高知 アルテック (2016年閉店)

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高知 アルテック (2016年閉店)

人生を変えたMJQとの出会い

「アルテック」にやってきたジャズメンについて、それぞれの思い出を青山さんに話していただいた。

「いちばん印象深かったのはアート・ペッパーでしょうね。飛行機のタラップから降りてくるときは足がヒョロヒョロっとしててね、大丈夫かなと思ったけどサックスを持つと元気でね。音はね、やっぱり昔のような溌剌とした、スピード感のあるものというわけにはいかなかったけど、味で聴かせるというかね。実際の音はすごかったね、わーっと妖気が漂う感じでね。」

「楽器の鳴りという点ではいちばん凄かったのはルーちゃん(ルー・ドナルドソン)。彼のアルトはね、楽屋中がびりびりっとして音が充満する感じ。最高に鳴った。おそらくチャーリー・パーカーもこんな感じやったんやろうなと。そのときはレッド・ガーランド・トリオと一緒に来たんだけど、お客さんはみんなガーランドが目当なわけ。ルーは後になって人気も出たけど、そのころはまだブルーノートで色物をやらされてたというイメージがあったからね。ほんとはすごい実力のある人。」

「レイ・ブライアントはもう大好きなピアニストでね。90年代にずっと「GOLD FINGERS」(オールアートが10人のジャズ・ピアニストを招聘するシリーズ企画)で来ていたじゃないですか。すごいよかったですよ。糖尿病になってしもうてね、目が悪くなって、歩くとあちこちにぶつかるのよ、でもピアノの前に座るとパッと弾く。すごいよね。」

「荷物をいちばん持ってくるのはハンク・ジョーンズやったね。僕らが海外旅行に持っていくときに使ういちばんでかいのが2つと中ぐらいのを3つ持ってくるからね。スーツケースをあけたらシャンプーとかリンスとか、太いのが入ってるのよ。日本人が使うようなちっちゃいんじゃない。(オールアートの)社長が言うには、めんどくさいから、家にあるものをそのままぜんぶ入れて持ってきてる、いちいちパッキングしてないんじゃないかと。たいへんやった。誰がどうやって運んできたんやろね。」

「荷物がいちばん少なかったのは、ベニー・グリーン。機内持ちこみができるぐらいのちっさいビジネスケース1個だけ。ステージではタキシード着てるのにそれしかないのよ。チェックインで預けないの、すごいラク。タキシードに皺はないし、テカったエナメルの靴もそのケースに入れてるのよ。あれはどうやってたのかね。あれは見習いたいね。」

「いちばんおしゃれやったのはサイラス・チェスナットかな。靴を何足も持ってくるのよ。それが29とか30センチのおっきい靴。重たいのよ(笑)。」

「カーメン・マクレエはホテルの部屋が小さくて気にいらないから換えてくれとか、いろいろたいへんやったね。タクシーに乗ってもタバコ臭いからダメとか。送迎はリムジンにしてくれとか。高知にはないよ、リムジンは(笑)。」

「MJQは楽屋出入りも移動のときも常にスーツで、ステージはタキシードやからね。ジョン(・ルイス)はルイ・ヴィトンのトランクやから、こっちが言わなくても航空会社はカヴァーを巻くしね。(このときMJQはアルテックではなく県民文化ホールで公演)」

青山さんの運命を大きく変えることになったのはこのMJQとの出会いだった。1982年のことだ。

「80年代当時はまだ四国には高速道路が整備されていなかったら交通の便が悪かったの。だからうちにくるミュージシャンを高松とか松山までクルマに乗せて連れていってあげていたの。そうしたら(オールアートの社長から)『今度MJQが来るから一緒に来ないか』といわれて『行きます、行きます』って。」

これがきっかけで青山さんはMJQの日本ツアーに帯同することになる。

「MJQは特別やから、黒塗りのクルマを用意しました。見てる人がいてるから、ちっちゃいクルマではあかん。リムジンはないからタクシーに頼んで屋根の上に乗ってるアレを外してもらってそれをツアーに使いました。」

「MJQはね、もうみんな仲が悪いの、4人とも。で、部屋は1人ずつ4つくれというの。でもそれはわかる。ずっと同じ曲やってるじゃないですか。それは疲れると思うのよ。演奏のとき以外は別々でいたいというね。ジョンちゃんはずーっと(譜面を)見てる。<ジャンゴ>は自分で作った曲なのに(笑)。パーシー・ヒースも勧進帳みたいに(譜面を)こんなに広げてね。で、ミルトは譜面もなんにもないじゃない(笑)。いっぽうコニー・ケイは笑いながらずっと叩いてる。」

「<ジャパンA>、<ジャパンB>、<ジャパンC>と3つセットリストがあるわけよ。それでジョンちゃんがぼくに今日は<A>というたら、<ジャンゴ>で始まって最後は<バグス・グルーヴ>で終わるとか。」

青山さんは英語ができなかったが「明日の出発の時間とかを伝えるぐらい」のかんたんなやりとりだけで十分にコミュニケーションが取れたという。

このMJQツアーによって青山さんとオールアートとのつながりはさらに深くなり、青山さんは石塚社長とともにアメリカにでかけることになる。

「富士通コンコード・ジャズ・フェスティバルができたいきさつは知ってます?  1984年にオールアートの石塚社長がアーネスティン・アンダーソンと契約するためにアメリカに行くことになったんですが、一緒に誘ってくれたんです。契約はシアトルで済ませて、アーネスティン・アンダーソンが(カルフォリニア州コンコード市の)コンコード・ジャズ・フェスティバルに出演するというので、私と石塚社長もそれを見に行きました。そのときにカール・ジェファーソンに会いました。」

カール・ジェファーソンとは、「コンコード・ジャズ・フェスティバル」の設立者であり主催者。もとはフォードのディーラーだったが、1969年、彼の発案をもとにコンコード市の主催事業としてスタン・ケントン・オーケストラをはじめ、バディ・リッチ、エラ・フィッツジェラルド、エロール・ガーナー、オスカー・ピーターソン、ジェリー・マリガン、ジョージ・シアリング、メル・トーメ、カーメン・マクレエなどを招いて市内の公園で第1回目の「コンコード・ジャズ・フェスティバル」が開催され、これをきっかけに彼はジャズの世界で活躍をはじめる。

カール・ジェファーソンは1973年にはレコード会社を作り、ジャズメンをコンコード市に近いサンフランシスコのスタジオに招いてレコーディングを行った。これがジャズの名門レーベル、コンコード・レコードの始まりだ。

カール・ジェファーソンが手がける「コンコード・ジャズ・フェスティバル」は年々規模が大きくなり、1975年、彼は私財を投じてコンコード市郊外の丘陵地に「コンコード・パビリオン」をつくり、以来、ここが会場となった。

そしてオールアートの石塚社長がカール・ジェファーソンにこのフェスティバルを日本でもやりたいともちかけて、富士通が冠スポンサーとなって1986年に実現したのが「富士通コンコード・ジャズ・フェスティバル・イン・ジャパン」だ。やがて富士通は本家「コンコード・ジャズ・フェスティバル」のスポンサーにもなり、日米両国で開催されるようになる。

3年目の1988年からは青山さんがこのジャズフェス・ツアーの高知での仕切りをするようになる。

「第1回のときは京都に見に行ったんですが、ローズマリー・クルーニー、スコット・ハミルトン、ジム・ホールらが出てもあんまりお客さんが入ってなくて300人か400人ぐらい。石塚さんに『社長、これやったら高知でも500人行けまっせ』と。そんなら回すわということになって3回目からは高知でもやるようになったんです。最初はメル・トーメでその次の年はトニー・ベネット。それから(富士通がスポンサーから降りる)2013年まで26 回、最後までやりました。」(青山さん)

かつての富士通コンコード・ジャズ・フェスティバルはジャズ・レジェンドたちの祭典だったが、四国の一地方都市での開催は青山さんの動員力があってこそのものだった。

「メル・トーメはすごいと言うても一般の人は知りませんからね。トニー・ベネットも人気になってきたのは今ごろやし」(青山さん)

毎年このジャズフェスは10月末から11月中旬までの期間に日本全国を回った。ミュージシャンとの契約はだいたいが10ステージ。出演者たちを3つのグループに分け、そのステージ数をこなせるように公演を組んで日本全国を回る。大都市の場合は3つのグループが一緒にできたが小都市の場合はバラ売りで1グループだけということもあった。

青山さんはマネージャーとして 毎年ツアーに帯同するので、その期間中は家族やスタッフに店をまかせた。このツアーのために楽器や機材を運ぶトラックも買った。

「毎年、店を1ヵ月か2ヵ月ずーっとほうって、まぁみんなには迷惑かけたけど、この40年間を振り返るとよかったね。ツアーは、毎日同じミュージシャンがやってるわけですけど、毎日違うわけですよ。すごい盛り上がる日もあれば、今日はダメやねという日もある。3グループぐらいあると、今日はこれの勝ちとか、今日はここがいちばんとかね。面白かったですね。」

「ツアーのときは、ホールに13時に入って15時ぐらいまでにガーッとセットして、17時ぐらいまでは空くから、タクシーに乗ってレコード屋に行きました。ツアーの移動はトラックですからタダでレコードを積んで回れる。(レコード屋は)地方ごとに特色があって面白いんですよ。アメリカに連れていってもらったときもずーっとレコード屋を巡ってました。」

集めたレコードは「アルテック」に約6000枚、自宅にはオリジナルのいいものを1000枚ほど置いていた。そのなかにはアメリカンポップスが1000枚、1500枚のドーナッツ盤も含まれる。

ジャズ喫茶店主の中でも青山さんはとても恵まれたジャズ半生を送ってきたといっていいだろう。

「たまたま渡辺貞夫さんが店に来てくれたり、石塚社長にアメリカ行きに誘われたり、いろんな人がやってきて、偶然が積み重なっていい方向にいったね」

しかし、その幸運が青山さんの人柄がもたらしたものであることは言うまでもない。

「僕はね、自分のことはほんとにチャランポランなんですよ。自分のことはどうでもいいんだけど、人に頼まれたことはカチカチッと(きちんと)やる。家では自分の服は脱ぎ散らかすんだけど、人のものはかたづけてあげるみたいなところがあるのかな。」

「僕は、高知にジャズ・ファンを育てたいとか、そういうんじゃなくてね、自分が見たいからやってただけというね。最初は写真も撮りたいとか、録音もしたいとか、思っていたんですけど、いざ本気でコンコードのツアー・マネジャーとかやりはじめるとできないですね。サインとかも、もらえないよね。そんなのやってられるかと。ただのアマチュアのジャズファンからだんだんプロになってきたんじゃないかなと思っています。(そして)ただお金を稼ぐ仕事としてじゃなくて、ジャズがあるからやりたいという気持ちでやってきたわけで。」(次ページへ続く)

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