒目の店舗を借りていた。それが「ディスクチャート」だった。

しばらくの間、旧店舗(いーぐる)と新店舗(ディスクチャート)が同時に営業されていたが、経営不振のために「ディスクチャート」を閉めた後、その新店舗へ「いーぐる」を移転させたということだ。

つまり、いまのジャズ喫茶「いーぐる」はロック喫茶「ディスクチャート」がほぼ居抜きのようなかたちで生まれ変わったものだった。スピーカーとレコード・コレクション以外は、「ディスクチャート」のままだったという。

当時の『スイングジャーナル』を調べると「いーぐる」の移転広告が出されたのは1973年7月号で、その前号の6月号の広告は以前の住所となっているので、おそらく移転は1973年6月だろう。「ディスクチャート」の雰囲気について、スタッフだった長門芳郎は『パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989』(リットーミュージック)で次のように書いている。

70年代にはロック喫茶がちょっとしたブームだった。渋谷や新宿、吉祥寺をはじめとする中央線沿線など、いろんなところに乱立していたのだが、ディスクチャートは今でいうカフェのようなモダンな雰囲気のする店だった。例えば当時のロック喫茶といえば、照明が暗く、タバコの煙がもうもうとするなかでハードロックに浸る、というイメージだったが、ディスクチャートはおしゃれなカウンターがあって、その横にはガラス貼りのターンテーブルを置いたDJブースがあるという洗練された内装だった。さらに奥には1メートルはあろうかというタンノイのスピーカーが鎮座していて、素晴らしいサウンドを鳴らしていた。

「ロック喫茶のようなタバコ臭い薄暗い店内ではなく、カフェのようなモダンな雰囲気」という長門の記憶は、これは筆者が初めて「いーぐる」を訪ねた時に抱いた印象と同じである。

「この店(ディスクチャート)を作るときにはデザイナーに注文を付けました。最新流行のものはやらないでくれと。そのときは良くても、時間が経つと古臭くなってしまいますからね。設計はケイスケさんというデザイナーにやってもらったんですが、彼は建築の図面が描けなかったんです。それで彼の友達の駒崎且郎さんが実際に図面を起こしました。この店の設計はこの2人の合作ということになります。コマちゃんものちに偉くなりましたよね」(後藤店主)

「コマちゃん」こと駒崎且郎は後藤店主と同い年の1947年生まれで、70年代後半から80年代にかけては『POPEYE』のライバル誌として20代男性読者の人気を分けた『ホットドッグプレス』(講談社)の花形編集者、コラムニスト、広告プランナーとして活躍した。いとうせいこうが、まだ講談社社員として同誌の編集部に在籍していた頃だ。

『ホットドッグプレス』での仕事を辞した後の駒崎の単著に『気まま、我がまま、風まかせ!』(舵社)という、彼の4年間に及ぶヨットでの世界一周旅行をまとめた紀行エッセイの名作がある。過酷な冒険譚を想像しがちだが、世界各地の寄港先で知り合った人々とワインや旨いものを食べては、長いときには半年も同じ港に停泊しながら世界中をゆるゆると放浪したという話だ。

「いーぐる」の内装にはどことなく船のキャビンを思わせるところがあるが、もしかするとそれはヨットで世界一周に出かける前の、駒崎の夢が反映されたものだったのかもしれない。そして当時のジャズ喫茶にありがちだったアングラ的な鬱屈とした雰囲気が漂っていなかったのは、駒崎の洒脱で都会的なセンスのおかげだったのかもしれない。

筆者は20年以上前に駒崎と会ったことがあるが、私よりも一回り歳上なのに当時からすでにマッキントッシュのPCを使いこなし、写真や図版などのグラフィックを編集した美しい企画書を作成していて、そのスマートさに感服させられたものだった。「いーぐる」が西海岸ブームのやってくる数年前からそのテイストを先取りしていたのも駒崎ならではだったのかもしれない。

今もそうだが、昔からジャズ喫茶にはジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスといったジャズメンの大きな写真が偶像崇拝的に飾られていたりするものだが、「いーぐる」にはそうしたものは一切ない。

「いーぐる」に飾られているのはマティスの絵をあしらったポスターや棚の上に置かれたロードバイクのミニチュアなど、シティボーイの部屋のインテリアを連想させるようなものだ。

唯一、入り口の階段の壁にジャズ関連のライブ告知ポスターなどがたくさん貼られているが、これは外部からの訪問者に対して、「ここはジャズの店」と伝えるためのシグナルのようなものだろう。

同じ東京でも新宿や御茶ノ水や中央線沿線のジャズ喫茶には、地方出身者が親近感を抱けるような泥臭ささや野暮ったさがあったが、「いーぐる」にはどことなく、そうした雰囲気を敬遠するかのような、クールで都会的な匂いがあった。これは、この店の基本的な部分を作り上げた後藤店主やその友人たちが、いずれも東京で生まれ育った若者たちだったことと無関係ではないのかもしれない。

そして山下達郎を中心とするシュガー・ベイブの誕生にロック喫茶「ディスクチャート」が大きく関わっていたというエピソードが生まれたのも、この店の都会的な気風と無関係ではないのではないだろうか。

シュガー・ベイブ誕生の物語

「ディスクチャート」とシュガー・ベイブの関係については、まずは船津潔の述懐をここに紹介する。

72年だった。バイト先の四ツ谷にあった《ディスク・チャート》というロック喫茶との出会いがきっかけだった。 エリック・アンダーソンやロギンス&メッシーナ、サザーランド・ブラザーズ、リンディスファーンそれにマーク・ベノなど、それまであまり熱心に聴いたことのない、むしろ以前であれば「こんなのロックじゃない」と毛嫌いするタイプの音楽が流されていた。店内はいつも閑散。我々バイト仲間(大学の音楽サークルの悪友達)とシュガー・ベイブでデビューする前の山下達郎氏等が数少ない常連だった。

あとで知ったのだが、シュガー・ベイブのマネージャーだった長門芳郎氏がDJ、選盤をされていたそうだ。丁度思想的かつ心理的に変化(成長?)していた時期だったことも起因していたと思う。毎日のように通う内にその手の音楽の虜になっていった。そんなとき誰からか「こういう音楽が好きなら《ブラック・ホーク》に行くといいよ」と勧められたのである。(船津潔 ブラック・ホークでの夢の日々を送り、ブラック・ホークと別れて新しい夢をつかむ 『渋谷百軒店ブラック・ホーク伝説』/音楽出版社)より抜粋

60年代、渋谷の百軒店の狭い路地には多くのジャズ喫茶がひしめいていたが、いまでは伝説のロック喫茶といわれる「ブラック・ホーク」も、もともとはそれらのジャズ喫茶の中の1軒だった。68年ごろから経営方針を転向してロック喫茶的なものになるが、当時最先端の洋楽を聴いていた東京の若者たちから支持される雰囲気を作り上げたのは、オーナーよりも、レコード係であった松平維秋によるところが大きい。松平はかつて新宿のジャズ喫茶「DIG」のレコード係を務めていた。

「ディスクチャート」の常連は山下達郎とシュガー・ベイブのメンバーや、長門芳郎をはじめとするのちに南青山のレコードショップ「パイドパイパーハウス」の関係者となる者たちだったが、こうした交友関係は、「ブラック・ホーク」の常連たちとも重なるものだったようだ。「ディスクチャート」と「ブラックホーク」で流れるレコード・コレクションには共通性があったからだ。もっといえば、長門たち「ディスクチャート」のスタッフは、店のレコード・コレクションを「ブラックホーク」的な方向に近づけていったようだ。長門芳郎は次のように書いている。

お店のレコード・コレクションは、ビートルズやバッド・フィンガー、キンクス、ローリングストーンズ、ザ・フーなど、当初は日野原さんのブリティッシュ・ポップ志向を反映したものだった。もちろん、ビーチ・ボーイズ、ラヴィン・スプーンフルなども置いてあったが、小宮と僕が入ってからはさらにアメリカ音楽の比重が増していく。ヤングブラッズ、ラスカルズ、クイック・シルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ジョン・セバスチャン、ローラ・ニーロ、ジョニ・ミッチェル、アル・クーパー、リトル・フィート、さらに当時、新譜で出たばかりのボビー・チャールズやベターデイズ、アルゾ、バリー・マン、ベン・シドラン、トッド・ラングレン、スティーリー・ダンなど、店でかけるレコードの予算をもらって、小宮と僕で輸入レコード店に買いに行き、アメリカのロックやシンガー・ソングライターのレコードを増やしていったのだった。(長門芳郎『パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989』/リットーミュージック)より抜粋

ここに出てくる「小宮」とは《幻のシンガーソングライター》と言われる小宮やすゆうのことだ。

長門と小宮はともに長崎の出身で高校時代からの友人だった。大学進学で上京した長門と小宮は、故郷の長崎の高校生や大学生たちと「SOON!」というコミュニティを作り、ガリ版刷りの音楽ミニコミ誌を発行したり、長崎で野外フェスなどのコンサートを主催するなどの活動をしていた。風都市と交渉して、はっぴいえんどを呼んで長崎公会堂でライブをやったこともある。

この2人がそれぞれ矢野誠の縁で「ディスクチャート」で働くようになったことから、シュガー・ベイブ誕生の物語が始まる。ことの発端は、矢野誠が「ディスクチャート」に大貫妙子を連れてきたことからだった。「ディスクチャート」、そして山下達郎との出会いについて、大貫は次のように語っている。

「赤い鳥の『竹田の子守歌』は好きな曲でしたが、当時は洋楽しか聴いていなかったので。あまり気がのらなかったですね。そんなとき音楽プロデューサーとして矢野誠さんが現れ『君、このバンド合わないからやめたほうがいいんじゃない』と言われたんです。

自分の曲を聴いてもらったら『君、オリジナリティがあるよ』と」当時、若いミュージシャンが集まっていた四谷の「ディスク・チャート」という店を紹介された。「君が好きな音楽をカバーしている人がいる」とのことだった。

「そこで、みんなが面白がって私のデモテープを作り、デビューさせようってことになったんです。何回目かの日に明け方までやっていたとき、時々来てただ眺めていた山下くんが突然『ギター借りていい?』と弾き出した。何、この人、素敵。歌上手!って(笑)それから話をするようになりました」

「萩庭桂太 YOUR EYES ONLY」「ある日の明け方、山下くんが 大貫妙子」取材・文 森 綾

大貫妙子は19歳のときに「三輪車」というフォークバンドを組んでいたが、レコード会社から「赤い鳥」のような歌を歌ってほしいという希望を出されて迷っていたときに矢野誠があらわれ、それがシュガー・ベイブ結成のきっかけとなったという経緯だ。

大貫と矢野誠の出会いについて大貫は次のようにも語っている。

アマチュアバンドを組んでいた頃は、The Fifth Dimensionなど、洋楽のコピーばかりでしたね。ですので、自分では音楽を作っていませんでした。オリジナルを作り始めたのは、シュガー・ベイブを結成する2~3年前だったと思います。シュガー・ベイブを結成する前にフォークバンドにいたんです。18歳か19歳の頃で、初めて参加した本格的なバンドでした。ですが、そのバンドのためにわたしが書いた曲は、難しかったのか採用されませんでした(笑)。

その当時はフォークブームだったので、Warner Pioneer(現Warner Music Japan)からわたしたちのグループをデビューさせるために、プロデューサーとして矢野さん(矢野誠)が送り込まれたのです。矢野さんはわたしたちのグループをデビューさせるために来たはずなのに、なんと! わたしに「君が書く曲や詞はバンドに合っていないから、このバンドは辞めたら?」とおっしゃったのです(笑)。その頃のわたしには、一緒にやれる音楽仲間がいませんでした。それで誘われるままにフォークバンドに参加したのですが、わたしが好きな音楽を彼らと共有できなかった。それで、矢野さんに「君に合う仲間がいるから」と言われて、 「じゃあ、やめちゃおう!」と。当時、四谷の音楽喫茶で夜中にセッションしている人たちがいるからと紹介していただいて。そこで出会った方たちと意気投合して、わたしの書いた曲のデモテープを録ってみたりするようになり、山下くんと出会い、それがシュガー・ベイブの結成に繋がりました。

山下くん(山下達郎)にも、わたしにも、大げさではあるけれど、理想とする音楽、というより音楽の傾向がそれぞれにあったんですね。それに対するフラストレーションはあったかもしれません。そのかわりバンドのリハーサルはすごくしていました。仕事もなくて時間があったということですけど、きっと(笑)。シュガー・ベイブは全員東京出身ですから、例えば東京に出て来て頑張るというような感覚は最初からないわけで。ずっと音楽で食べて行こうなどとは全く考えていなかったと思います。

大貫妙子:長い旅 Patrick St. Michel Red Bull Music Academy

2010年に再発された大貫妙子のファーストアルバム「GraySkies」のライナノートで長門芳郎は次のように書いている。

1972年の秋、四谷にディスクチャートというロック喫茶ができて、僕はそこで働いていた。そこへある日、アレンジャーの矢野誠さんに連れられて、やってきたのが大貫妙子だった。ジョニ・ミッチェルが好きだという彼女は、その後、よくひとりで来るようになった。男性二人と彼女で、フォーク・トリオを組んでいて、レコード・デビュー直前だったのだが、彼女の才能に気付いていた僕らの仲間は皆、シンガーソングライターとしてソロ・デビューした方がいいと思っていた。当時、店を閉めた深夜に店のスタッフでもあった小宮康裕や徳武弘文らが集まり、セッションというか、自作曲のデモを録ったり、時には、CM音楽(コカ・コーラとか)の録音をしていた。そこに彼女を誘い、彼女のオリジナル曲のデモ・テープを録音することになった。その頃、録音した数曲の中の1曲が「午后の休息」である。当時、僕らが大好きだったピーター・ゴールウェイ(フィフス・アヴェニュー・バンド)やジェイムズ・テイラーからの影響がうかがえるアレンジは、今聴いても新鮮、そしてバブより、彼女の歌声のみずみずしいことよ。

この再発CDにはボーナス・トラックとして「ディスクチャート」で録音された「午后の休息」のデモ録音ヴァージョンが収録されている。小宮やすゆうと徳武弘文のアコースティック・ギターをバックに大貫が歌っている。いーぐる50周年を記念して制作された小冊子『いーぐるに花束を』の中で、徳武弘文は次のように書いている。

流石に人脈の広い小宮君、「ディスクチャート」を任されます。そしてお店の終了時間から自由に使える事となりました。そこで当時のテレコや録音機材を持ち込み実験的なレコーディングを始めました。私のミュージシャン生活がここから始まったとも言えるでしょう。亡くなられてしまったけどTBSの日野原さんから貰ったテレキャス・ベースを弾いたり(後にベースプレイヤーとしていろんなグループに誘われるが勿論断る)アコギ、エレキを弾きまくるのでした。

小宮やすゆうも同じこの冊子で「ディスクチャート」の思い出を次のように書いている。

ほんの短い間でしたが72年のDisk Chartの時代後藤さんが深夜のバンド活動を許して頂いてその仲間達から山下達郎君、大貫妙子嬢、徳武弘文とその後音楽シーンを代表するミュージシャンが産まれた事は後藤さんの暖かいご支援が無ければシュガー・ベイブも産まれなかった事は確実です。当時タンノイのスピーカーで聴いていた音楽は最高の音質で今でもハッキリと覚えています。

「ディスクチャート」の設計は音響のための工夫もされていた。入って右側の天井が傾斜しているのはフラッターエコーの発生を塞ぐためのものであり、天井の各所には着脱自由の吸音体が取り付けられている。また床が三段になっているのも音響効果への配慮からである。こうしたことから、大貫妙子のデモ・テープを録音する場としても適していたようだ。

シュガー・ベイブの存在が世間に知られるきっかけになったのは1973年9月21日に東京・文京公会堂で行われたはっぴいえんど解散コンサート「CITY Last time around」 に「大瀧詠一&ココナッツ・バンク」のコーラスとして出演したことからだが、そのいきさつにも「いーぐる」が少し噛んでいる。

きっかけは、このコンサートにココナッツ・バンクのメンバーとして出演した伊藤銀次だ。

1973年の夏、伊藤は大瀧詠一がプロデュースしていたココナッツ・バンクの練習に明け暮れていたが、ある日、和田博巳が経営する高円寺のロック喫茶「Movin’」で、ビーチボーイズのカヴァーをする日本人グループの存在を知る。山下達郎が卒業記念として大学の仲間たち(村松邦男、並木進、武川伸一、鰐川巳久男)と限定100枚で自主制作したアルバム「Add Some Music To Your Day」が店で流れていたのだ。

驚いた伊藤は、代表者の並木進に連絡を取り、まだ在庫に残っていた1枚を手に入れる。自宅でそれを聴いていた時、偶然訪ねてきた大瀧詠一が「いまどき珍しいよ、いるもんだねえ」とそのアルバムに興味を示し、そして大瀧はこの音源を制作した者たちにはっぴいえんど解散コンサートに出演してもらうよう、伊藤に交渉を命じるのである。

伊藤は並木進から山下達郎が今はシュガー・ベイブというバンドを始めていることを聞かされ、そのマネージャーの長門芳郎の電話連絡先を教えてもらう。

この1973年の夏、長門芳郎は「いーぐる」で働いていた。そのときは「ディスクチャート」はすでに閉店となり、ジャズ喫茶「いーぐる」に変わっていたが、引き続き店のスタッフとして働いていたのだ。そして伊藤銀次が長門の連絡先として教えてもらった電話番号は、どうやら「いーぐる」の番号だったらしい。

長門によると、いまも店の一角にあるピンク色の公衆電話に伊藤からの連絡がきたという。当時シュガー・ベイブのマネージャーだった長門は、後藤店主の了承を得て名刺に「いーぐる」の電話番号を刷っていたのだ。

その後、シュガー・ベイブは翌1974年にエレック・レコードと契約、同じ年の秋に山下達郎や大貫妙子が参加し、細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫らかなるキャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)がバックを務めた荒井由実のセカンド・アルバム『MISSLIM』がリリース、そして1975年にシュガー・ベイブの初アルバム『SONGS』がリリースされる。

長門芳郎が関わった人脈によって日本のシティ・ポップスの源泉とでもいうべきサウンドがこうして造り出されることになるが、その長門や彼の音楽仲間たちのサポートをした存在のひとつが「ディスクチャート」でありジャズ喫茶「いーぐる」だったという見方もできると思う。

(次ページへつづく)

早熟の天才、日野原幼紀

ところで、先に引用した徳武弘文の回想に「TBSの日野原さん」と出てくるが、これは、後藤店主と慶應義塾中等部の同窓だった日野原幼紀のことだ。

小宮やすゆうが当時のタンノイのスピーカーのサウンドが最高だったと書いているが、「ディスクチャート」のスピーカーにタンノイのレクタンギュラーヨークが導入されたのは日野原の助言によるものだった。「彼がブリティッシュ・ロックをかけるんだったらタンノイがいいっていうんで買ったんですよ。確かにビートルズの英国盤とかをかけるとすごいよかったですよ」(後藤店主)

ここまで「ディスクチャート」について書いてきたが、この店の基本設計とでもいうべき部分で最も大きな役割を果たしたのは、この日野原幼紀だったようだ。

「早熟の天才」と後藤店主が呼ぶ日野原は、「ディスクチャート」の音楽プロデューサー的な存在だった。そして、店のスタッフとして長門芳郎を後藤店主に紹介したのも日野原だった。日野原が矢野誠と親しく、その矢野の知人の長門が仕事を探しているということで口添えをしたらしい。

長門よると、シュガー・ベイブ誕生のきっかけとなった毎週水曜日夜の「いーぐる」でのセッションのためのマイクや録音機材などは、日野原がTBSから借りてきたものだったらしい。

日野原幼紀は、1947年に静岡県に生まれ、3歳のときに東京に引っ越してきて、慶應義塾中等部に入学後、同高等部を経て慶應大学を卒業する。高校3年の夏に矢野誠らとMarlinMonroe hus’bandを結成、大学2年まで活動するがオリジナル数曲を残して解散(のちの1976年、マリリン・モンロー・ハズバンド名義で矢野と日野原はJ.Diamond(筒美京平の変名)作曲による『ピーナッツ』という曲をCBSソニーから7インチレコードをリリースしたこともある)。

その後TheClubというサークルを作り、インディーズ映画を製作していたが(後藤店主もこのサークルにかかわっていた)、69年頃からTBSの「ヤング720(ヤング・セブン・ツー・オー)」の製作にアルバイトADとしてかかわるようになり、これが日野原の人生を大きく変え、以後、放送作家としての道を歩む。

「ヤング720」は毎週月曜日から土曜日まで午前7時20分から午前8時まで放送されたワイドショー形式の若者向け情報番組だった。放送期間は1966年から1971年まで。日本テレビで1965年にスタートした深夜番組「11PM」の構成を当時のティーンエイジャー向けにアレンジしたようなもので、曜日ごとに司会が代わり、スタート時の1966年は月曜と火曜は竹脇無我と小川知子、水曜と木曜は松山英太郎と由美かおる、金曜と土曜は関口宏と大原麗子といった男女2人のコンビが司会を務めた。

当初は十代に人気の雑誌、『明星』や『平凡』的な切り口で日本のGS(グループ・サウンズ)を中心に扱う内容だったのが、放送開始1年を過ぎたころから傾向に変化が生まれ、横尾忠則や篠山紀信が朝食を食べながら芸術討論をするコーナーの「ヤング朝食会」が生まれたのをはじめ、過激でカウンター・カルチャー的なものになっていった。

こうした方向性の変化に大きな影響力を及ぼしたのが「TBS の不良娘」と呼ばれたディレクター、高樋洋子だったといわれている。

「ヤング720」での高樋の仕事で特に知られているのは、1966年12月に横浜のカミナリ族(暴走族)「本牧ナポレオン党」を取材、テレビで初めて放映し、その際に彼らが出入りしていた本牧のクラブでデビュー前のゴールデンカップス(当時は<平尾時宗とグループ・アンド・アイ>と名乗っていた)を発掘、彼らを番組のオープニングで演奏させたことだ。

「ゴールデンカップス」と命名したのは高樋と言われているが、高樋はカップスの他にもスパイダースやタイガースも朝7時20分の番組オープニングで歌わせた。「そもそも朝の7時20分なんて時間帯はティーンエイジャーたちも寝ているんじゃないか」という意見がTBS局内にも多く、それなら番組しょっぱなからロックをガンガン鳴らして叩き起こしてしまえ、というのが高樋の発想だったようだ。

「<毎朝、高校生たちをロックの音で起こす>みたいなコンセプトの番組だっていうけど……実際流されるのはタイガースとかテンプターズとか、歌謡曲みたいなグループサウンズでしょ。そこにすごく反撥を感じていた。ぼくはビートルズの信奉者でしたからね。ぼくの当時の音楽感覚から言うと、和製ポップスなんて、音楽を志している人の音楽にはどうしても聴こえない。失礼だけど、とんでもなくひどい音楽に聴こえたわけです。」(「テレビ黄金伝説1 TBS「ヤング720」は朝の解放区だった/構成・望月充『団塊パンチ』VOL.1,no.1/飛鳥新社」)より抜粋

こう語るのは、高樋洋子ディレクターの下でADとして働いていた日野原幼紀だ。同インタビューで「タイガースとかテンプターズなんて結局、ぼくから見れば中尾ミエとなんら変わらないわけですよ」とも日野原は語っている。こうした「感覚」を尊大と受け取る人もいるかもしれないが、当時のいわゆる「ガチな洋楽ファン」、海外から発信されてくる文化に熱烈に憧れていた若者たちにはこうした傾向は少なからずあった。

日野原が「ヤング720」にかかわるようになったのは前述の「ヤング朝食会」だったらしい。

同コーナーでは「ヤング朝食会にいらっしゃいませんか」というテロップが流され、それを見てスタジオに集まってきた若者たちの中から番組の構成を手伝うスタッフが現れ、構成作家としてデビューした。その一人が日野原であったし、日野原と同じ慶應義塾大学生で、高橋信之(高橋ユキヒロの兄でありフィンガーズで成毛滋らと活動)と親しかった景山民夫だった。

「和製ポップスなんて」という日野原は、サンフランシスコやニューヨークで暮らし、アメリカのカウンター・カルチャーの洗礼を受けて帰国したばかりの景山民夫を巻き込んで、それまでの日本のGS中心の番組方針を修正し、ビートルズなどの海外ロックの紹介や日本のインディーズバンド、ミュージシャンたちを出演させる「音楽解放区」を築きあげようとする。

日野原たちはブレッド&バターにブラスセクションを加えてThe Byrdsの「So You Want To Be A Rock’n’ Roll Star」をカヴァーさせたり、ジャックスに「ロール・オーヴァー・ゆらの助」を歌わせた。まだデビュー前で「アンドレ・カンドレ」と名乗っていた井上陽水や、高校生の高橋ユキヒロと中学生の荒井由実が同じバンドで出演したこともある。また、ヘレン・メリルの息子のアラン・メリルがレギュラーコーナーを持っていて、スティーブン・スティルス(CSN&Y)の「4+20」をオリジナル通りに、まだ日本では知る人の少なかったオープンDチューニングで弾き語りをやってみせ、プロも含む当時の音楽好きの度肝を抜いたということもあった。

筆者が「ヤング720」を見始めたのは黒澤久雄、北山修、大石吾朗らが司会を担当するようになった1968年頃からだったと記憶しているが、なかでも一番惹き込まれたのは北山修と加藤和彦が出演する曜日だった。加藤がプレゼンターとなって海外の最新トピックスを紹介するコーナーはいつも刺激的でファッショナブルで、海外のユースカルチャーへの憧れを募らせた。

いまでも覚えているのは、1969 年7月、ビートルズの映画『イエロー・サブマリン』が日本で初公開されるときに、その予告動画が放送されたことだ。もはやありふれたものになってしまったが、当時、朝の7時20分から「動くイラストレーションのビートルズ」がお茶の間で流される衝撃を想像していただきたい(残念ながら筆者宅のテレビはまだ白黒画像しか映しだせなかったが)。

60年代の音楽(歌謡)番組は、ジャズ・べーシスト出身の渡辺晋が起こした芸能プロダクション、ナベプロ(渡辺プロダクション)がたくさんの人気歌手やタレントを抱えていたためにその支配下にあったといってよく、ナベプロは多くの番組に影響力を及ぼしていたが、高樋ディレレクターたちが仕掛けた「ヤング720」には、ナベプロ的な「歌謡曲の世界」へのカウンターとしての企てがあることが明らかにみてとれた。

たとえばナベプロが手がけた「シャボン玉ホリデー」には洒脱で洗練されたエンターテインメントという趣があるが、それは従来の「大人の視聴者」を想定したものであり、1966年のビートルズ来日以降急激に意識が変化しつつあった「ヤング」層をターゲットにしたものではなかった。また、「ヤング」が売り物になるというマーケティング上の認識がまだテレビ界でも弱い時代だった。「ヤング720」はそんな時代に、ビートルズ現象に影響を受けた、さらに言えばビートルズに感染した世代への訴求を目的に切り込んだ番組だった。

VTRがほとんど残っていないために幻の番組となってしまった観のある「ヤング720」だが、最近になってYouTubeで「東京—釜山ハイウェイツアー」という映像が上がっている。これは1970年に「夏休み特集」として放送されたもので、同年7月に関釜フェリーと釜山とソウルを結ぶ京釜高速道路が全線開通したのを記念し、「日韓友好ドライブ」を目的に日産サニーで全線を走破する模様を記録したドキュメンタリーだ。

残念ながらYouTubeに投稿された動画には音声が残っていないが、さながらロードムービーのようなタッチでストーリーが進行していき、この番組が当時いかに突き抜けていた存在だったか、その片鱗がうかがえる内容だ。

高樋ディレクターが番組のファッション担当をしていたこともあり、山本寛斎、ニコルの松田光弘、コシノジュンコらがスタジオにやってくることもあったし、宇野亜喜良などもいたという。「ヤング720」は、アマチュアからプロまで、そしてさまざまなジャンルのクリエイター、アーティストが出入りする、さながらカウンターカルチャーのカオスのような状態だったようだ。

高樋ディレクターと「いーぐる」の後藤店主は日野原を通して交流があったようで、後藤店主は同店のブログで「高樋さんにはずいぶんお世話になりました」と述懐している。

後藤店主は高樋ディレクターが率いる「ヤング720」の取材チームと行動をともにすることが多く、「ロック喫茶探訪」という企画では日野原たちとともに、伝説のロック喫茶といわれる新宿厚生年金会館そばの「ソウル・イート」を訪ね、当時ロック評論家としてデビューして間もない渋谷陽一を取材したことがあったという。

また、この「ヤング720」チームは、高樋がファッション担当だった縁で超有名ブランドのファッション・ショーのディレクションを手がけることもあり、後藤店主がそのチームの会計と運転手を担当、日野原がショーのためのミュージック・テープを作っていた。

当時のファッション・ショーの音楽というとセミ・クラシックかムード・ミュージックがほとんどで、日野原のようにビートルズやキンクスの楽曲を巧みにつなぎあわせたものは初めてだったという。日野原の演出は当時のスーパー・モデルたちに大人気だったそうだが、後藤店主はその威力を目の当たりにして、ジャズ喫茶のレコード係も「曲のつなぎ」がキモだということを実感したという。

少し話がそれるが、この頃、後藤店主は先述の「いーぐる」開業のきっかけとなったアマチュア・バンドの友人、「いーぐる」誕生の影の重要人物といってもいい金子陽彦と、霞町(現在の西麻布界隈)の「大使館」によく遊びにでかけたり、本牧の「ゴールデン・カップ」ではデビュー前のゴールデン・カップスを観たこともあった。

金子は幼少時をロンドンで過ごした帰国子女で、英語も夜遊びも堪能だった。赤坂の高級ゴーゴークラブ「MUGEN(ムゲン)」でアイク&ティナ・ターナーのショーを目撃して本物のグルーヴというものを体感し、ブラック・ミュージックに開眼させられたのも金子のおかげだと後藤店主はいう。金子はニッポン放送に入社、奇しくも岡崎正通の配下となった後、レコード業界に転身、ポニー・キャニオンやヴァージンレコードで「ハリー金子」の愛称で活躍した。いまは故人となった金子だが、日野原とともに20歳前後の後藤店主に音楽をはじめカルチャー全般に大きな影響を与えた友人だった。

話を戻すと、「ディスクチャート」が開店した当時、矢野誠はTBSの子供向き番組の音楽担当をしていて、四谷にはTBSの放送作家やコピーライター、音楽プロデューサーたちが共同で借りていたマンションがあったという。こうしたこともあって、当時のTBSに関係していた若いスタッフたちと「ディスクチャート」には交流があったようだ。「ディスクチャート」の入り口に飾られていたジョン・セバスチャンの大きな写真は、オープンのときにTBS から持ち出してきたものだったという。

「ヤング720」終了後も日野原はTBSで放送作家を続けるが、その間の1972年に『螺旋時間』というソロ・アルバムをコロムビアレコードの「プロペラ」レーベルから発表する。アレンジとキーボードは矢野誠。すべての曲を日野原が作曲、作詞は寺田柾、門間裕、そして1曲だけ高樋洋子によるものもある。

『螺旋時間』(プロペラ)日野原幼紀

中期ビートルズの影響もあるが、1曲目の「さあ諸君!」がキンクスの「デヴィド・ワッツ」に似ていることが象徴するように、「螺旋時間」というタイトルとも関係があるのだろうか、全体にキンクス的というか、ブリティッシュ・ポップスふうのひねりやねじれ、ジョークが効いた作風の楽曲が多い。

また、日本語歌詞の乗せ方がはっぴいえんどを連想させるものや、歌い方がジャックスの早川義夫を思い出せるものもある。ただ、それらのものを借りてきたということではなく、そこにあるのは日野原自身のワン・アンド・オンリーというほかない独創的な世界だ。そして、半世紀近い前の作品であるにもかかわらず、「エバーグリーン」という形容がふさわしい、みずみずしさがある。また、このアルバム以後の日本語ロック、たとえば90年代のサニー・デイ・サービスへとつながる未来的な予感もある。

『螺旋時間』のディレクターだった渡辺忠孝は、2007年にリリースされた再発盤のライナーノーツで次のように日野原の印象を書いている。

彼の最初の印象は当時僕が一緒に仕事をしているアーティストやミュージシャンとは全然違う空気感を持ち、あえて誤解をおそれずに言うならば後の“渋谷系”のアーティストが持っているような雰囲気の若者でした。たぶんこれは彼が東京育ちで、いやらしいぐらいな東京人であるせいかも知れません。

日野原の唯一のソロ・アルバム『螺旋時間』は70年代の日本語ロックの傑作のひとつに数えられると思うが、ほとんど知られることなく幻の名盤として埋もれてしまった。なぜ当時話題になることがなかったかというと、小宮やすゆうのFacebookへの書き込みによると、アルバムのプロモーションのためのラジオ出演を日野原がすっぽかしてしまったことがレコード会社上層部の怒りを買い、それ以来サポートを失ってしまったからだという。

このアルバム後、日野原はプロとしての音楽活動をすることはなく、放送作家として「クイズ100人に聞きました」や「探検レストラン」、伊丹十三とともに「アートルポ」「万延元年のワイドショー」などを手がける。その後もTV界で活躍し、番組制作者たちの間では「天皇」と畏敬の念を抱かれるほどの影響力があったという。

日野原は晩年の代表作、ドキュメンタリー番組『夢の扉』の構成に携わっている途中の2012年10月に65歳で病死する。多数の弔問客がやってくることを敬遠して、家族には「葬儀は秘めやかに」と言い残してこの世を去ったという。

1967年の「いーぐる」開業から1973年の「ディスクチャート」閉店までの時期に後藤店主と交流があった人たちや、その人たちと近い関係にあり、当時から頭角を現し、のちの日本の音楽シーンに影響を与えた人たちを生年ごとにまとめると次のようになる。

こうして改めて挙げてみると、日本のポップミュージックが大きな変革期にあった当時の音楽人たちの交わりが垣間見えるようだ。
(次ページへつづく)

ジャズ喫茶「いーぐる」の個性とは

「ディスクチャート」に関することを長々と書いてきたが、「いーぐる」が50年を越える歴史を刻むことのできた秘密は、こうした「前史」にあるのではないかと思う。

1967年に創業したとき、後藤雅洋店主はまだ20歳の大学生だった。開店時は手持ちのレコードはほとんどなく、ヤマハ渋谷店で手製の手形を切って200枚のレコードを購入したという。

そのレコード購入リストは、慶應中等部の同級生でジャズに詳しかった茂木信三郎が作成したもので、後藤店主の意見は一切入ってなかったようだ。このヤマハ渋谷店で買った200枚と茂木所有のレコード200枚の計400枚が、「いーぐる」創業当初のレコード・コレクションだった。

ロック喫茶「ディスクチャート」のコンセプトを作り上げたのは日野原だったが、ジャズ喫茶「いーぐる」のコンセプトを作り上げたのは、この茂木信三郎だった。

「茂木君はレコードリスト製作に留まらず、お互いに大学2年だった開店当初から卒業間近まで、旧店舗の屋根裏にあった6畳ほどの狭いスペースの2段ベッドで私と同居しつつ『いーぐる』のレコード係をやってくれたのです。彼は当時のキッコーマンの社長の甥にあたり、ヤマハ渋谷店ジャズ売り場でアルバイトをしていた関係で、ヤマハ渋谷からレコード、オーディオ製品購入の便宜を図っていただいたのです。」

「彼はほとんどジャズについて無知に近かった私に、ジャズの知識を一から教えてくれただけでなく、現在も活躍されておられるジャズ評論家、岡崎正通さんや佐藤秀樹さんを開店当初の『いーぐる』に連れて来てくれたのです。なぜそんなことができたかというと、彼は若いのにジャズの知識が豊富だったので、当時の『スイングジャーナル』編集長、児山紀芳さんと仲が良く、ジャズ界の人脈に通じていたからです。茂木君は私がジャズ喫茶を始めるときほんとうにお世話になった大恩人です。彼はその後マンズワインの社長になりましたがつい最近惜しくも亡くなってしまいました」(後藤店主)

当時の後藤店主は、ジャズにかんしても喫茶店営業にかんしてもほとんど素人だった。

それでもジャズ喫茶経営は当たった。その理由は、ひとつは60年代初めから続いていたジャズ喫茶ブームの追い風がまだ吹いていたこと、そしてもうひとつは、豊富なレコード・コレクションを持つ有名ジャズ喫茶店との競合を避けて、当時はまだ珍しかった「ヴォーカルとピアノ・トリオ」に特化した店というアピールに成功したからだという。この「ヴォーカルとピアノ・トリオ」にこだわったのも茂木信三郎の助言によるものだった。

しかし1970年頃から商売の風向きが変わってくる。多くの若者の関心はジャズからロックに移り変わりつつあった。それは、それまでユースカルチャーの王座にいたジャズがロックにその座を明け渡す過度期だった。後藤店主が1972年秋に「ディスクチャート」を開店したのもそういう時代の空気を感じていたからだろう。

ただ、日野原幼紀が音楽プロデューサーを務め、長門芳郎たちがオペレーションを担当した「ディスクチャート」にはまったく客が来なかった。それは「ディスクチャート」で流れる音楽が、当時の日本のロックファンのニーズがもっとも多かった、先述の新宿のロック喫茶「ソウル・イート」でかかるようなヘヴィーなハード・ロックやプログレッシブ・ロックではなく、アメリカのシンガー・ソング・ライターたちを中心とするライトなロック&ポップスで、先に引用した船津潔の言葉を再び引用すると<「こんなのロックじゃない」と毛嫌いするタイプの音楽が流されていた>からだった。

先述のロック喫茶「ソウル・イート」はグランド・ファンク・レイルロードが大音量でかかることで有名だったが、こうした音楽は「ニュー・ロック」と呼ばれていた。レッド・ツェッペリンやピンクフロイドなどがその代表で、音楽的な特徴を指すというよりも「ポスト・ビートルズ」的な意味合いが強かった。

いっぽう「ディスクチャート」で流れていたのは、「ニュー・ロック」の真逆に仕分けられるものだった。それはコルトレーンやマイルス全盛の時代にスタン・ゲッツやチェット・ベイカーばかりをかけるジャズ喫茶のようなものだった。シュガー・ベイブがデビューした当時、オーディエンスから「軟弱」という批判もあがったそうだが、「ディスクチャート」でかかる音楽も同じ傾向のもので、当時の時代のニーズにはそぐわないものだった。

移転による立ち退きという背中を押すような事情があったにせよ、わずか半年で「ディスクチャート」を閉めた後藤店主の経営判断は正しかった。そしてこれを契機に、それまでは周囲の助言を中心に店のかたちを作り上げてきた「いーぐる」の経営方針に後藤店主自身の個性が強く反映されることになったようだ。

客が来なければ店は潰れる。ジャズ喫茶経営は趣味や遊びでやるものではないという、今日まで続く後藤店主の理念はこの頃から生まれたのではないだろうか。

後藤店主は「いーぐる」を新規開店させるにあたって、まずはオーディオ装置を「ディスクチャート」時代から全面的に取り替えた。

ディスクチャートをやめて、ジャズ喫茶でタンノイでジャズ再生すると、いいのもあるんだけど、シンバルなんか、お猿が太鼓たたいているみたいにしょぼくなっちゃうんだよね。マックス・ローチですらね。ピアノトリオとかはまあまあで、ヴォーカルはすごく良かった。カーメン・マクレーや、クリス・コナーなんかはタンノイで聴くといいわけ。でも、マックス・ローチやエルヴィンがお猿の太鼓になったらイカンからね。それで変えたんです。(いーぐる50周年記念小冊子『いーぐるに花束を』所収「後藤、興奮! 今明かされる『いーぐる』オーディオ秘話 後藤雅洋×田中伊佐資」より引用)

この時、「いーぐる」のスピーカーは、日野原が推薦したタンノイのレクタンギュラー・ヨークからJBLのL-45フレアーに変わった。移転前の店で鳴らしていたJBLの「ノヴァ」も使わなかった。長くなるがこの時の経緯を前述の対談から抜粋しよう。

田中:お店がかわった時に、オーディオも一新したんですか?
後藤:そうです。店が広くなったので、いくらなんでもノヴァじゃ無理なんで、フレアー(Flair)にしたんです。
田中:まだJBL体験は生きてるんですね。
後藤:そう。これもよく覚えているんですけど、フレアーっていいスピーカーだと思った。
田中:フレアーっていうのはどういう構成なんですか?
後藤:ウーハー(低域)が130A。
田中:38センチウーハーですよね。D130ではないんですね。
後藤:Dじゃなくて、A。中高域は175。
田中:1インチのドライバーが入っているやつですね。 ツイーターじゃなくて、コンプレッション・ドライバーで前に飛ばせる。
後藤:そう、このフレアーで聴いた、ハード・バップは最高でしたよ。ジャッキー・マクリーンなんて、バリンバリン。そのオーディオ体験でいうと、この時はラックスのSQ-507Xだったんだけど、その後印象的なのはさ、ハーマンカードンのサイテーションっていうあんまり高くないアンプ知ってる?65ワットぐらいしか出ないセパレートのやつ、あれが安くでたんですよ。出力は下がるんだけど、アメリカ物だからって、20万ぐらいだったと思うんで、買ってつないだらすごいいい音したの。
田中:これはオーディオ衝撃度の何番目なんですか?(笑)
後藤:このあとまだあるんですよ(笑)。オレ、何だか興奮してきちゃった(笑)。ラックスなんかに比べると、ハーマンカードンは音が荒いんですよ。
田中:ここで初めて国産から、オールアメリカンになった。ある種の大きな転換期ですよね。
後藤:安いアンプだから、雑な音なんだけど、ガッツがあるの。だからマクリーンに元気が入ったっていうか注射が入ったって言う感じ。
田中:原稿上は××を打った、みたいな(笑)。
後藤:そうなるとさ、オレってそういうとこバカなんだけど、そうなるとこっちも興奮して線を2倍にしたみたいな事考えるわけですよ。それはどういう事かっていうと、オーディオマニアにたきつけられて、ハーマンカードンのアンプってセパレートなんだけど、65ワットぐらいしか出力ないんですよ。でもね、このアンプの出力を倍にする方法があるっていうんですよ。「どうすればいい?」って聞いたら、1:2のトランスで変換すると出力が倍になるって。
田中:トランスで出力を倍にする?
後藤:ただし、そうすると設計上の倍の電流が流れるわけだから、熱くなって、絶対そういう使用をしちゃいけないんだけど。だからどうするかっていうと、ファンでもって冷やすの。秋葉原に行って、小型ファンを買って仕込んで強制空冷で。
田中:トランスも中に仕込むわけですか?
後藤:いや、外付けにして。これがすごい音するんですよ。
田中:その話、もろにジャズ喫茶ですよね。
後藤:たまんないの。
田中:昔はなんでもありの時代でした。
後藤:それはたしか電気的知識のある工学部の知り合いが教えてくれた。「でも危ないから火事になっても知らないよ」っていうから、「冷やしゃいいんだろ?」って。
田中:まあ、理屈でいえばそうですけどね……。
後藤:機械も熱くなるけど、出てくる音もホント熱い。だから歴代の音の中で、一番ガッツがあったのは、このフレアー+ハーマンカードンにトランスで無理に気合いを入れた時期だね。
田中:現実的にも熱かったし、音も熱いと。
後藤:マクリーンなんかはたまんないわけ。でも問題もあって、やっぱり1年ぐらいで壊れちゃった(爆笑)。
田中:普通そうでしょう。
後藤:アンプがおかしくなっちゃったんで、ハーマンカードンに持っていったら、「何か、ヘンな使い方していませんか?」って言われたんで、「いや、実は」っていったら、「そんなの保障できない」って言われた。
田中:そりゃ、無理ですよ。(笑)

この後、 JBL4343BからJBL4344に変わった話など、「いーぐる」のオーディ装置の変遷や後藤店主のオーディオ観などが語られているが、田中伊佐資のMUSIC BIRDのウェブコラム第174回/後藤雅洋さんが語る「いーぐる」のオーディオ遍歴が小冊子になった11月」に小冊子から抜粋されたものが掲載されているので、さらに興味を抱かれた方はこちらで読んでほしい。

この対談からは、後藤店主が最も好むサウンドとは、オールドJBLで50年代のハードバップをバリバリ鳴らすことにあることがうかがえる。しかし、店を移転してからしばらくはそれでよかったが、フュージョンブームの到来によって店のオーディオシステムもその変化を余儀なくされる。後藤店主は、たんに自分の趣味を満足させるだけでは、いずれ客足が遠のいていくことを予見していた。

後藤:ターボエンジン付きの強制空冷でフレアーの組み合わせでいくと、マクリーンは最高だけど、ウェザーリポートはやたらうるさくなるんです。熱いんじゃなくて、やかましい。それでまずいなと思って、JBLの4343Bに変えたんです。2ウェイだと、コントロールの幅が狭いから、簡単に言うとブルーノートのマクリーンやモブレーは良くても、ウェザーみたいなエレクトリックジャズは上手く再生できない。ましてやECMなんかはアウトなんですよ。ECMをいい音で鳴らそうとすると、マクリーンに元気がなくなっちゃう。(いーぐる50周年記念小冊子『いーぐるに花束を』所収「後藤、興奮! 今明かされる『いーぐる』オーディオ秘話 後藤雅洋×田中伊佐資」より引用)

このことを後藤店主は『ジャズ喫茶リアルヒストリー』(河出書房新社)では次のようにも説明している。

かつては、今までジャズには無かったエレクトリック・サウンドを、いかに嫌な音を出さずにしかも迫力のある音で再生するか、あるいは、ブルーノートなどの分厚くコクのある音と、新生ECMレーベル独特の透明感をいかに両立させるかといった、切実な問題があった。

ジャズとジャズファンとの間を結ぶ

「いーぐる」のオーディオが入門者的なオーソドックスなジャズから最新ジャズまで、可能な限り広く対応することを志向しているのは、「ジャズ喫茶は可能な限り、幅広い客層の要望に応えなければならない」というポリシーがあるからだろう。それはジャズ喫茶の役割をどうとらえているのかということに繋がる。後藤店主は「いーぐる」の連続講演として開催された2016年7月のシンポジウム「ジャズ喫茶の逆襲」でこのように語っている。

ジャズ喫茶の役割はなんなのかというと、僕はジャズという音楽と、ジャズを聴きたいと思っている人、あるいは潜在的にジャズを聴きたいと思っている人たちをつなぐ架け橋になることがジャズ喫茶の役割だと思います。そういう目的にたいしてはっきりとプロ意識を持つということ。

これは非常にむずかしいんですよね。ジャズにばかり傾くと、お客さんの意向がないがしろになっちゃうし、お客さん、ファンの意向ばかりを大事にすると、かんたんに言っちゃうと非常にコマーシャルな方向にいってしまう。ジャズを非常にいい状態でもって、ジャズファン、あるいは潜在的にジャズに関心をもっている方々にどう伝えたらいちばんいいかということを真剣に考えてもらう、それが大事だと思うんですね。

「いーぐる」の連続講演は、1993年から始まり2019年12月末までに673回行われ、現在も継続中だ。講演者はほぼ毎回異なり、土曜日の午後3時30分から午後6時までの2時間半、音楽に関するものなら何を発表してもかまわないが、その発言を裏付ける音資料を参加者に聴かせることを義務づけて行っている。当初はジャズ関係者による講演が多かったが、やがてラテン、ソウル、ロック、クラシックなど音楽全般のジャンルにまで及ぶようになった。

この連続講演が生まれたきっかけは、1988年に上梓された後藤店主にとっての初めての著書、『ジャズ・オブ・パラダイス』(JICC出版局)だった。この本で紹介している101人のミュージシャンの303枚のアルバムすべてを、毎週土曜日に2時間ずつ、本から該当個所をコピーして配り、後藤店主の解説付きで音源かけるというイベントを約2年間にわたって行った。

この連続イベントが終了後、ジャズ関係者や評論家などをパネリストとして、「ジャズとどう向き合うか」「ジャズについてどのようなスタンスで語るか」をテーマとしたシンポジウムを2回試みるが、後藤店主が期待していたような場とはならず、その大きな原因は、ジャズとジャズファンとの間を結ぶプロとしての評論家が不足としていることではないかと後藤店主は考えるようになる。

そして後藤店主は、《ジャズとジャズファンとの間を結ぶプロ》として自身がその役割を担うとともに若手のジャズ関係者の人材育成を目的として連続講演を開始する。こうした活動が1990年代から2000年代にかけて、後藤店主をはじめ、村井康司、藤本史昭、杉田広樹、都並清史、高野雲などのジャズ評論家、ライターを輩出し、2010年代に入ると、世界的なジャズの最新トレンドを取り上げて紹介し、この10年間でもっとも話題を呼び、影響を与えたムックシリーズ『Jazz The New Chapter』Vol .1〜Vol.5(シンコーミュージック)の監修者、柳樂光隆が登場した。

鼎談集『100年のジャズを聴く』(シンコーミュージック・エンタテイメント)を上梓した3人の「いーぐる」ゆかりのジャズ評論家。(左から村井康司、後藤雅洋、柳樂光隆)/2017年11月11日,いーぐる

そして「ジャズという音楽と、ジャズを聴きたいと思っている人、あるいは潜在的にジャズを聴きたいと思っている人たちをつなぐ架け橋になること」という後藤店主の生涯を通しての目標がもっとも大きな成果となって実ったのが、史上初のジャズ・レコーディングがされてから100年を記念して、後藤店主が監修者となり、2014年から2019年まで発行された小学館の隔週刊CD付きマガジン「JAZZ 100年」シリーズだ。

2014年のPart1「JAZZ100年」全26巻から始まったこのシリーズは、2015年 のPart2「ジャズの巨人」全26巻、Part3「ジャズ・ヴォーカル・コレクション」全52巻、Part4「JAZZ絶対名曲コレクション」全14巻と続き、全シリーズで計118巻、累計発行部数が200万部を超えるという、ジャズ関連書では例のない記録を達成した。

2014年から足掛け6年間にわたって刊行されたCD付き隔週マガジン、 「JAZZ 100年」シリーズ。創刊号の表紙はビル・エヴァンス。テーマは「まずピアノ・トリオから始めよう」だった。

また、1988年に『ジャズ・オブ・パラダイス』で初めての単著を出版して以来、後藤店主はベストセラー『一生モノのジャズ名盤100』(小学館/2010年)などの単著をはじめ『100年のジャズを聴く』(後藤雅洋、村井康司、柳樂光隆/シンコーミュージック/2017年)など、単著、共著合わせて27冊の著書を上梓してきた。

このように講演会主宰や執筆活動、出版活動を続けるとともに、創業以来50年間、「ディスクチャート」の挫折はあったものの、競合他店が飲食店経営などの多角化に手を伸ばすいっぽうで、「いーぐる」は愚直なまでに「ジャズ喫茶一本」という経営方針を守り、東京都心の一等地での営業を続けて生き残った。

後藤店主は自らの行動について、この「愚直」という表現をよく用いるが、この50年間、時代のさまざまな波を乗り越えることができたのは、「ディスクチャート」での出来事に象徴されるように、ジャンルにこだわりなく周囲の多種多彩な音楽や才能を受け入れて吸収し、自身の知見を広げていこうと努めてきた後藤店主の柔軟なスタンスもその要因としてあるのではないだろうか。

また後藤店主は「僕は店を始めた当時はジャズについて素人だったからこそここまでやってこられた」ともよく語るように、自分はジャズの専門家であるという過信がなかったがゆえに、フラットな視点で周囲の意見を受け入れ、吸収することができたことも「いーぐる」がここまで続いてきた理由なのかもしれない。

(次ページへつづく)

ジャズ喫茶の真の魅力にこだわる

「ジャズ喫茶は新譜をかける場所」という、かつてはあたりまえだったが、いまでは多くのジャズ喫茶が捨ててしまったそのポリシーを「いーぐる」は守り、かつてほどの数ではないが、それでも新譜のCDやレコードを購入し続けている。そして、「会話禁止」のルールも、午前11時30分(土日は午後2時)の開店から午後6時までは守っている。全国で会話禁止のルールがあるジャズ喫茶は、この「いーぐる」も含めて5軒にも満たない。

大学を卒業するとき、後藤店主はこのままジャズ喫茶のオーナーになるか、それともどこかの会社に就職するか、自分の進路の選択を迷ったという。

そして彼は、はたしてジャズが、自分の人生を賭けるものとしてふさわしいかどうか、確認することにした。

「茂木信三郎君に『ジャズでもっとも偉大な音楽家は誰か?』と質問したら、彼は『それはチャーリー・パーカーだろう』と答えたんです。それから毎晩、私は店の営業が終わったあとに、チャーリー・パーカーを集中して聴きました。そして、あるとき、とつぜん確信を得たんです。ジャズは自分の人生を賭けるに値するものだと」と後藤店主は述懐する。

後藤店主がジャズ喫茶の経営を続けていこうと決めたきっかけがチャーリー・パーカーであったのは大きな意味を持つ。なぜなら、チャーリー・パーカーがその盟友であるディジー・ガレスピーとともに始めた革新的なジャズのスタイル、ビ・バップは、ダンスをしながら聴くことを拒絶した音楽であったからだ。チャーリー・パーカーとその一党は、それまでのジャズのスタイルだったダンスの伴奏をするための音楽を演奏することを拒否した。

急速なテンポとアフタービートをなくした4ビートを特徴とするビ・バップは、それまでのジャズファンからは「こんな音楽では踊れない」と不評だった。チャーリー・パーカーは、ダンスのための音楽ではなく、自分たちの表現のための音楽を演奏した。彼らのスタイルは、ジャズを鑑賞のための音楽に変えた。それは座って真剣に耳を傾けないと理解することのできない音楽でもあった。

後藤店主が、自分の店で会話禁止を客に要求するのは、そのようにして聴かないと理解できないものがジャズにあると考えているからだ。そして、音楽に集中することによって得られる体験こそにジャズ喫茶の本当の魅力があると考えているからだろう。

日本固有の文化であったジャズ喫茶の大きな特色はその多様性にあると思うが、そのなかで、「いーぐる」という場を通してジャズ喫茶の真の魅力を堪能して欲しいということなのだろう。

面白いことに、一時期は「抑圧的だ」として非難にさらされることが多かった「会話禁止」のルールを歓迎する客も最近は少なくないようだ。心おきなく聴きたい音楽に浸れる空間がありがたいのだという。また、瞑想のような効果があり、音楽のみが響く空間にむしろ癒やされるという声もある。

そして、世界的なレコードブームとともに、いまは世界各地で日本のジャズ喫茶にインスパイアされた「リスニングバー」「レコードバー」などといった呼び名でハイファイ・オーディオとアナログレコードを楽しむ空間がオープンしているが、「いーぐる」にも海外からの観光客や日本在住の外国人の来店が増えている。

「昔は外国からの客が来たときには、はじめに《この店では会話禁止です》と説明する必要があったんですが、最近は、《それは知っている》と答える客がすごく増えたんですよね。どこから情報を仕入れたのか、ほとんどの客がすでにご存知なんですよ」と後藤店主。

いま世間では「いーぐる」を「老舗」と呼ぶが、50年前の創業当時の経営方針を守りながらもたゆまぬアップデートを続けてきた結果、このジャズ喫茶はかつてのジャズ喫茶全盛期を知らない新しい世代に、歴史的名盤から最新音源までを大音量と高品質のサウンドで再生して新鮮な驚きと楽しみを与える存在になっている。「老舗」というノスタルジックな“称号”があまり似合わない店といってもいい。東京らしいクールな表情を決して崩すことはないが、ジャズの魅力を骨の髄までむしゃぶり尽くそうという貪欲さに溢れた濃密な空間は、創業当時となんら変わるところがないのだ。

さて、2017年11月11日には、いーぐる創業50周年を記念してのパーティが東京・千代田区のFM TOKYOで行われた。ジャズ喫茶店主たちをはじめ、常連客、ジャズ評論家、ライター、放送・出版、レコード会社関係者、ミュージシャン、DJまで幅広い多くのファンが集まり、この東京を代表するジャズ喫茶の長寿を祝福した。そのときの写真数点をここにピックアップして本稿を終えよう。 (了)

※文中敬称略とさせていただきました

Text & Photo by Kat.Kusunose

いーぐる50周年記念パーティーでの外山喜男、恵子夫妻。喜男さんは日本ルイ・アームストロング協会会長を務め、また2012年には内閣府の「世界で活躍し『日本』を発信する1人」に夫婦で選出されている。/2017年11月11日、TOKYO FM
いーぐる50周年記念パーティーでピアノを弾くマイク・モレスキーさん。『戦後日本のジャズ文化』(青土社)や『ジャズ喫茶論』(筑摩書房)の著者。2017年11月11日、TOKYO FM
いーぐる50周年記念パーティーで祝辞を述べるジャズ喫茶界の重鎮であり、音楽評論家の寺島靖國さん。この日東京・吉祥寺「MEG」のマスターを引退することを公表。/2017年11月11日,TOKYO FM
いーぐる50周年記念パーティーで祝辞を述べる人気ジャズ喫茶、東京・高田馬場「イントロ」店主の茂串邦明さん/2017年11月11日,TOKYO FM
いーぐる50周年記念パーティーで祝辞を述べる『酒のほそ道』『ときめきJAZZタイム』などの人気漫画家ラズウェル細木さん/2017年11月11日,TOKYO FM
いーぐる50周年記念パーティー2次会でのDJ、音楽ライター、プロデューサーの大塚広子さん。連続講演など「いーぐる」のイベントにも数回登場。/2017年11月11日、いーぐる

いーぐる Eagle