始まりは渡辺貞夫のアフター・アワーズ・セッション
高知のジャズ喫茶「アルテック」が2016年10月31日(月)をもって閉店した。
創業は1973年7月17日 。創業のきっかけは1970年の夏に襲来した台風10号だった。
この台風は、高知ではいまだに語り草になるほどの大きな被害を県下全域にもたらした。高潮と満潮が重なったために浦戸湾の海水が防潮堤や護岸壁を乗り越えて高知市内のほぼ全域に溢れ、多くの家屋が浸水などの被害を受けた。
JR高知駅に近い、のちに「アルテック」が開業する高知市北本町は浦戸湾からはやや離れていたが、それでも水浸しになった。
「アルテック」の創業者、青山清水(あおやまきよみ)さんが振り返る。
「この店の土地は、もとは私の嫁さんの実家の畑やったんです。しかし台風10号で耕耘機も小屋もぜんぶ流れてしまって、やる気をなくしてしまって。そんなときに『ここは立地もいいいのでテナントビルをやらないか』という話を業者が持ちかけてきたんです。」
「2階のテナントが埋まらなかったので、それなら私が何かやろうかということになりまして。1階にはすでに喫茶店が2軒入っていたので、同じではダメなのでジャズ喫茶でいこうと。」
小学生のころからラジオの工作を始め、オーディオマニアになっていた青山さんの頭に中に浮かんだのがジャズ喫茶だった。当時、青山さんは職業安定所に勤める公務員だった。
「こんなに大きな店にするつもりはなかったんですけどね。来た人はみんなびっくりしていましたよ。日本でいちばんデカイんじゃないかと」(青山さん)
「アルテック」の客席は70。ライブのときは100席ぐらいの用意ができた。駐車場には100台分のスペースがあった。
開店した当時は、ちょうど日本の外食産業の高度成長期で、のちのファミリーレストランに似た形態の飲食店が人気を集めはじめたころだった。モータリゼーションが発達してクルマを中心としたライフスタイルが根付きはじめたこの時代、広い駐車場を完備した「アルテック」の入ったテナントビル「ヤングプラザ」は、高知市内や市外からの客を集めた。
「ジャズ喫茶と看板に掲げてはいますけど、ふつうの喫茶店でいくつもりでした。やたらと食べ物が出るのでメニューが増えていきました。時流に乗ったんでしょうね、そのころはまだ東京からファミリーレストランのようなものは来てないですからね。繁華街の中心からは少し遠いんですが、若者たちがここにクルマで集まって、みんなでこれからどこかへ行こうやとか。」
「アルコール類は最初はメニューにありませんでした。ビールが置いてあるぐらい。夜は10時ぐらいで閉めるつもりだったんですが、ほかのジャズ喫茶は午前2時までやっているとかで、こりゃやっぱり0時まではやらんといかんやろうと。」(青山さん)
時流に乗っただけの店であったなら、生き残れたとしても、ジャズの看板を降ろした、食事もできるふつうの喫茶店としてであっただろう。この店が四国有数のジャズ・スポットとして知られることになったのは、アクティブなライブ興行だった。
「1974年に渡辺貞夫さんを招聘して(高知新聞放送会館の中の)高新文化ホールでコンサートやったとき、公演後、(プロモーターの)あいミュージックの人がサダオさんを店まで連れてきてくれたんです。」
「サダオさんが『こっちのほうが面白いじゃない、ここでライブをやったらいいのに』と言ってくださり、そのまま店でセッションを始めたんです。アフター・アワーズでしたので無料でした。夜遅かったので、寝転がってるお客さんもいましたよ」(青山さん)
東京に帰った渡辺貞夫が、高知にすごく大きくていいハコがあるぞとミュージシャンたちに話したことから、たちまち、鈴木勲、アンリ菅野をはじめ、今田勝、山本剛、中本マリ、マリーンなどが高知にやってきて「アルテック」でライブを行なった。
「するとこんどは外タレのプロモーターから声がかかるようになって、やってくれという話がどんどん来るようになりました」(青山さん)
いちばん最初にやってきた海外のジャズメンはレイ・ブライアントだった。1975年の11月。
それから、マル・ウォルドロン、バーニー・ケッセル、アン・バートン、テテ・モンテリュー、アート・ペッパー、ビル・エヴァンス、ローランド・ハナ、レッド・ガーランド、モンティ・アレキサンダー、ハンク・ジョーンズ、アニタ・オデイ、ジュニア・クック、シェリー・マン、ルー・ドナルドソン、クリス・コナー、ケニード・リュー、カーメン・マクレエ、ハリー・エディソン、エディ・ロックジョー・デイヴィスなど、いまではジャズレジェンドとなった錚々たる顔ぶれがこの店にやってきた。
「プロモートは石塚(孝夫)社長のオールアート(プロモーション)。石塚さんとは仲が良かったからね。『アンタのところ何人ぐらい入る?』と言われて、『80人で1晩2回、合わせて160人ぐらい』と答えると『じゃあ、〝このぐらい〟でいいわ』と。〝どんぶりのいっさん〟という方ですから(笑)。ボクらもライブ自体で儲けなくても、チャラになればいいやと。ぜんぶ売れて元々。飲んでくれたらそれが儲けという。」(青山さん)
四国では「アルテック」ほどにたくさんの海外ジャズメンを招聘する店は他にはなかったので、高知だけでなく隣県からも多くの客がやってきた。
なかでも今ではもはや伝説といっていいのは1978年9月に行なわれたビル・エヴァンス・トリオの公演だ。
ビル・エヴァンスが四国でライブをやったのはこのときのみ。ビル・エヴァンス・トリオの来日ツアーは毎回、収容人数の多いホールでの公演が多く、ジャズ喫茶でのライブはこの「アルテック」だけだ。
1978年来日時のメンバーは、ビル・エヴァンス・トリオの最後のベーシストとなったマーク・ジョンソン、ドラムスはフィリー・ジョー・ジョーンズだった。フィリー・ジョーはビルの古くからの友人だったが、ビル・エヴァンス・トリオのメンバーとして海外ツアーを行なったのはこの年の夏だけだった。
筆者は19歳のときにこのアルテック公演を体験した。
長髪でヒゲを生やし、濃い茶色のジャケットを羽織ってのっそりと現れたビル・エヴァンスは大学教授のようであり、カジュアルなシャツを着た27歳のマーク・ジョンソンはビルの下で働く大学院生のように見えた。フィリー・ジョーは二人とはまったく雰囲気の噛み合わない、濃紺のスーツ・スタイルで、ドレスシャツにネクタイを締めていたが最初から上着は脱いでベスト姿だった。貫禄たっぷりのエンターテイナーという雰囲気を醸し出す彼がドラムソロで十八番のブラシ・ワークを披露したときには会場は大いに湧いた。
このツアーに帯同していたジャズ評論家いソノ・てルヲが、彼の声が収録されている『ビル・エヴァンス・ライブ・イン・トーキョー』(1974年)と同じようにMCを務めた。
私は最前列、ビルのすぐ後ろの席に座り、2メートルぐらい前でピアノを弾くビルの大きな背中と手をずっと眺めていた。
私にとっての初めてのジャズ・ライブ体験だったこともあり、その衝撃は大きなものだった。それまで毎日家のステレオで聴いていたビルのレコードに比べると、生で聴く彼のピアノの美しさは次元が違いすぎて、それから半年ぐらいは家ではビルのレコードをまったく聴くことができなくなってしまった。
ビル・エヴァンスの晩年のライブ録音はかなりの音源がリリースされているが、この夜のセットリストもそれらとほぼ似たようなものだったと思う。ただ、フィリー・ジョーと共演したときの録音は、海賊盤で数枚あるものの、公式にリリースされたものはまだない。You tubeで検索すると、来日直前にイタリアのウンブリア・ジャズ・フェスティバルに出演したときの演奏がアップされているが、このトリオの様子を知ることができる映像はおそらくこれのみだろう。
「うちでやったときの録音はあるんですけど、出せないままになっています。東京の社長(オールアートの石塚氏)に送ってあるんです。僕のところにあるとなくすといけないから」(青山さん)
もし権利関係など諸々の事情がクリアされれば「ビル・エヴァンス・トリオin アルテック1978」が公開される日もくるかもしれない。
「アルテック」での公演は1晩2セットで、私が観たのは1stセットだった。
最後の曲(おそらく<Nardis>)が終わってメンバーがステージから引けたあと、アンコールが起きたがメンバーは姿を表さなかった。コンサートの終了を告げるためにステージに出てきたMCのいソノが、鳴りやまない拍手にとまどい、「アンコール? オレそんな話聞いてねえよ…」とつぶやきながらビルと交渉するために楽屋に消えたが、ビルはそれには応えなかった。
「ビル・エヴァンスがやると長くなるからね。アンコール1曲でも10分は超えちゃうから」と青山さんが事情を説明してくれた。
「マネジャーのヘレン(・キーン)さんがずっとビルについていて、打ち上げにも出たけど、彼はとにかく静かな人やったね。翌年、またやらないかという話が(オールアートから)きたんですけど、ギャラが高くて採算が取れないので断わりました。彼はその話の翌年に亡くなって、結局日本には来られなかったね。」
ビル・エヴァンスが肝硬変と出血性の潰瘍と気管支肺炎の併発によりニューヨークのマウント・サイナイ病院で亡くなったのは1980年9月15日だった。
9月20日の東京郵便貯金ホールを皮切りに約2週間で秋田、宇都宮、清水、大阪、名古屋、宮崎、福岡、東京、水戸を回る予定だったビル・エヴァンス・トリオ(マーク・ジョンソンb、ジョー・ラバーバラds)の日本ツアーはすべてキャンセルとなった。(次ページへ続く)
人生を変えたMJQとの出会い
「アルテック」にやってきたジャズメンについて、それぞれの思い出を青山さんに話していただいた。
「いちばん印象深かったのはアート・ペッパーでしょうね。飛行機のタラップから降りてくるときは足がヒョロヒョロっとしててね、大丈夫かなと思ったけどサックスを持つと元気でね。音はね、やっぱり昔のような溌剌とした、スピード感のあるものというわけにはいかなかったけど、味で聴かせるというかね。実際の音はすごかったね、わーっと妖気が漂う感じでね。」
「楽器の鳴りという点ではいちばん凄かったのはルーちゃん(ルー・ドナルドソン)。彼のアルトはね、楽屋中がびりびりっとして音が充満する感じ。最高に鳴った。おそらくチャーリー・パーカーもこんな感じやったんやろうなと。そのときはレッド・ガーランド・トリオと一緒に来たんだけど、お客さんはみんなガーランドが目当なわけ。ルーは後になって人気も出たけど、そのころはまだブルーノートで色物をやらされてたというイメージがあったからね。ほんとはすごい実力のある人。」
「レイ・ブライアントはもう大好きなピアニストでね。90年代にずっと「GOLD FINGERS」(オールアートが10人のジャズ・ピアニストを招聘するシリーズ企画)で来ていたじゃないですか。すごいよかったですよ。糖尿病になってしもうてね、目が悪くなって、歩くとあちこちにぶつかるのよ、でもピアノの前に座るとパッと弾く。すごいよね。」
「荷物をいちばん持ってくるのはハンク・ジョーンズやったね。僕らが海外旅行に持っていくときに使ういちばんでかいのが2つと中ぐらいのを3つ持ってくるからね。スーツケースをあけたらシャンプーとかリンスとか、太いのが入ってるのよ。日本人が使うようなちっちゃいんじゃない。(オールアートの)社長が言うには、めんどくさいから、家にあるものをそのままぜんぶ入れて持ってきてる、いちいちパッキングしてないんじゃないかと。たいへんやった。誰がどうやって運んできたんやろね。」
「荷物がいちばん少なかったのは、ベニー・グリーン。機内持ちこみができるぐらいのちっさいビジネスケース1個だけ。ステージではタキシード着てるのにそれしかないのよ。チェックインで預けないの、すごいラク。タキシードに皺はないし、テカったエナメルの靴もそのケースに入れてるのよ。あれはどうやってたのかね。あれは見習いたいね。」
「いちばんおしゃれやったのはサイラス・チェスナットかな。靴を何足も持ってくるのよ。それが29とか30センチのおっきい靴。重たいのよ(笑)。」
「カーメン・マクレエはホテルの部屋が小さくて気にいらないから換えてくれとか、いろいろたいへんやったね。タクシーに乗ってもタバコ臭いからダメとか。送迎はリムジンにしてくれとか。高知にはないよ、リムジンは(笑)。」
「MJQは楽屋出入りも移動のときも常にスーツで、ステージはタキシードやからね。ジョン(・ルイス)はルイ・ヴィトンのトランクやから、こっちが言わなくても航空会社はカヴァーを巻くしね。(このときMJQはアルテックではなく県民文化ホールで公演)」
青山さんの運命を大きく変えることになったのはこのMJQとの出会いだった。1982年のことだ。
「80年代当時はまだ四国には高速道路が整備されていなかったら交通の便が悪かったの。だからうちにくるミュージシャンを高松とか松山までクルマに乗せて連れていってあげていたの。そうしたら(オールアートの社長から)『今度MJQが来るから一緒に来ないか』といわれて『行きます、行きます』って。」
これがきっかけで青山さんはMJQの日本ツアーに帯同することになる。
「MJQは特別やから、黒塗りのクルマを用意しました。見てる人がいてるから、ちっちゃいクルマではあかん。リムジンはないからタクシーに頼んで屋根の上に乗ってるアレを外してもらってそれをツアーに使いました。」
「MJQはね、もうみんな仲が悪いの、4人とも。で、部屋は1人ずつ4つくれというの。でもそれはわかる。ずっと同じ曲やってるじゃないですか。それは疲れると思うのよ。演奏のとき以外は別々でいたいというね。ジョンちゃんはずーっと(譜面を)見てる。<ジャンゴ>は自分で作った曲なのに(笑)。パーシー・ヒースも勧進帳みたいに(譜面を)こんなに広げてね。で、ミルトは譜面もなんにもないじゃない(笑)。いっぽうコニー・ケイは笑いながらずっと叩いてる。」
「<ジャパンA>、<ジャパンB>、<ジャパンC>と3つセットリストがあるわけよ。それでジョンちゃんがぼくに今日は<A>というたら、<ジャンゴ>で始まって最後は<バグス・グルーヴ>で終わるとか。」
青山さんは英語ができなかったが「明日の出発の時間とかを伝えるぐらい」のかんたんなやりとりだけで十分にコミュニケーションが取れたという。
このMJQツアーによって青山さんとオールアートとのつながりはさらに深くなり、青山さんは石塚社長とともにアメリカにでかけることになる。
「富士通コンコード・ジャズ・フェスティバルができたいきさつは知ってます? 1984年にオールアートの石塚社長がアーネスティン・アンダーソンと契約するためにアメリカに行くことになったんですが、一緒に誘ってくれたんです。契約はシアトルで済ませて、アーネスティン・アンダーソンが(カルフォリニア州コンコード市の)コンコード・ジャズ・フェスティバルに出演するというので、私と石塚社長もそれを見に行きました。そのときにカール・ジェファーソンに会いました。」
カール・ジェファーソンとは、「コンコード・ジャズ・フェスティバル」の設立者であり主催者。もとはフォードのディーラーだったが、1969年、彼の発案をもとにコンコード市の主催事業としてスタン・ケントン・オーケストラをはじめ、バディ・リッチ、エラ・フィッツジェラルド、エロール・ガーナー、オスカー・ピーターソン、ジェリー・マリガン、ジョージ・シアリング、メル・トーメ、カーメン・マクレエなどを招いて市内の公園で第1回目の「コンコード・ジャズ・フェスティバル」が開催され、これをきっかけに彼はジャズの世界で活躍をはじめる。
カール・ジェファーソンは1973年にはレコード会社を作り、ジャズメンをコンコード市に近いサンフランシスコのスタジオに招いてレコーディングを行った。これがジャズの名門レーベル、コンコード・レコードの始まりだ。
カール・ジェファーソンが手がける「コンコード・ジャズ・フェスティバル」は年々規模が大きくなり、1975年、彼は私財を投じてコンコード市郊外の丘陵地に「コンコード・パビリオン」をつくり、以来、ここが会場となった。
そしてオールアートの石塚社長がカール・ジェファーソンにこのフェスティバルを日本でもやりたいともちかけて、富士通が冠スポンサーとなって1986年に実現したのが「富士通コンコード・ジャズ・フェスティバル・イン・ジャパン」だ。やがて富士通は本家「コンコード・ジャズ・フェスティバル」のスポンサーにもなり、日米両国で開催されるようになる。
3年目の1988年からは青山さんがこのジャズフェス・ツアーの高知での仕切りをするようになる。
「第1回のときは京都に見に行ったんですが、ローズマリー・クルーニー、スコット・ハミルトン、ジム・ホールらが出てもあんまりお客さんが入ってなくて300人か400人ぐらい。石塚さんに『社長、これやったら高知でも500人行けまっせ』と。そんなら回すわということになって3回目からは高知でもやるようになったんです。最初はメル・トーメでその次の年はトニー・ベネット。それから(富士通がスポンサーから降りる)2013年まで26 回、最後までやりました。」(青山さん)
かつての富士通コンコード・ジャズ・フェスティバルはジャズ・レジェンドたちの祭典だったが、四国の一地方都市での開催は青山さんの動員力があってこそのものだった。
「メル・トーメはすごいと言うても一般の人は知りませんからね。トニー・ベネットも人気になってきたのは今ごろやし」(青山さん)
毎年このジャズフェスは10月末から11月中旬までの期間に日本全国を回った。ミュージシャンとの契約はだいたいが10ステージ。出演者たちを3つのグループに分け、そのステージ数をこなせるように公演を組んで日本全国を回る。大都市の場合は3つのグループが一緒にできたが小都市の場合はバラ売りで1グループだけということもあった。
青山さんはマネージャーとして 毎年ツアーに帯同するので、その期間中は家族やスタッフに店をまかせた。このツアーのために楽器や機材を運ぶトラックも買った。
「毎年、店を1ヵ月か2ヵ月ずーっとほうって、まぁみんなには迷惑かけたけど、この40年間を振り返るとよかったね。ツアーは、毎日同じミュージシャンがやってるわけですけど、毎日違うわけですよ。すごい盛り上がる日もあれば、今日はダメやねという日もある。3グループぐらいあると、今日はこれの勝ちとか、今日はここがいちばんとかね。面白かったですね。」
「ツアーのときは、ホールに13時に入って15時ぐらいまでにガーッとセットして、17時ぐらいまでは空くから、タクシーに乗ってレコード屋に行きました。ツアーの移動はトラックですからタダでレコードを積んで回れる。(レコード屋は)地方ごとに特色があって面白いんですよ。アメリカに連れていってもらったときもずーっとレコード屋を巡ってました。」
集めたレコードは「アルテック」に約6000枚、自宅にはオリジナルのいいものを1000枚ほど置いていた。そのなかにはアメリカンポップスが1000枚、1500枚のドーナッツ盤も含まれる。
ジャズ喫茶店主の中でも青山さんはとても恵まれたジャズ半生を送ってきたといっていいだろう。
「たまたま渡辺貞夫さんが店に来てくれたり、石塚社長にアメリカ行きに誘われたり、いろんな人がやってきて、偶然が積み重なっていい方向にいったね」
しかし、その幸運が青山さんの人柄がもたらしたものであることは言うまでもない。
「僕はね、自分のことはほんとにチャランポランなんですよ。自分のことはどうでもいいんだけど、人に頼まれたことはカチカチッと(きちんと)やる。家では自分の服は脱ぎ散らかすんだけど、人のものはかたづけてあげるみたいなところがあるのかな。」
「僕は、高知にジャズ・ファンを育てたいとか、そういうんじゃなくてね、自分が見たいからやってただけというね。最初は写真も撮りたいとか、録音もしたいとか、思っていたんですけど、いざ本気でコンコードのツアー・マネジャーとかやりはじめるとできないですね。サインとかも、もらえないよね。そんなのやってられるかと。ただのアマチュアのジャズファンからだんだんプロになってきたんじゃないかなと思っています。(そして)ただお金を稼ぐ仕事としてじゃなくて、ジャズがあるからやりたいという気持ちでやってきたわけで。」(次ページへ続く)
そして、有終の美
一時は店の下階でオーディオショップを展開するなど、高知のオーディオ・マニアの拠点としても「アルテック」の存在は大きかった。見よう見まねでオーディオを始めたという青山さんだが、近年は青山さん自作の真空管アンプを店で使っていた。
「いろいろ作ってどういうことかってのがわかったのよ。結局、自分で考案した独自の回路とか、そういうのは駄目なのよ。昔のエディソン研究所とかグラハム・ベルとかの作ったやつというのは、こういう用途のために作ってあるわけよ。それをちゃんとやればふつうに音が出るし、安定的に使えます。ちょっと変わったことをやろうとすると駄目。」
「シンプルにいろはの<い>の回路でやれば、(録音されてレコード盤に)入ったもの(音)はぜんぶちゃんと出る。音いうのは、機械にはなんにもないの。(レコード)盤に全部ある。盤がすべて。高い機械を買えばええ音がするだろうと買い替えてますよね、いっぱい。それは違うと言ってるんだけどね。」
「アンプを作る人にもいますもんね、好みの音が出んって作っては壊し、作っては壊し。やっぱり盤がだめやったら駄目と。それで僕は買いはじめたのよ。いちばん最初に作ったオリジナル(盤)を。それから、音楽というのはハーモニーとかが聴こえないといけないから、やたら低音が出ますとか高音がチンチンよく鳴りますとか、そういうレベルの人には無理、何を言っても。」
「このアルテックA7は(エンクロージャーは)2個目です。中身(ユニット)は3個目。最初のは開店して5年目ぐらいに売ってくれと言われて売りました。状態のいいものがほしいとオーディオ・マニアが来るんですね。」
「自分が作ったアンプを持ってきて店で鳴らしてくれという人もいますよ。1ヵ月ぐらい店で鳴らしてあげて、それから持って帰る。自分の家では大きめの音量でエージングなんかできないですからね。ジャズ喫茶だと1日10数時間鳴らしっぱなしですから。クルマと一緒ですよね、毎日動かしてないと調子が悪くなる。」
「このスピーカー(アルテックA7)はね、名古屋に行くんですよ。(閉店してすぐの)11月に取りにきます。業者ではなく個人みたいですね。」
ジャズ批評社の『ジャズ日本列島 1995年版』で青山さんは次のように書いている。
「素晴らしいシステムが出来て、たいへん気に入ってますが、この20年間にジャズのリクエストをする人が減って、最近では10人に1人位しか店の音を聞いてないような状態で淋しく思っています(システムはもう最高なのに!!)残念です。」
43年続いた「アルテック」の閉店の理由は、ビルの老朽化によるものだ。
「いまさら耐震かけてぜんぶ塗り直してというよりも、もう壊したほうがええやろうと。閉店が決まってからはほんとに忙しいですね。いろんな人が来てくれる。たいへんな目にあっとります(笑)」
「アルテック」の閉店は10月31日。10月24、25、26日の3日間は最後のライブをやった。
1日目は若手ヴォーカリストの伊藤大輔とベテランのユニットROOT BAGU(竹下清志p、北川弘幸b、猿渡泰幸ds)。ゲストはBREEZ 。2日目は、2007年、来日できなくなったアニー・ロスの代役で日本人として初めてコンコード・ジャズ・フェスティバルに出演して以来、青山さんと一緒に仕事をしてきたコーラスグループのBREEZ(中村マナブ、磯貝たかあき、松室つかさ、小菅けいこ)と竹下清志。ゲストは伊藤大輔&ROOT BAGU。3日目はオールアート・プロモーションがカナダから呼んだピアノ弾き語りのキャロル・ウェルスマンとギターのピエール・コテ。ゲストはBREEZ with 竹下清志。
初日だけはゲストがいないので青山さんがアルテックの43年について語るトークセッションを行なった。連日ソールドアウト、立ち見が出るほどの大盛況だった。
店の名前は息子の青山幸司さんが受け継ぐ。幸司さんはPA機材のレンタルから設置、ミキシングなど、音響全般のコーディネートを手がける会社「アルテック」の代表取締役を務めている。
幸司さんは二人兄弟の次男で、中学生の頃から父清水さんが仕切るジャズ・ライブの現場に付いていくようになり、成人してからは本格的に父の音響関係の仕事を手伝い、機材設置やミキンシグなどの現場のノウハウを学んだ。また、叔父の経営するレストランで2年間調理の修行をした後、ジャズ喫茶「アルテック」の厨房を任されて父の店を助けてきた。
清水さんは,息子幸司さんが子供の頃から軟式野球とソフトボールチーム「アルテック」を作って活動しているが、閉店後もそれは続けていくという。また、高知県シニアソフトボール連盟の理事長を務めながら少年チームの指導もしている。
「野球で大事なのは打つときは遠くへ飛ばせということやね。バーンと打て。ウチのチームは打ちまくって勝つか、ボコボコに打たれて負けるか(笑)。バントで勝つなんて試合はないからね。もうみんな飛ばせよと。」
「ジャズもね、チャーリー・パーカーってものすごい音が大きかったでしょう。そしてものすごく速い。アマチュアの人にはね、言うんですよ、『上手に吹こうと思うな』と。でかい音をだせ、それからはじめろと。」
青山さんがこれまでに出会ったジャズメンの中でも大好きなのはレイ・ブラウンだ。彼の墓参りにも行った。
レイと仕事をしているときに「きみはピート・ローズだ」と言われた。
青山さんが「酒とバラの日々」をリクエストしたら、曲名の「バラ(Rose)」と当時人気絶頂だった大リーグ選手ピート・ローズと青山さんの野球好きをひっかけたらしい。また、現役時代はつねに全力のハッスルプレイでファンを魅了したピート・ローズのキャラクターと青山さんを重ね合わせたのかもしれない。
それ以後西海岸の顔見知りのジャズメンは青山さんのことを〝ピート・ローズ〟と呼んだという。レイ・ブラウンはコンコード・ジャズ・フェスティバルで日本には4回来た。もちろん「アルテック」でもベースを弾いた。
取材後、青山さんがチームの移動にも使っているワゴン車 で高知駅まで送っていただいた。
店から駅までは1km程度の距離なので遠慮したのだが、どうしてもということでお言葉に甘えた。MJQがコンコード・ジャズ・フェスティバルで高知に来たとき、宿泊していた新阪急ホテル(現ザ・クラウンパレス新阪急高知)から会場の高新文化ホールまではわずか100mほどだったが、それでもメンバーをタクシーで送迎したと青山さんが話してくれたことを思い出した。 (了)[2016年6月取材]
photo&text by katsumasa kusunose@jazzcity
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