グーグルマップで測ってみると、西武新宿線新井薬師前駅から「ロンパーチッチ」までの距離は約600メートル、徒歩にして約8分。JR「中野」駅からだと約950メートル、徒歩で約12分の距離だ。東京都内のジャズ喫茶の大半は最寄り駅からだいたい400メートル以内、徒歩で5分以内のところにあるので、これはかなり遠い。
いま当サイトの「ジャズ喫茶&ジャズバーリスト」では東京都内の店は全部で112軒掲載しているが、このなかで最寄り駅からもっとも遠いのは、おそらく2015年にオープンした「渋谷スイング」だろう。京王井の頭線神泉駅から900メートルで約11分、JR渋谷駅から約1キロメートルで12分。
「ロンパーチッチ」はたぶん、「渋谷スイング」の次に「都内で最寄り駅から遠いジャズ喫茶」ということになるようだ。
しかしそれでも「ロンパーチッチ」は、都内のジャズ喫茶&ジャズバーの中では有数の集客力を持つ人気店であり、雑誌などのメディアで取り上げられることも多い。
駅から遠いという立地上のハンディや、30代半ばの若さで脱サラをしたために開業資金や運転資金がそれほど潤沢ではなかったという経済上の課題を乗り越えて、なぜこのようなことがこの店に起きたのか。
「ロンパーチッチ」の創業は2011年12月10日。師走を迎えたせわしい時期だった。この年に店を開くことになったきっかけは3月11日に起きた東日本大震災だった。
大学を卒業した後、IT系企業でシステムエンジニアをやっていた齊藤外志雄さんは、 なだれ落ちてくる書類の山から逃げながらオフィスの机の下に潜り込んだとき、「このままじゃヤバい、さっさと決断をしないと」と焦ったという。
その「決断」とは、「次の地震で死ぬんだったら、イヤイヤ仕事をしているサラリーマンよりは、ジャズ喫茶のオヤジとして死にたいな」(2012年3月12日のロンパーチッチのブログより)という願望を叶えるためのものだった。
震災前から齊藤さん夫婦は、将来の希望として、「たとえばジャズ喫茶をやりたい」という気持は漠然と抱いていた。
かつて住んでいた吉祥寺あたりがいいと何となく思って不動産屋をたずねてみたが、条件がまったく合わずに断念したこともあった。
いつか会社を辞めたいという願望を抱きながらも「ふんわりと」毎日をやり過ごしていた齊藤さん夫婦だが、世の中がひっくり返ってしまった震災が引き金となって、このままではもう耐えられないという気持ちが日増しに大きくなっていった。
そんなとき、家から歩いて2、3分のすぐ近所に物件があらわれた。
「ここはずっと長い間、空いてはいるけど貸しにも出さずという物件だったんです。ある薬局さんがこのあたり一帯をまとめて病院を建てようと計画していたらしいんですが、おそらく震災でそれが駄目になったんでしょうね。とつぜん、テナント募集の貼り紙が出されたんです。震災直後のせいか、私のアタマもどこかユルんでいたようで、あと2、3年は物件を探してお金も貯めてと思っていたのに、ここでいいやと契約をしてしまったんです」(外志雄さん)
運命といえばそうなのかもしれない。
契約を済ませたあと、半年以上も家賃を払いながらテナントをキープして、数ヵ月の開店準備を経て、オープンにこぎつけたのが、震災からちょうど10ヵ月後の2011年12月10日だった。
齊藤さん夫婦が店を開くにあたって、はっきりと決めていたことがいくつかあった。それは「ロンパーチッチ」の店作りの基本とでもいうべきものだった。
まずは一つ、
ジャズ談義はしない。
「店を開くまで、1回だけ行ったというジャズ喫茶はそれなりにありましたけど、《通う》というレベルだったのは渋谷の『JBS(ジェイビーエス)』さんです。影響は大きいと思います。店でかける音楽やジャンルという面での影響もありますけど、あの店は、客のほうから絡みに行かない限りはぜったいに客を放っておくという信念があって、私のような、ほんとに放っておいてもらうと楽なタイプの客には居心地がよかったんです。
「店主が来て、話しかけてくるようなジャズ喫茶だと、それに応えているうちに『なんで私たちはここで《社交》してるんだろう』と。私はもう、ジャズ談義がぜったいにイヤで、それは店の人間になってもイヤなんです。」(外志雄さん)
齊藤さんのような「ジャズ談義拒絶派」の客は少なくない。
たとえばツィッターでは、「店主から何かリクエストはないですか? と訊かれて困った」という書き込みをけっこうたくさん見かける。それはショッピングのときに店員から「何かお探しですか?」と訊かれて、ほっといてくれればいいのにと感じることと似ているかもしれない。店員の親切心とは裏腹に喫茶店では誰にも気を遣わずに気ままに過ごしたいという客もいる。
そんな齊藤さんにとって、契約した物件の造作は好都合だった。
「店のカウンターはぜったいに《ラーメン屋さん式》にしたかったんです。この物件は、契約したときにはカウンターは作りかけで、3割ぐらいできていました。前の契約者がカフェをやるつもりだったんですけど、内装工事の途中で内装業者さんとトラブルになっちゃったようで、そのままになっていました」(外志雄さん)
その「作りかけのもの」をアレンジして、ラーメン屋のように客と従業員の間にお互いの視線が気にならないぐらいの高さの木の壁がある、会話がしづらいカウンターをこしらえた。
その代わり、他のジャズ喫茶にはない、客にとってはありがたいサービスを提供している。それは、カウンターの壁に埋めこまれたコンセントだ。客は自由にこのコンセントにスマートフォンやノートパソコンをつないで無料で電源を取ることができる。また店内はフリーWiFiなので、端末を持っていればインターネットも無料で接続し放題だ。
「コンセントは(作りかけのカウンターに)最初から付いてたんですよ。電源を提供するということはたいして考えていなかったんですけど、お客さんがみんな使うようになりまして。Wi-Fiも自分たちが使うために必要と思っていれたものなんですけど、お客さんから『使わせてもらっていいですか』と頼まれて、ああ、どうぞと言ってるうちにWi-Fiカフェっぽくなっちゃいました(笑)」(外志雄さん)
電源やWi-Fiのサービスを提供しているジャズ喫茶は、もしかすると「ロンパーチッチ」が日本で初めてかもしれない。この新しいサービスは、あらかじめ計算されていたものではなく、いくつかの偶然が重なって生まれたものだったのだ。
35歳までに店を始める。
内装を取り仕切ったのは、先に会社を辞めた晶子さんだった。
「内装業者さんは『昔行った俺のジャズ喫茶観』のある方で、よくもめていました(笑)」
店に必要な備品は、近所のインテリアショップなどで気に入ったものがみつかると買い足していった。これは開業してからもずっと続けている。
店のインテリアの大きなアクセントになっている廃材を使ったアンティーク風のチェストは、自宅から持ってきた。
「これは独り暮しをしていたころから使っていたものです。まさかこんな風に役立つとは。」(晶子さん)
飲食店を開業する際には、椅子やテーブルなどは専門業者から新品もしくは中古品を一括購入して取り揃えるのが一般的だが、「ロンパーチッチ」に限らず、ここ最近の若い経営者が始めるカフェの特徴として、もともと自宅にあったものや友人から譲り受けたもの、リサイクルショップで見つけたものなど、形も大きさもバラバラの椅子やテーブルで済ませるという傾向がある。
初期投資を抑えることが大きな目的だが、こうしたスタイルが若い客層には「居心地の良さ」をもたらすという効果もある。
その「居心地の良さ」とは、「日常生活の延長としての場」であったりする。
ピカピカの新品の椅子やテーブルが取り揃えられた「よそ行きの場所」、もっと言えば「非日常的な空間」よりも、ある程度経年変化した椅子やテーブルの置かれた場所の方が、まるで我が家か友人の家にいるかのように馴染めて落ち着くようなのだ。
たとえ他人の店ではあっても、自分の部屋にいるような感覚で過ごしたいということなのかもしれない。
「ジャズ喫茶は敷居が高い」という声は若い人には多い。窓も何もなくて、扉を開けて入ってみないとどのような空間なのかわかならないことが、ことさら高いハードルとして受けとめられているようだ。これはジャズ喫茶に限らず、バーや一般の喫茶店などに対しても同じようだ。
ファストフードのようなオープンなラウンジ的空間しか外食経験のない世代には、扉の向こうに何があるかわからない、閉じられた空間に入っていくのは、ことのほか勇気がいるようなのだ。
いっぽう、「ロンパーチッチ」の場合は、通りに面した壁はほぼ全面が透明なガラス窓なので、店内の様子はほとんど外から見てとれる。だから初めて来た客もひとまずは納得して店内に入ることができる。
そして自室でくつろいでいるようにスマートフォンやパソコンをいじりながら音楽を聴く。このように日常性の延長と言っていい空間であることが、「ロンパーチッチ」が客を引き寄せる理由のひとつではないだろうか。
このスタイルで肝心なのは、狙っている客層の感性からあまり離れていないということだ。齊藤さん夫婦が「店を始めるなら35歳までに」としたのは、そこが世間の感覚とのズレが生じるボーダーラインと考えたからだろう。
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「いかにもなジャズ喫茶」にはしない。
店名もまた、晶子さんの思いつきから生まれた。
「たとえば『コルトレーン』とか、そういう昔のジャズ喫茶のような名前にはしたくなかったんです。また、《インテリの匂い》がするものも避けたかった」(外志雄さん)
「店をやるんだったら『ロンパーチッチ』とかでいいんじゃない? って思いつきを冗談で言い続けていたら、それがそのまま名前になっちゃいました」(晶子さん)
なぜ、「ロンパーチッチ」という造語が生まれたかという理由はまったくないという。ただ語感が気に入ったから、それだけの理由だった。
そのいっぽうで、店のトレードマークになっている鳥のイラストには、いかにもジャズの店らしい元ネタがある。
これは、ニューヨーク・マンハッタンの52丁目にあった名門ジャズクラブ、「バードランド」で50年代から60年代にかけて使われていたシンボルから拝借したものだ。(往年の『バードランド』は1965年にいったん閉鎖したものの1986年に復活、今も44丁目で営業を続けている)。
齊藤さんがこのシンボルを気に入ったのは、「ルーレット」というレコード会社の《バードランド・シリーズ》のレコードジャケットには必ずこのシンボルが付いていることからだった。ルーレットは「バードランド」のオーナーが1957年に創設したもので、カウント・ベイシー楽団を始め数々の名盤をジャズレコード史に残している。
店名からはジャズ喫茶らしさはまったく感じさせないものの、それを補完するかたちでジャズっぽい要素が採用されているというわけだ。しかしこれは意図したものというよりも、たまたまそうなっただけのことなのだろう。
そしてジャズ喫茶の顔とでもいうべきスピーカーの選択にも、「狙いすぎない」という齊藤さんの流儀が反映されているようだ。
70年代以降、ジャズ喫茶で使われるスピーカーの大半はJBLの業務用スタジオモニターの系譜を汲むものだが、「ロンパーチッチ」のスピーカーはJBLではあるものの、「C38バロン」という、1950年代に民生用(家庭用)として商品開発されたものだ。
民生用JBLの代表機種である「D44000パラゴン」や「C50 オリンパス」「C40ハークネス」を使うジャズ喫茶はこれまでも少数ながらあるが、「バロン」を使う店はほとんどない。惜しくも2015年12月に閉店した吉祥寺の「サウンドカフェ・ズミ」ぐらいだろう。
「中を開けてみたら配線やパーツはかなりの部分は新しいものに替わっていました。秋葉原のオーディオショップで買いました。吉祥寺の『サウンドカフェ・ズミ』で、すごく見た目にひかれまして、お店をやるときの候補として挙がっていたんです。ショップで見つけたときは『商談中』の貼り紙がついてたんですが、店員さんに『お店をやるつもりなんですけど商談が切れたら連絡してください』って話したら、『このお客さんは結局いつも買わない人だからいいっスよ』ってすぐに貼り紙をはずしてこっちに廻してくれたんです」(外志雄さん)
「会社員だったころからふつうの人よりはちょっとは高い機器を持ってはいたんですが、この店を始めてからは逆に『オーディオには興味はない』という姿勢でいることにしています。店内をオーディオ談義の場所にしないための防御策ですね(笑)」(外志雄さん)とのことだが、「ロンパーチッチ」での「バロン」の鳴らし方にはちょっとした特徴がある。
「バロン」のユニットは、大口径の15インチ(38cm)フルレンジスピーカーD130とホーン型ツィーター075の2ウェイで、これはオールドJBL定番の組み合わせであり、当時のカタログには《これによって完璧なバランスが得られます》と解説されていたという。
JBL設立翌年の1947年に商品化されたD130は、ここからJBLの歴史が始まったと言ってもいい初期の傑作で、JBLサウンドの原点であり、またフェンダー社のギターアンプの内蔵スピーカーとして採用されたのを始め、多くの楽器用やPA用スピーカーにも使われた非常に汎用性の高いもので、20世紀のポピュラー・ミュージックのサウンド作りに大きな役割を果たしてきた。
その一番の特徴はとにかく超高能率であることで、わずかな電気信号もそのまま大きなロスなく音に変換することができる。これによって瞬発力に優れ、立ち上がりの鋭い、歯切れのいいサウンドが生まれる。またシャープな音像定位によって写実性の高い音場を再現してくれる。
つまりD130は、いわゆる「JBLサウンド」のイメージをそのまま体現するスピーカーと言っていいだろう。
「バロン」は、もう50年以上前の古いスピーカーだが、そのサウンドキャラクターは青年のようにみずみずしく若々しい。そしてこの鮮烈なサウンドは、「オールドJBL」と呼ばれる50〜60年代の機種に共通する特徴でもある。
ところが、どうも「ロンパーチッチ」では、あえてこのスピーカーの持ち味を抑えているフシがある。簡単にいうと本来の「バロン」よりもややマイルドなのだ。もしかすると、このスピーカーの能力をフルに発揮させてしまうと、客の耳には刺激的すぎると考えているのではないだろうか。
オールドJBLのサウンドは現代スピーカーよりもレンジが狭いが、そのぶん、現代スピーカーのように空間全体に広がっていくというよりも、前に向かって突き刺すように突進してくる。このため長時間になると「聴き疲れする」という人も少なくない。
客のテンションを上げることよりも、客がリラックスして過ごせる喫茶店として成立するように、店内のサウンドを調整しているのではないだろうか。正確に言うと、調整というよりも「買ったときのままで何もしていません」(外志雄)という。
このように、自店のオーディオシステムには原理主義的な頓着はしないというのが齊藤さんのスタンスのようだ。そこには「この店は《オーディオ喫茶》ではありませんよ」という主張が込められているのかもしれない。
しかしだからといって、音量を絞ってBGMを流すために「バロン」を鳴らしているわけでもない。「ロンパーチッチ」のメニューには「会話は小声で」という注意書きがあり、これは、この店がレコードを聴くことが何よりも優先される空間であることを意味している。
音量は、ジャズ喫茶を経験したことのない客にはかなり大きいと感じるぐらいのものに設定されていて、レコードを鑑賞するためには不足ない。
喫茶店であることに間違いはないが、何よりもまずここは「ジャズを聴く場所」なのだ。
このあたりに「いかにもなジャズ喫茶にはしたくない。でもうちはジャズ喫茶です」という、一筋縄ではくくれないこの店の特徴が出ているようだ。
リクエストは重視しない。
外志雄さんがジャズとかかわりを持ち始めたのは高校に入学してからだった。運動をしなくてもいい部活をやりたいと思っていたら、「同じ中学から進学した何人かが入ったのにつられて」吹奏楽部に入った。
吹奏楽部ではサックスを担当した。サックスについてはぜんぜん知らなかったが、花形楽器で人気があったので手を挙げたら、ジャンケンに勝った。武田真治が吹いていてかっこいいなあとかMALTAをテレビで観たことがあるとか、その程度だった。
サックスといえばジャズだろうということで、図書館でジャズのCDを借りて勉強をしてみることにした。予備知識もなく、何も考えずに最初に借りたのは、フリージャズのデヴィッド・マレイだった。
「アルバムのタイトルは覚えてないんですけど、いきなり〝ブギャァ〜〟って。これはひどい、でもスゴいと思って。当時は鬱屈していたので、サックスがヘンな音を出しているものが好きでしたね。ジョン・ゾーンとか。」
「まずは店ありきなので、店でアバンギャルドを聴きたいとかはないですね。傾向としては『JBS』さんの影響がぜんたいに薄く覆っているので、70年代モノを買いがちです。ブルーノートの1500番台とかもある程度は持っていますけど、お客さんに言われるまでは、(メインストリームの)モンティ・アレキサンダーとかを自分で買うようになるとは思ってなかったです。」(外志雄さん)
レコードのかけかたなどについては特に決めごとはないという。
「ルールはないです。なんだかんだ言ってレコードは毎週買ってますので、それを途切れさせずにかけていればお客さんから『これ、前に聴いたよ』と言われることはないかなと。新譜はほとんどありませんが、《私たちにとっての新譜》はありますので、お客さんが毎日いらっしゃっても、1枚ぐらいは聴いたことないのがかかるんじゃないのかなあというつもりでかけてます。」(外志雄さん)
特に意識はしてないとはいえ、この店特有のレコードの仕入れや選盤が集客につながっていることはまちがいない。この点については、東京・四谷のジャズ喫茶「いーぐる」で行われた「シンポジウム/ジャズ喫茶の逆襲」において、外志雄さんがその実態について詳しく語っている。
「うちにはレア盤なんてないんです。1万円を超えるようなものは1枚ぐらいしかないです。それも会社員のときにボーナスで買ったもの。この店をやってみてわかったのが、この商売をやっている限り、ぜったいにお金持ちにはなれないということです。永遠に稀少盤に手が届く日は来ないと思います。いまは3ケタものを買っているのが、1500円盤ぐらいまでには手が伸ばせるようになるかもしれませんが(笑)。
「私たちがレコードを買いはじめたのが21世紀に入ってからですから、むかしの相場はまるっきりわからないんですが、オリジナル盤とかでなければとても安いものになりましたよね。若いお客さんからすると、レコードってぜんぜん手にしたことがなくて知らないものですから、ひょっとしたらウチでかけているレコードも高いものと思うかもしれない。(でも実は3ケタ盤ばかりという)そのギャップがこの店を楽しんでもらえる理由かもしれないですね」(外志雄さん)
店を象徴するような《好きなミュージシャン》も、とくに強調するほどの人はいない。
「マル・ウォルドンでいいのかな? うちの奥さんが昔いっぱい買っていたので、マルの枚数は多いと思います。私はフィル・ウッズかなあ。」(外志雄さん)
「だれかひとりは決められないですね。でも、ライブでマルを観ていなかったらお店はやっていなかったと思います。」(晶子さん)。
「だれだれが好きですなんて言わないほうがいいかもしれませんね。《ディスクユニオンの3ケタプライス》にしておきます(笑)」(外志雄さん)
「ロンパーチッチ」が他のジャズ喫茶とは大きく異なる点が、「リクエストを重視しない」というポリシーだ。「リクエスト不可」というほどではないが、齊藤さんから「何かリクエストはありませんか?」と客に話しかけることはない。客から「◯◯はありますか?」と訊かれて、たまたまそれがあればかけるという程度だ。
客のリクエストに完璧に応えるだけのレコード数を収納するスペースが店にはないというのが理由のひとつだろう。
そして、もうひとつは、リクエストを積極的に受けることによって、店でかけている音楽の流れが壊れてしまうことを恐れているのかもしれない。
かつてはごく親しい常連客ぐらいしかやらなかったことだが、最近はどの店でも音源を持ち込んでくる客は珍しくなく、昔ほど「流れ」を気にかけることは店も客もなくなった。
往年のジャズ喫茶店主は異口同音に「選曲はジャズ喫茶の命」と語っているが、リクエストを受けることよってバランスを失い、さらに客を失ってしまうことを「ロンパーチッチ」も恐れているのもかもしれない。冗談でも誇張でもなく、たった1枚の選盤をしくじったおかげで店から客が全員いなくなってしまうこともかつては珍しくはなかったからだ。
本来、ジャズ喫茶とは客のリクエストに答えるのが商売といっていいほど、リクエストは重要なサービスであるはずだが、「ロンパーチッチ」ではあえてそれに背を向けているように見える。しかし、「ロンパーチッチ」よりも1年早く創業し、まるで姉妹店のように「新感覚のジャズ喫茶」と呼ばれる東京・西荻窪の「JUHA(ユハ)」も、同様にリクエストを店の重要なサービスと位置付けてはいない。また2店とも完全禁煙という点も共通している。
これまでジャズ喫茶には必要不可欠と考えられてきた要素をあえて削ったこの2店が好調というのも興味深い事実だ。
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プロに徹する。
「狙いすぎない」という気持ちでスタートした店だが、2人の生活費はすべてこの店の収益にかかっているため、集客のために思いつくことはすべてやった。
オープンのときには店のチラシを5,000 枚も作った。近所の店やディスクユニオンなど、顔馴染みの店にはできる限り置いてもらった。さすがに多すぎたので店の前で配ったこともある。開業20日後の大晦日にはオールナイト営業も行い、チラシにカイロをつけて近所の梅照院に並ぶ初詣客に配った。
あれこれとやってみて、宣伝のためにいまもなお続けているのは、SNS(ツィッター、インスタグラム、フェイスブック)だ。
最初に力を入れたのはSNS よりもブログで、はじめは1カ月に数回程度の更新だったが、3カ月目からは毎日更新するようになった。閉店後の深夜、どんなにくたびれていても夫婦交代で必ず何かを書いた。
その後ブログは昨年に中断してSNS のみに集中することにした。ツィッターではいまも毎日欠かさず午前の開店挨拶と午後の閉店告知を行なっている。また毎晩閉店後には、インスタグラムに店の所蔵レコードについての投稿を続けている。
いま、全国には560軒を超えるジャズ喫茶やジャズバーがあるが、SNS のアカウントを持っている店は、その1割もない。また「ロンパーチッチ」のように毎日何かを投稿している店は10軒あるかどうかだ。
かつてはジャズ喫茶の宣伝といえば、まずは『スイングジャーナル』などのジャズ専門誌への広告掲載だった。しかし、ジャズ専門誌の部数が激減している今、広告を掲載してさえいればジャズファンが来るという時代は完全に終わってしまった。
ホームページやフェイスブックぺージを開設している店はそこそこあるが、しかし、広大なネットの海にただ設置しても、それを読みに来てくれる人は知人や顔見知り、常連客がほとんどで、新規の客を獲得できる確率は非常に小さい。
客がめっきり少なくなってしまったという認識はほとんどのジャズ喫茶店主が持ってはいるものの、かといって、集客のための積極的なプロモーションは何もしていないのが現状だろう。
「ロンパーチッチ」については、このSNSを使ったプロモーションが有効に機能しているように見える。
筆者がこの店の存在を知ったのはツィッターで常連客に教えてもらったことからだった。それまでは店のブログには気づかなかった。雑誌などのメディアの取材も、その多くはSNSで編集者やライターがこの店の情報を得たのがきっかけだろう。
SNSにどれほどの効果があるのか、厳密にはわからない。しかしそれでも、運営や更新に費用はかからない。プライベートな時間を削ればなんとかやれる。そうやって毎日、人々の関心をコツコツと牛のよだれのようにためつづけてきた成果が、いまの「ロンパーチッチ」の集客にあらわれているのだろう。
店での客とのジャズ談義は苦手という齊藤夫婦だが、SNSでは毎日、客の一人ひとりに話しかけるように新たに購入したレコードやレコードリストについてのトピックス、店の近況報告などを行なっている。
SNS を自らの意見や趣味、プライベートな事柄を気ままに開陳する場と考えているジャズ喫茶店主は少なくないし、店とは全く関連のないことが書かれていることも多いが、齊藤夫婦の投稿は、いっけん私的なエッセイのように見えることもあるが、あくまでも「業務」であり、そこに「遊び」の要素はない。そして「客とは無関係な自分語りはしない」という姿勢が貫かれている。
店の収益が生活のすべてなのだから、趣味と業務を混同しないという点では徹底しているのだ。
味に手を抜かない。
「ロンパーチッチ」の客層を広げ、また集客の大きな武器となっているのが料理だ。いまやジャズ喫茶にもプロフェッショナルな味が求められる時代になっていることを十分に認識したうえでの戦略だ。
メニューは、ひよこ豆とひき肉のドライカレー、ペンネ各種(アラビアータ、トマトクリーム、チーズクリーム)がメイン、あとはクロックムッシュ、スイーツ(ガトーショコラ、チーズケーキ)、バニラアイスと種類は限定されている。しかし、この定番メニューのリピーターが多く、なかでもドライカレーは売り切れになることもしばしばだ。
これらのメニューは晶子さんが考案したものだが、外志雄さんのマニアックなレコード選盤と彼女のハイレベルな料理が両輪となって「ロンパーチッチ」は回転している。
料理ももちろんだが、客がリピートを繰り返す秘密の一つとしてコーヒーの味を忘れてはいけない。コアなジャズファンでなくても、「あのコーヒーをもう一度飲みたい」という理由でジャズ喫茶にやってくる客も少なくない。
「ロンパーチッチ」では創業以来、コーヒー豆は蒲田(以前は南青山)の「マメーズ焙煎工房」から仕入れている。ここはコーヒー豆全体の生産量のトップ10パーセントといわれる「スペシャルティコーヒー」を専門に取り扱っているところだ。
ずっとコロンビア産の「アピア・スプレモ・エスペシャル」を使い続けてきたが、昨年、それが「基準に満たないものになった」という理由で入荷されなくなり、同じコロンビア産だがややグレードが高く、より洗練された風味の「ロスアルペス」という農園のものに切り替わった。
また、アイスコーヒー用の豆は、ご近所の「江古田珈琲焙煎所」から仕入れている。ここは店主が「ロンパーチッチ」創業当初からの付き合いだという。
今から56年前、新宿「DIG」が開店したとき、新感覚のジャズ鑑賞店としてブレイクした理由として、コーヒーの味も重要な役割を果たした。
コーヒーは、中学の同級生の山際君が浅草のコーヒー問屋に勤めていると知っていたので、連絡をとって喫茶店を始めるのでということで頼み込みました。「一番いいコーヒーを並の価格で入れてね」と。ジャズ喫茶のコーヒーはまずいのが定評なので自分で喫茶店を始めたぐらいですから。AからEまで、五段階ぐらい豆のランクがあるんですが、AでもEでも値段にしたらそんなに変わらないんですよ。一杯に換算したら数円程度で。それでコーヒーや紅茶は一番いいのにして。》
『新宿DIG DUG物語』中平穂積読本 高平哲郎編(発行東京キララ社 / 発売三一書房)より抜粋
中平オーナーが語るように、「ジャズ喫茶のコーヒーは不味い」というのは今でも定評だが、そのいっぽうで、昔よりもずいぶん味のグレードの高いジャズ喫茶も珍しくはなくなっている。そして「ロンパーチッチ」の集客にも、コーヒーの味が貢献しているようだ。
夫婦で力を合わせる。
かつては、従業員を雇って店を切り盛りしているジャズ喫茶が大半だったが、今は人件費削減のために夫婦のみという店が多くなった。そして好調な店は、必ずといっていいほど、夫婦が互いをうまく補完し合っている。
「ロンパーチッチ」も同様であり、そして、この店がジャズ喫茶らしい居心地のよさを醸し出していることには、晶子さんの存在が大きい。
かつて吉祥寺に「A&F」という、ジャズ喫茶ファンなら知らぬ者のいない名店があった。創業は1973年の11月。店名の「A」はアート、「F」はフレンドからとったものだ。
この店は野口伊織店主の「ファンキー」や「アウトバック」、寺島靖国店主の「メグ」と並んで、70年代から80年代にかけて吉祥寺を「ジャズの街」と呼ばれるほどに盛り立て、一つの時代を築いた。
筆者は1979年から1990年まで吉祥寺に住んでいたが、JBL4520とアルテックA7の2つのシステムを鳴らし分けるこの店の音作りの良さと心おきなくレコード鑑賞に没入できる落ち着いた空間にひかれてよく通った。
店主の大西米寛氏は、寺島氏や野口氏と同様にスイングジャーナル編集部時代の中山康樹に文筆面での才能を引き出され、軽妙な語り口でジャズファンの全国的な人気を得た。中山、大西、寺島、野口4人の共著『吉祥寺JAZZ物語』(日本テレビ出版/1993年)では、ジャズ喫茶がひしめいていた往時の吉祥寺で、互いに対抗意識を抱きながら切磋琢磨していたジャズ喫茶マスターたちの様子をうかがい知ることできる。
その「A&F」が2002年2月に閉店するまでの半年間、最後のアルバイトスタッフの一人として働いていたのが晶子さんだった。
「店の入り口には『当店はジャズ鑑賞店です。ジャズファン以外の方はご遠慮願います』とか『私語厳禁』と貼り紙のある超硬派店だったんですけど、まぁテストされるわけでもないだろうとおっかなびっくりで入ってみたら、心身でジャズに浸れる気持ちよさにハマりました。何度か行くうちに、いつも店のスタンド看板の上に『女性アルバイト募集』という小さな看板がくっついているのが気になって、コーヒー代がかからずにあの空間で居られるのはオイシイと思って雇っていただきました。
「アルバイトで入ってみると、それまで気がつかなかった細やかな気配りがたくさんありました。例えば、カップを洗う際にはうるさくならないようにと、蛇口から少しずつしか水が出ないように調整してあったり、ポットを置く角度が決まっていたり。印象的だったのは、『知り合いが来てもしゃべらない』という決まりごとでした。他の客がちょっと嫌な気持ちになるからという理由だったと記憶しています。納得する人としない人がいると思いますけど、私はとても納得しました。
「あの店の心地よさは、思い切りのいい大音量にあるだけでなく、こういう見えない細やかな心づかいにあったんだなあと、そのときから今まで思い続けています。具体的な決まりごとの違いはあれど、敷居の低いまま、あの心地よさを実現できるよう、これからも心を砕いていくつもりです。たまに玉砕しますけど(笑)」(晶子さん)
「当店はジャズ鑑賞店です」
かつて「A&F」が世間に向けて発信したこのメッセージは、おそらく「ロンパーチッチ」のメッセージでもあるのだろう。しかし今や、ジャズ鑑賞が目的ではない客のほうが多いかもしれない。ときには、店ではレコードをかけているにもかかわらず、イヤホンを耳に入れて持参のPCやスマートフォンの音源を聴いている猛者もいるという。
いくら日常性の延長を求めているとはいえ、ここまで自分の家で過ごしているかのようにくつろがれてしまうと、さすがに店の人間としては「心が折れる」と齊藤さん夫婦はいう。そういう客には、たとえリピーターであっても、心を鬼にして注意する。
ふつうなら一度叱られた客は2度と来店しないものだが、「ロンパーチッチ」では若い客に関しては再びやって来ることが多いという。注意されて初めて《ジャズ喫茶》がどういうものであるかを悟ったということなのだろう。
やるなら命を削る。
「ジャズ喫茶をやるなら命を削ってください」
外志雄さんはかつて、「いーぐる」のジャズ喫茶シンポジウムでそう語ったことがある。
大見得を切ったように聞こえるかもしれないが、自分たちの生存をかけてレコードからオーディオ、フード、そしてプロモーションに至るまで、店にかかわるあらゆる要素に気をつかい、目を配らせている齊藤さん夫婦にとって、それはあたりまえのことを言ってみたにすぎない。
駅から遠い「ロンパーチッチ」に客がわざわざ足を運ぶにはそれなりの理由が、やはりあるのだ。(了)
photo & text by katsumasa kusunose@jazzcity
※この記事の写真はすべて2014年1月に撮影されたもので店内、店外の一部に現在とは異なる点があります。
rompercicci /ロンパーチッチ
- 店主:齊藤外志雄/創業年:2011年12月10日
- 住所:東京都中野区新井1-30-6 第一三富ビル1F
- TEL:03-6454-0283
- アクセス:JR「中野」駅から徒歩12分、西武新宿線「新井薬師前」駅から徒歩8分
- HP:あり/SNS:Twitter・Instagram・Facebook
- 営業時間:火〜日 11:00-23:00 ※ランチタイム11:00〜14:00 (休:月曜)
- ディスク数:レコード約2,000枚
- 喫煙の有無:全席完全禁煙
- ドリンクメニュー:コーヒー(hot・ice)540円、カフェオレ(hot・ice)540円、各種ソフトドリンク540円、各種ビール540円〜972円、各種ウィスキー540円〜、各種グラスワイン 540円、ワインカラフェS(250ml)1,080円、ワインカラフェM(500ml)1,944円、ワインボトル2,700円、各種カクテル648円〜756円
- フードメニュー(ミニサラダ付き、ドリンクとセットで108円引き):ひよこ豆とひき肉のドライカレー648円、Lサイズ864円、ペンネアラビアータ他各種ペンネ648円、Lサイズ864円、クロックムッシュ648円、1/2サイズ432円、各種スイーツ432円(ドリンクとセットで108円引き) 各種メニューの詳細はHPで
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