高知 アルテック (2016年閉店)

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高知 アルテック (2016年閉店)

 

始まりは渡辺貞夫のアフター・アワーズ・セッション

高知「アルテック」ジャズ喫茶案内

高知のジャズ喫茶「アルテック」が2016年10月31日(月)をもって閉店した。

創業は1973年7月17日 。創業のきっかけは1970年の夏に襲来した台風10号だった。

この台風は、高知ではいまだに語り草になるほどの大きな被害を県下全域にもたらした。高潮と満潮が重なったために浦戸湾の海水が防潮堤や護岸壁を乗り越えて高知市内のほぼ全域に溢れ、多くの家屋が浸水などの被害を受けた。

JR高知駅に近い、のちに「アルテック」が開業する高知市北本町は浦戸湾からはやや離れていたが、それでも水浸しになった。

「アルテック」の創業者、青山清水(あおやまきよみ)さんが振り返る。

「この店の土地は、もとは私の嫁さんの実家の畑やったんです。しかし台風10号で耕耘機も小屋もぜんぶ流れてしまって、やる気をなくしてしまって。そんなときに『ここは立地もいいいのでテナントビルをやらないか』という話を業者が持ちかけてきたんです。」

「2階のテナントが埋まらなかったので、それなら私が何かやろうかということになりまして。1階にはすでに喫茶店が2軒入っていたので、同じではダメなのでジャズ喫茶でいこうと。」

小学生のころからラジオの工作を始め、オーディオマニアになっていた青山さんの頭に中に浮かんだのがジャズ喫茶だった。当時、青山さんは職業安定所に勤める公務員だった。

「こんなに大きな店にするつもりはなかったんですけどね。来た人はみんなびっくりしていましたよ。日本でいちばんデカイんじゃないかと」(青山さん)

「アルテック」の客席は70。ライブのときは100席ぐらいの用意ができた。駐車場には100台分のスペースがあった。

開店した当時は、ちょうど日本の外食産業の高度成長期で、のちのファミリーレストランに似た形態の飲食店が人気を集めはじめたころだった。モータリゼーションが発達してクルマを中心としたライフスタイルが根付きはじめたこの時代、広い駐車場を完備した「アルテック」の入ったテナントビル「ヤングプラザ」は、高知市内や市外からの客を集めた。

「ジャズ喫茶と看板に掲げてはいますけど、ふつうの喫茶店でいくつもりでした。やたらと食べ物が出るのでメニューが増えていきました。時流に乗ったんでしょうね、そのころはまだ東京からファミリーレストランのようなものは来てないですからね。繁華街の中心からは少し遠いんですが、若者たちがここにクルマで集まって、みんなでこれからどこかへ行こうやとか。」

「アルコール類は最初はメニューにありませんでした。ビールが置いてあるぐらい。夜は10時ぐらいで閉めるつもりだったんですが、ほかのジャズ喫茶は午前2時までやっているとかで、こりゃやっぱり0時まではやらんといかんやろうと。」(青山さん)

時流に乗っただけの店であったなら、生き残れたとしても、ジャズの看板を降ろした、食事もできるふつうの喫茶店としてであっただろう。この店が四国有数のジャズ・スポットとして知られることになったのは、アクティブなライブ興行だった。

「1974年に渡辺貞夫さんを招聘して(高知新聞放送会館の中の)高新文化ホールでコンサートやったとき、公演後、(プロモーターの)あいミュージックの人がサダオさんを店まで連れてきてくれたんです。」

「サダオさんが『こっちのほうが面白いじゃない、ここでライブをやったらいいのに』と言ってくださり、そのまま店でセッションを始めたんです。アフター・アワーズでしたので無料でした。夜遅かったので、寝転がってるお客さんもいましたよ」(青山さん)

高知「アルテック」ジャズ喫茶案内
渡辺貞夫がライブをやったときに撮影したもの。左から本田竹廣(p)、渡辺貞夫(as)、河上修(b)、中山正治(ds)

東京に帰った渡辺貞夫が、高知にすごく大きくていいハコがあるぞとミュージシャンたちに話したことから、たちまち、鈴木勲、アンリ菅野をはじめ、今田勝、山本剛、中本マリ、マリーンなどが高知にやってきて「アルテック」でライブを行なった。

「するとこんどは外タレのプロモーターから声がかかるようになって、やってくれという話がどんどん来るようになりました」(青山さん)

いちばん最初にやってきた海外のジャズメンはレイ・ブライアントだった。1975年の11月。

それから、マル・ウォルドロン、バーニー・ケッセル、アン・バートン、テテ・モンテリュー、アート・ペッパー、ビル・エヴァンス、ローランド・ハナ、レッド・ガーランド、モンティ・アレキサンダー、ハンク・ジョーンズ、アニタ・オデイ、ジュニア・クック、シェリー・マン、ルー・ドナルドソン、クリス・コナー、ケニード・リュー、カーメン・マクレエ、ハリー・エディソン、エディ・ロックジョー・デイヴィスなど、いまではジャズレジェンドとなった錚々たる顔ぶれがこの店にやってきた。

「プロモートは石塚(孝夫)社長のオールアート(プロモーション)。石塚さんとは仲が良かったからね。『アンタのところ何人ぐらい入る?』と言われて、『80人で1晩2回、合わせて160人ぐらい』と答えると『じゃあ、〝このぐらい〟でいいわ』と。〝どんぶりのいっさん〟という方ですから(笑)。ボクらもライブ自体で儲けなくても、チャラになればいいやと。ぜんぶ売れて元々。飲んでくれたらそれが儲けという。」(青山さん)

四国では「アルテック」ほどにたくさんの海外ジャズメンを招聘する店は他にはなかったので、高知だけでなく隣県からも多くの客がやってきた。

なかでも今ではもはや伝説といっていいのは1978年9月に行なわれたビル・エヴァンス・トリオの公演だ。

ビル・エヴァンスが四国でライブをやったのはこのときのみ。ビル・エヴァンス・トリオの来日ツアーは毎回、収容人数の多いホールでの公演が多く、ジャズ喫茶でのライブはこの「アルテック」だけだ。

1978年来日時のメンバーは、ビル・エヴァンス・トリオの最後のベーシストとなったマーク・ジョンソン、ドラムスはフィリー・ジョー・ジョーンズだった。フィリー・ジョーはビルの古くからの友人だったが、ビル・エヴァンス・トリオのメンバーとして海外ツアーを行なったのはこの年の夏だけだった。

筆者は19歳のときにこのアルテック公演を体験した。

長髪でヒゲを生やし、濃い茶色のジャケットを羽織ってのっそりと現れたビル・エヴァンスは大学教授のようであり、カジュアルなシャツを着た27歳のマーク・ジョンソンはビルの下で働く大学院生のように見えた。フィリー・ジョーは二人とはまったく雰囲気の噛み合わない、濃紺のスーツ・スタイルで、ドレスシャツにネクタイを締めていたが最初から上着は脱いでベスト姿だった。貫禄たっぷりのエンターテイナーという雰囲気を醸し出す彼がドラムソロで十八番のブラシ・ワークを披露したときには会場は大いに湧いた。

このツアーに帯同していたジャズ評論家いソノ・てルヲが、彼の声が収録されている『ビル・エヴァンス・ライブ・イン・トーキョー』(1974年)と同じようにMCを務めた。

私は最前列、ビルのすぐ後ろの席に座り、2メートルぐらい前でピアノを弾くビルの大きな背中と手をずっと眺めていた。

私にとっての初めてのジャズ・ライブ体験だったこともあり、その衝撃は大きなものだった。それまで毎日家のステレオで聴いていたビルのレコードに比べると、生で聴く彼のピアノの美しさは次元が違いすぎて、それから半年ぐらいは家ではビルのレコードをまったく聴くことができなくなってしまった。

ビル・エヴァンスの晩年のライブ録音はかなりの音源がリリースされているが、この夜のセットリストもそれらとほぼ似たようなものだったと思う。ただ、フィリー・ジョーと共演したときの録音は、海賊盤で数枚あるものの、公式にリリースされたものはまだない。You tubeで検索すると、来日直前にイタリアのウンブリア・ジャズ・フェスティバルに出演したときの演奏がアップされているが、このトリオの様子を知ることができる映像はおそらくこれのみだろう。

「うちでやったときの録音はあるんですけど、出せないままになっています。東京の社長(オールアートの石塚氏)に送ってあるんです。僕のところにあるとなくすといけないから」(青山さん)

もし権利関係など諸々の事情がクリアされれば「ビル・エヴァンス・トリオin アルテック1978」が公開される日もくるかもしれない。

「アルテック」での公演は1晩2セットで、私が観たのは1stセットだった。

最後の曲(おそらく<My Romance>※この記事を発表時は<Nardis>としていましたがその後海賊版の存在を知り音源を確かめてみたところ1stセットのラストは<My Romance>で間違いありません)が終わってメンバーがステージから引けたあと、アンコールが起きたがメンバーは姿を表さなかった。コンサートの終了を告げるためにステージに出てきたMCのいソノが、鳴りやまない拍手にとまどい、「アンコール? オレそんな話聞いてねえよ…」とつぶやきながらビルと交渉するために楽屋に消えたが、ビルはそれには応えなかった。

「ビル・エヴァンスがやると長くなるからね。アンコール1曲でも10分は超えちゃうから」と青山さんが事情を説明してくれた。

「マネジャーのヘレン(・キーン)さんがずっとビルについていて、打ち上げにも出たけど、彼はとにかく静かな人やったね。翌年、またやらないかという話が(オールアートから)きたんですけど、ギャラが高くて採算が取れないので断わりました。彼はその話の翌年に亡くなって、結局日本には来られなかったね。」

ビル・エヴァンスが肝硬変と出血性の潰瘍と気管支肺炎の併発によりニューヨークのマウント・サイナイ病院で亡くなったのは1980年9月15日だった。

9月20日の東京郵便貯金ホールを皮切りに約2週間で秋田、宇都宮、清水、大阪、名古屋、宮崎、福岡、東京、水戸を回る予定だったビル・エヴァンス・トリオ(マーク・ジョンソンb、ジョー・ラバーバラds)の日本ツアーはすべてキャンセルとなった。(次ページへ続く)

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