ジャズ喫茶案内

陸前高田 ジャズタイムジョニーにご支援を

日本で唯一の仮設住宅のジャズ喫茶「ジャズタイムジョニー」

日本で唯一の仮設店舗のジャズ喫茶

「ジョニー」が津波をかぶってうめき声のような音を立てながら倒れ、そのまま流されていくのを、店のすぐ裏手の山の上にある本丸公園のほうへと逃げながら見届けたとき、「ジョニー」の店主照井由紀子さんは、「明日からみんなにどうやってコーヒーをいれようか」とまず考えたという。

あの地震が起きた午後2時46分、照井さんは「ジョニー」にいて洗い物をしていた。尋常ではない揺れのために棚からグラスやボトルが落ちて破片が床に散乱した。外に出てみると、陸前高田駅から「ジョニー」まで旅館や商店が立ち並ぶ「駅通り」は、驚いて建物から飛び出してきた人たちでいっぱいだった。

「通りの向こうのほうでは『津波がきてる!』という人もいたけど、まさかここまでくるとは思わなかったんです。それよりも店の建物が古いから(余震で)壊れたらどうしようって。(いろんな物が落ちて散乱している店内は)津波から避難してきた人たちを受け入れられる状況ではないので、もしその人たちが店に逃げてきたらどうしようって。(余震で)店が倒れてしまったら、とりあえずその木を燃やして煮炊きをするときに使おうかなとか考えていました。」(照井さん)

「ジョニー」のあった一帯は陸前高田駅前から続くこの地域でいちばんの目抜き通りで、日常では「津波」などは想像できないところだった。東京でいえば、銀座四丁目の交差点に立っていて津波に襲われるとはまず思い浮かばないのと同じだ。

三陸のほかの地域と同じように陸前高田でも過去の大津波のことは言い伝えられていたが、いまの世代がじっさいに経験したことのある津波は巨大な壁のようなものではなく、「すーっと水が出てくる程度だったので、あれほどの津波がくるとは思わなかった」(照井さん)。

そして、「ジョニー」の近所の商店街の人たちの多くが津波に流されて戻ってこなかった。

「そのまま避難所生活を送ることになって、とりあえずみんなに座ってもらってお茶を飲んでほしいと思っていたんですけど、(避難所に)どんどん人がきて、ああ、とんでもない状況になってきたなと思いました。それからですね、落ち込んだのは。

「店が終わってしまったという気持ちはまったくなくて、避難所で『とりあえず仮設でも店を始めたい』とみんなに言っていたら、たまたま新聞社の人がいて、私の話が記事になったんです。『じゃあ応援するから』という反応をたくさんいただいたんですけど、そのあとなんです、落ち込んだのは。新聞社の人には勢いでしゃべってしまったんですけど、(時間が経つにつれ)『やれるのかな』とか『こんな状況でやろうというのはなんなのだろう。』とひとりで悩むようになりました。」(照井さん)

そんな照井さんの背中を押してくれたのは「ジョニー」の客だった。

「さっきまで店にいたあのお客さんなんだけど、あの人が、避難所にまだ水もなにもないときに、コーヒーをいれて持ってきてくれたの。クルマのなかで一緒にコーヒーを飲みながら、私が『やろうとは思っていたんだけど、状況がどんどんひどくなっていく…』って悩みをこぼしたんです。そうしたらあの人が、『やろうと思ったんだったら、その気持ちだけはどうあっても(まわりに)伝えつづけて。いまはどうであっても、その気持ちだけはなくなさないように保っていけば、なんとかなるよ』とずっと励ましてくださって。それで私も、どんなに落ち込んでも、『やれない』とか『やめた』とかいうのは、そこだけは言わないでおこうと決めたんですよ。」

店を再開するとはっきりと決めてから、まもなく照井さんを助ける動きが出てきた。NPO法人による無償の仮設店舗開設支援だ。

「運良く『この場所はどうだ』という話があって、そこへ見に行ったんです。そのときはまだ瓦礫の間にある空き地で、夜に行ったものだから、クルマのライトで照らして『ここなんだ』と言われたときは、不気味でザワーっときて。怖いなと(笑)。でもそういうときはやるって言ってしまわないと、また次のチャンスはいつ来るかわからないので、『水道がきたらやりたい』と言ったのね。そしたらすぐに水道管を探してくれて、無事にみつかったの。」

「ジョニー」の常連や岩手県内、県外のジャズ・ファンから、そして新聞やテレビの報道を知った全国の人たちから店を応援するための物資が寄贈された。オーディオが揃い、CD2000枚以上、レコードも2500枚以上が集まった。

震災前の「ジョニー」は「日本で唯一の和ジャズ専門店」を謳い、日本人ジャズメンの稀少な音源も含めて6000枚以上のレコードや2000枚以上のCDがあった。

「前の店のものはぜんぶ流されてしまったんですけど、いまはいただいたものでいいんです。なんでもいい。それはぞんざいな意味で言ってるんじゃなくて、みんな(お客さん)が聴いてくれるものだったらなんでもいいんです。

「避難所で生活していて、もう、食べるところと寝るところがあればあとはなんでもいい、だからいろんな人から何かくれるという話があっても欲しがらないでいようと思っていたんです。でも震災前に、いまは広島にいるお客さんにあげた『スイングジャーナル』だけは、送ってもらいました」(照井さん)

その『スイングジャーナル』は「ジョニー」が開店した1975年から3年分のバックナンバーだ。もともとは『ジョニー』にあったもので、震災前に照井さんが店のものを整理していたさいに、もういらないからとその客にあげたものだった。

広島に〝疎開〟していたおかげで、開店当時の記憶のつまった『スイングジャーナル』は津波に流されずに残った。

「前の店のころは好きなものを集めていたんだけど、今回、すべてなくしてしまいました。でも震災の前から、いちばん大事なのは人とのやりとりで、その思い出だってわかっていたので、津波でモノがなくなったことはそれほど大きいショックではなかったんです。〝あのとき〟に比べたらね。

「あのときからあとも私はみんなに助けてもらって、順調にきていたんで、だから、次の楽しみのために、店にあるモノもどんどん処分しようといろいろとやってきたんです。店内改装の計画とかあれこれと考えたり。震災のあと『よかったねー、あのときお金かけてなくて』と慰められました(笑)。でも、なんだろう、『あんまりいらない』と言いながら、またこうやってモノが増えてくのって。でも、また津波がきたら、私はこういうモノはほっといて逃げさせていただくわ(笑)。」(照井さん)

照井さんがいう「あのとき」とは、震災前の2004年、前夫との離婚問題で困り果てていたときのことだ。

「ジョニー」は、照井さんの前夫、照井顯さんと由紀子さんの若い夫婦で始めた店だった。結婚4年目で由起子さんは22歳、顯さんは27歳だった。顯さんはクリーニング屋や金魚屋などいろいろな仕事を転々とするいっぽう、由紀子さんは郵便局の窓口係に勤めていた。

ある夜、顯さんから「ジョニーというジャズ喫茶を始めよう」と切り出された。

「ジョニー」という店の名前は、五木寛之の小説「海を見ていたジョニー」からとったものだ。この短編では黒人米兵ジャズピアニスト、ジョニーとトランペッターを志す日本人少年ジュンイチとのやりとりが描かれている。ジュンイチと親しいベーシストの名前が、夫の顯氏と同じ発音の「健」で、ジュンイチの姉の名前は「由紀」だった。

「ジョニー」という名前にしたいと顯さんから明かされたとき、由紀子さんは「ああ、いいなあ」と直感したという。

「日本唯一の日本ジャズ専門店」という特色を打ち出せば注目されるという顯さんの目算はあたり、「ジョニー」は東北の有名ジャズスポットとして全国に知られる。

世界的ジャズピアニストの秋吉敏子を招聘したのをはじめ、ライブ興行を積極的に打ち、ジョニーズ・ディスクという日本人ジャズメンのためのレコードレーベルを興すなどして、顯さんは東北のジャズの仕掛人として活躍するようになる。「ジョニー」にはミュージシャンをはじめ、各界の有名人たちも顔を出すようになり、店は東北の文化サロン的な存在になっていった。

しかし、店を始めてから約30年の間にさまざまなことが起こり、2001年3月から顕さんは盛岡で「陸前高田 ジョニー盛岡店」を新たに開業、由紀子さんは陸前高田の「ジョニー」を2号店という形で営業した。そして2004年9月、由紀子さんと顯さんの間で協議離婚が成立する。離婚のさいに、陸前高田の「ジョニー」は由紀子さんの手元に残された。

ただし、店には借金があり、家賃の支払いもままならぬようになっていて立ち退きを迫られていた。

そして離婚までのさまざまなストレスのために、由起子さんは難聴になっていた。医者に診てもらうのが遅れたために治療が遅れ、聴力が完全に回復する見込みはないという。いまは右耳の補聴器でなんとか会話ができるぐらいだ。

窮状をみかねた「ジョニー」の常連たちが大家さんと交渉をしてくれて、由起子さん名義で新たに契約することができた。

由起子さんによると、このときから「ジョニー」は自分のものではなく、助けてくれた常連さんたちみんなの店だと思うようになったという。

離婚後に再開した「ジョニー」の経営は順調で、由紀子さんが改装計画を考えるまでなっていた。そのときにやってきたのが震災だった。

「ジョニー」でプロポーズをして結婚し、由紀子さんをずっと励ましてきた駅通りの写真屋「和光堂」の菅野有恒さん、タカ子さん夫婦やSさん、Fさん、店の契約のときにいちばん親身に大家にかけあってくれた元鮮魚商の菅野正夫さんなど、大切だった人たちは津波に流されてしまった。

やがて避難所の体育館にいた由紀子さんのところには、かつての常連たちが次々とやってくるようになった。由紀子さんは支援物資として送られてくるコーヒーをみんなに淹れた。めいめいが「ジョニー」の再開を望んだ。

寝るところと食べるところがあればそれで人は生きていける。だが、音楽もやっぱり必要だ。

こうして日本で唯一の仮設店舗のジャズ喫茶「ジャズタイムジョニー」が生まれた。

震災からちょうど5カ月後の8月11日、NPO支援による仮設店舗予定地に店舗で使う道具を運びこみ、8月15日に即席の仮設店舗で震災後初めてコーヒーをいれて、看板メニューだったナポリタンを復活させた。

8月29日にプレハブ仮設店舗を設置。当初は1年間の予定だった支援が半年に短縮され、紆余曲折をへて移転、国の支援を受けて2012年5月10日、現在の地に仮設店舗を開店した。

仮設住宅による店舗。撤去期限は2018年9月まで

店内には秋田の人から寄贈されたアップライトピアノも。照井さんは「もったいないから」と断わったのだが「ライブには必要」といわれて
全国から寄贈されたCDやレコードともに『スイングジャーナル』の1975年から3年間のバックナンバーも
オーディオ機器の上には、かつての「ジョニー」の姿と近所の商店を描いた絵が飾られている
「ジョニー」の看板メニュー、ナポリタン。大盛りを頼もうとしたら常連さんから「やめておいたほうがいいよ」との声。レギュラーにしてみたら、たしかにふつうの大盛りぐらい、たっぷりとありました。美味い

その「ジョニー」が、いままた新たな支援を必要とする時期を迎えている。

仮設店舗の国との無償契約は2017年2月まで。延長の見込みもあるとはいうものの、この4月が仮設店舗の撤去期限だ。移転場所はすでに決まっている。震災前に照井さんが所持していた土地の代替地として提供されるものだ。現在は高台に造成中で、2018年冬に引き渡される予定だ。(筆者による訂正:2019年9月まで仮設店舗での営業期限が延長されました。造成中の土地の引き渡しは、2019年春の予定)

この土地に住居兼店舗として「ジョニー」を開きたいというのが照井さんの希望だ。

しかし店舗を建設するための資金が乏しく、再建のための募金活動が今年に入って始まった。発起人は岩手県奥州市在住のミュージシャン、柳澤昌英さん。目標金額は800万円。一口1万円からの支援だ。

「ジョニー」がここに至るまでの経緯や募金活動の状況、新たな建設予定地の情報、そして募金方法などについての詳細は、下にリンクを貼ったサイトで読むことができる。募金の透明性を保つため、毎月2回、経過報告がこのサイトで公表される。

「陸前高田ジャズタイムジョニー再建へご支援お願いします」

(次ページへつづく)

陸前高田の人々の魂

筆者が仮設店舗の「ジャズタイムジョニー」を訪ねたのは2014年7月4日だった。照井さんにお話をうかがった後、その場にいあわせた、いまはジャズタイムジョニー再建実行委員会の一人となっている陸前高田市在住の及川慎治さんに、かつての「ジョニー」の跡地にクルマで案内していただいた。

そこは見渡すかぎり、空き地だった。瓦礫はすべて撤去され、遠くにはこのあたり一帯の土地をかさ上げするための土を運ぶ、まるでSF映画に出てくるような巨大なベルトコンベアーが見えた。

及川さんに「ジョニー」があった場所を指でさしていただいたが、そこには雑草が生えているだけで何もなかった。「そこの角をまがってまっすぐ行ってすぐのところに陸前高田駅があったんですよ」と言われて、かつて「ジョニー」のあった場所から南の方角を向いたが、見渡す限り、そこには何もなかった。

かつて「ジョニー」のあったところ。舗道の石畳だけが以前と変わらぬまま残っていた
遠くにかさ上げ工事のための土を運ぶ巨大なベルトコンベアの一群が見えた
かつて「ジョニー」のあったところから撮影。いまは大きな石のある角を左へ曲がると陸前高田駅へとつづく「駅通り」。道の両側に商店が立ち並んでいた。まっすぐ進むと右側に「みせこ」や「マルマン酒店」、左側には「旅館やまと」などがあった

陸前高田の夏の風物詩として東北地方で有名な祭りが、気仙町の「けんか七夕」と高田町の「うごく七夕」だ。

前者には900年、後者には700年という古い伝統がある。「うごく七夕」は、色とりどりに染め上げられた和紙による七夕飾りを付けた各町内会の12の山車が、賑やかな笛のお囃子や太鼓の音、威勢のいいかけ声とともに陸前高田の中心街を練り歩くというもの。

この祭りには死者の魂を鎮める意味があり、この地方の新盆にあたる8月7日に毎年行なわれるが、震災のときの津波で12の山車のうち9つが流されたものの、それでも残りの3つでこの年も続行された。陸前高田の人々の魂そのもののような祭りなのだ。

「うごく七夕」への参加は誰でも自由で、山車とともに幼い子供から大人、お年寄りまでが一緒になって市内を歩く。

かつて「ジョニー」のあった「大町通り」から駅までつづく「駅通り」は、この「うごく七夕」の山車が次々と通りすぎてゆく、この祭りのメイン会場のような場所だった。

震災後もずっとこの旧市街で「うごく七夕」は行なわれていたが、かさ上げ工事が進んだために山車が通っていた道が埋められてしまい、2016年でそれも最後となった。

いまグーグルのストリートビューで見てみると、「ジョニー」跡から見渡せた旧市街の跡地は、高く積み上げられた土の壁にさえぎられてまったく見えなくなっている。かつての陸前高田の繁華街は完全に消滅してしまったのだ。

陸前高田の街の夏を風情豊かに彩っていた「うごく七夕」の様子は、YouTubeに何本か映像が上げられているので、いまでもそれを見ることができる。ここでは1998年8月7日に撮影されたものを紹介しておく。

約2時間15分と長いもので映像はかなり粗いが、まだ日が沈みきらず、小雨が降るなかではじまった祭りが、宵闇からすっかり暗くなった真夏の夜へとすすむにつれ、山車が光彩を放ちはじめ、笛や太鼓の音が熱をおびて最高潮に達していくまでの様子が見事に収められている。

この映像が撮影がされた地点は「駅通り」と「大町通り」が交差するところ、「ジョニー」より数十メートルほど西のあたりのようだ。この長い記録のなかで、ほんのわずかな時間だけ、かつての「ジョニー」があらわれる。

映像が始まって59分30秒あたりから約30秒間だ。店の前を山車がゆっくりと通り過ぎていく瞬間が映し出されている。まだ照井夫妻が経営していたころの「ジョニー」が、とても粗い画像だがなんとかみえる。(了)

photo & text by katsumasa kusunose@jazzcity

参考資料:森哲志『あの人にあの歌を 三陸大津波物語』朝日新聞出版/ シュート・アロー『昭和・東京・ジャズ喫茶』DU BOOKS

「ジャズタイムジョニー」店主照井由紀子さん

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