さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ③

さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ③

 ナベサダが「モズ」でジャム・セッション

「モズ」がいちばんにぎやかだったのは、軒口たちの世代の頃ではないだろうか。

「あの頃はね、ナベサダ(渡辺貞夫)がおしのびでときどき店に来ていたみたい。当時は店でダンモのジャム・セッションをやることもあって、一度、ナベサダが参加したこともあったのね。私は残念ながらその場にいなかったんだけど」

「そのときはもう、すごいたくさんの人が集まって、店の中に入りきらなくて、2階の『モズ』から1階まで階段に人だかりができていたんだって。1階の八百屋さんの前や階段下のトイレのあたりまで人でいっぱいになったって。店に入れない人はタダでいいからということで、店のドアを開けて外でずっと聴いていたみたい」(おはるさん)

渡辺貞夫が「モズ」にたまに来ていたというのは、おそらく当時ダンモにいた増尾好秋や鈴木良雄との関係からだろう。

軒口と同期の増尾はのちにニューヨークに渡り、ソニー・ロリンズのバンドのレギュラー・ギタリストとしてその名を世界的に知られるようになるが、1年生のときから「モダンジャズ研究会始まって以来の逸材」として注目され、1968年からは渡辺貞夫グループのメンバーに抜擢された。

また増尾より一学年先輩で、のちにスタン・ゲッツのバンドやアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのレギュラーとして活躍した鈴木良雄も、1969年から渡辺貞夫グループのベーシストとして増尾とともに在籍していた。

ナベサダの「モズ」でのセッション参加はこのような縁があったからこそのものだろう。

早稲田大学モダンジャズ研究会は、発足当初は「演奏部」と「鑑賞部」があった。

1950年代後半 からプレイヤーのみの同好会としてその母体が活動していたようだが、大学公認サークルとなるためには会員数を増やすことが必要ということで「鑑賞部」を設けたらしい。

「演奏部」からは鈴木良雄や増尾好秋をはじめ、たくさんのプロミュージシャンを輩出した。またジャズクラブやジャズ喫茶経営者も多い。「鑑賞部」からは、岡崎正通や小西啓一、スイングジャーナル編集長の村田文一などが出た。

しかし1969年にこの「演奏部」と「鑑賞部」が分裂、「鑑賞部」が脱退して「現代ジャズ愛好会」が生まれた。

仲違いの理由は、「ジャズ・レコードを真剣に聴かずに思想性のないジャズをやっている」(鑑賞部)、「演奏もできない〝聞き専〟にジャズがほんとうにわかるのか」(演奏部)といった類の意見の対立があったと聞いている。

1969年の『スイングジャーナル』の読者投稿欄で、現代ジャズ愛好会の会員募集の呼びかけが行なわれている。その文面を抜粋しておこう。

このほど17名の有志を率いて発足した当愛好会は、ヤング・パワーの結集である。現在は、活躍中のプレイヤーの個別的研究や、レコード批評などを主な活動内容としている。

新宿区戸塚1 喫茶「もず」 Tel.(203)4489   新屋紀昭

『スイングジャーナル』1969年10月号「SJアンテナ」より抜粋

「もず」の住所が「戸塚1」となっているが、これは新宿区によって住所表示の変更がされる1975年以前のものだからだ。『ジャズ日本列島』1975年版には「モズ」の住所は「新宿区戸塚町1-568」とあるが、翌年発行された同誌の1976年版には「新宿区西早稲田1-14-14」と現在と同じ住所表示に変わっている。

分裂前のモダンジャズ研究会は、「モズ」で定期例会を行なっていたが、現代ジャズ愛好会が生まれてからは同会がそこで例会を行なうようになり、ダンモ部員たちは徐々に店とは疎遠になっていったようだ。

両方のサークルを掛け持ちする者もいたが、1975年に高田馬場にジャズ喫茶「イントロ」がオープンしてからは、ダンモ部員の多くはこの店をたまり場とするようになった。

また1981年には早稲田通り沿いで高田馬場駅寄りのところに、タモリや増尾好秋より1年後輩のモダンジャズ研究会のドラマーで、「モズ」にも通っていたという城石博通が経営するジャズ喫茶「ドキシー」もオープンした。

ダンモ部員が遠ざかっていくなかで、軒口隆策は最後まで「モズ」に通い続けた。

OBたちの要請を受けて70年代の半ばに新宿ゴールデン街に姉妹店のジャズバー「百舌鳥」ができてからは、そこで飲むことのほうが多かったが、それでも週1回の例会が開かれているときには、よく「モズ」のカウンターに座って飲んでいた。

現代ジャズ愛好会の例会というのは、毎回発表者が約2時間、ある特定のテーマのもとに選んだレコードを何枚かかけながら、自身の意見や感想、ジャズ論を発表するというものだった。月に1回はブラインドフォールド・テスト(聴き手に事前に情報を与えずに演奏者を言い当てさせるゲーム。目隠しテスト)が行なわれていた。

軒口は、先輩風を吹かせることもなく、いつも黙ってその例会に耳を傾けていた。

大学卒業後、軒口は楽器やレコードを販売したり、音楽教室を運営している銀座十字屋に就職し、そこで働きながらジャズ評論を書き始めた。

商業誌へのデビューはおそらく『jazz』(ジャズピープル社)で、同誌の1975年4月号でフィル・ウッズ、同年5月号でチャーリー・パーカーについての本格的な長文を2号続けて寄稿している。

その後『ジャズランド』(海潮社)が1975年9月に創刊されてからは、しばらくの間、同誌を中心に執筆した。同誌の編集長は、早稲田のモダンジャズ研究会出身で、軒口の2年後輩にあたる村田文一だった。村田は創刊当時まだ27歳で、杉田誠一編集人の『jazz』誌の1969年創刊号からのスタッフという経験をへての抜擢だった。

『ジャズランド』には、モダンジャズ研究会出身の岡崎正通や小西啓一をはじめ、平岡正明、悠雅彦、黒田恭一、川本三郎、安原顯など早大出身の執筆者が多く、まるで「ワセダランド」という趣だった。

また、村上春樹も、のちに広く知られて評判になった「ジャズ喫茶のマスターになるための18のQ&A」という一文を創刊号の読者投稿欄「解放区」に寄稿したり(創刊号なので投書ではなく依頼されたものだろう)、当時経営していたジャズ喫茶「ピーターキャッツ」の広告を出稿するなど、他のジャズ専門誌よりも同誌とのつながりははるかに強かった。

もちろん早大出身者だけではなく、間章、鍵谷幸信、中野宏昭、池上比沙之、奥成達、岩浪洋三、瀬川昌久、岡村融、岩崎千明など、この時代のジャズやオーディオ言論界を代表する執筆者も数多く寄稿していた。

軒口のジャズ評論は戦前ジャズからフリージャズやフュージョンまで、その守備範囲は広く、あまり偏りがなかった。

プレイヤー出身らしくジャズの楽理やプレイヤー視点に裏付けされた理詰めの論を展開はするものの、難解な専門用語や概念を持ち出して相手を煙に巻くというよりも、その解説は平易であることを心がけているようだった。

洞察力にすぐれ、物事の核心を逡巡することなく掴みとってそれをポンと目の前に置くというスタイルで、歯に衣着せぬ、向こう傷も恐れないという不敵な一面があった。

軒口の評論にもっとも近いものを挙げるとすれば、それは大橋巨泉ではないかと私は思う。

『ジャズランド』が1977年に休刊してからの軒口は、同年に創刊した『ジャズライフ』(立東社)や『ジャズ批評』を主な執筆の場とした。

また、『ジャズランド』編集長だった軒口の後輩、村田文一は、1993年から『スイングジャーナル』編集長となるが、1999年に現役編集長のまま、51歳の若さで急逝している。

『ジャズランド』の中から軒口の一文を抜粋しよう。1975年11月号の山下洋輔トリオの『クレイ』についての月評から、その前節の部分。彼が29歳のときの論考である。

音楽の前衛というものを考えると、三角形の底辺の様に広いオーソドックスに対して、上方の角の様に鋭い先鋒として前衛が現れる訳だが、ジャズに限って考えると、所謂、オーソドックスをふくめ、10年もすればまったくスタイルが変わってしまうタイプの音楽であるので、逆三角形の上辺の様に広がりを持った前線があり、そのすべてが前衛から刺激を受けながら変化していくという形が考えられる。

つまり、ジャズの様に休むことなく変化する音楽に正当に荷担している音楽家は他の音楽とくらべ、基本的に自らを後衛に甘んじさせない姿勢を持っているので前衛の意味が拡散してしまうのだが、それらの中でも犠牲を払いつつ突進する鋭い部分、たとえば60年のコールマン、64年のアルバート・アイラーの様な部分があり、これを狭義での前衛と呼ぶべきだろう。

なぜこういうことを書いたかというと、前衛ジャズという言いかたが、一般に、フリー・リズム、アウト・オブ・コード等、ある種の方法論により規定されるフリー・ジャズを指すことが多く、これは例えばモダン・ジャズが、いつまでも「モダン」であり得ない様に、確立された「前衛ジャズ」が永遠に「前衛」の位置にある訳もなく、ひところ言われた「前衛ジャズ」は完全にジャズの一形式として固定してきたと思えるからだ。

この様に、スタイルとして確定したいま、そのスタイルの洗練を課題とすべき前衛=フリー・ジャズの最も爛熟した姿を示すのが山下トリオである。

だから坂田が、「自分で演っているのを前衛と思わない。又、フリーという考え方自体もう古い」と言っているのはまったく正しい。山下トリオはまるで、スイングや、ハードバップを演奏する様にフリーを演奏する世界でも珍しいフリー・ジャズ・ユニットである。

『ジャズランド』(海潮社)1975年11月号p110より抜粋

これは、軒口のジャズ評論の中ではやや理屈っぽいものであるが、彼のジャズ観がよく現れていると思う。

自身の構築した論に現実のジャズの状況をあてはめて断じるよりも、まず現場でジャズに何が起こっているのかをよく見定めたうえで、自分なりの解釈、受け止め方をそこに適用して語る柔軟性に軒口の特徴があり、それゆえの間口の広さが彼にはあった。

モズ2号店計画とその挫折

「モズ」に転機が訪れたのは1980年代の半ば頃だった。

ママが体の不調を訴えることが多く、店を開けるのが遅くなり、休みがちになった。

おはるさんによれば、窓がなく小さな換気扇がひとつあるだけという貧弱な空調施設の「モズ」で、長い間客の煙草から吐き出される副流煙を吸い続けたことも体調を損なわせた一因だったという。

この頃から血栓予防のために血液をサラサラにする薬を常用するようになっていたが、ママが倒れて脳挫傷を負ったとき、この薬のせいで脳内の出血が止まらなくなったのもよくなかったという。

寝込んで開店時間の12時を過ぎてもママが来られないときは、学生の誰かが近くのママの自宅マンションに行って鍵をもらい、学生たちだけで店をあけて営業を始めることも多くなった。

新宿ゴールデン街の姉妹店「百舌鳥」も閉めてしまった。

そんなとき、軒口が「モズ」の2号店を新宿で始めるという計画が持ち上がった。

「ノンちゃんは学生の頃からゆくゆくは『モズ』を引き継ぎたいという話をしていたのよね。それで新宿の歌舞伎町にいい物件が見つかったということで、2号店を出そうということになったの」

「売上の何割かをママに渡して、早稲田の店はママが細々と続けていくということで話がまとまったの。手付け金の30万円をすでに払って、あとは内装工事をノンちゃんの好きなようにやればいいというところまできていたのよ」(おはるさん)

その矢先に、軒口が倒れた。本人の気づかぬうちにすい臓を患っていたのだ。

「夜中にとつぜんお腹が痛くなって、七転八倒しながら救急車で病院に運ばれたの。医者が処置をしようとお腹を開けてみたら、すい臓が溶けだしちゃってて、もう手の施しようがなかったみたい」

「ノンちゃんは、高校生ぐらいのころから睡眠薬を飲んでいたらしいの。高校生のときはまさかと思うけど、いつも睡眠薬をお酒で流し込んでいたのよ。ふつうは水で飲むものでしょう。新宿のジャズ喫茶に入り浸っていたころに覚えたみたいね。『夜どうしても眠れないんだ』ってノンちゃんが話してくれたことがあったわ」(おはるさん)

軒口は入院してすぐに亡くなった。41歳という若さだった。ジャズ評論家としてまだ一冊の単著も共著も上梓していなかった。

「ノンちゃんは『ジジイになったらヒゲを生やして、パイプをくゆらせて、お客さんからリクエストがあったら〝えー、こんなのかけるのー?〟とかいいながらお客さんの好きなものをかけてあげたり、自分の好きなものをかけていたい』って言ってたのよね。彼はお酒も好きだったけど、おつまみとかを作って人に食べさせてあげるのも好きだった」(おはるさん)

吉祥寺「メグ」の店主寺島靖国の初の著書『辛口JAZZノート』(日本文芸社)が10万部を越えるベストセラーとなったのは、軒口隆策が亡くなった1987年だった。

これをきっかけにジャズ喫茶店主がクローズアップされるようになり、四谷「いーぐる」の後藤雅洋をはじめ、神保町『響』の大木俊之助や吉祥寺『ファンキー』の野口伊織、中野「ビアズレー」の原田充、「A&F」の大西米寛、高田馬場「イントロ」の茂串邦明、「マイルストーン」の織戸優、一関「ベイシー」の菅原正二など、ジャズ喫茶マスターの論客がジャズ・メディアをにぎわす時代、「おやじ派の時代」(『ジャズ喫茶リアル・ヒストリー』後藤雅洋/河出書房新社より)がやってくる。

もし、後藤雅洋より一歳上の同世代で、ジャズ専門誌の執筆者としてのキャリアをすでに十分に積んでいた軒口が計画通りに新宿にジャズ喫茶を開いていたら、彼もまたその〝ジャズ喫茶おやじ〟たちのなかに名前をつらねていたにちがいない。

軒口がアルトサックスをやめたのは、自然気胸を発症して肺に穴が空いてしまったからだという。

元来自然気胸というのは、青白く瘦身の文学的美青年がかかる病のような印象があるが、実際の軒口の容貌は、ツルの太い黒縁メガネをかけた、大橋巨泉といソノてルヲと岩浪洋三と新橋のサラリーマンを足し合わせたような、がっちりとしたものだった。

だがいっけん磊落にみえても、私のようなひと回り以上も年下の後輩に対しても初対面のときは丁寧語を使うようなシャイなところがあった。

真夏のある夜、真っ白い紬の浴衣を着て上機嫌で「モズ」に現れ、カウンターで水割りを飲んでいた軒口の様子が、私の中ではいちばん印象深く、いまもその姿を思い出すことができる。

「あの人も人付き合いが駄目で、孤独症で、ジャズはものすごい好きだから、最後までジャズに携わって死にたいって言ってた。ノンちゃんみたいに、『モズ』の雰囲気が好きで、『モズ』とジャズをこよなく愛してという人でなければ、あの店は続けられなかったのよね」(おはるさん)

「モズ」はママが亡くなる2年前の1994年に、すぐ近くの早稲田通りに面した場所に移転してジャズバーとしてリニューアル・オープンした。かつて現代ジャズ愛好会に所属し、私と同い歳の橋本邦彦が雇われ店長として4代目を継いだ。

そしてママの死から7年後の2003年、「モズ」は経営不振のために閉店した。

(了/次回へ続く)

(文中は敬称略とさせていただきました)

text by katsumasa kusunose@jazzcity

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【写真:西早稲田のジャズ喫茶「モズ」のマッチ/画像提供:松浦成宏】

 

 

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