さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ②

さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ②

山下洋輔、はっぴいえんど、シュガー・ベイブ

「DANCING古事記」はたしかに幻の名盤となった。95年に貞練結社からCDで復刻されるまでは稀少な音源として数万円のプレミアがついて珍重された。いまでもオリジナルのヴィニール盤にはかなりの値がつくらしい。

山下洋輔トリオ『DANCING古事記』1971年麿プロダクション/山下洋輔(p)、中村誠一(ts,ss)、森山威男(ds)
山下洋輔トリオ『DANCING古事記』1971年麿プロダクション/山下洋輔(p)、中村誠一(ts,ss)、森山威男(ds)

「モズ」にはこのオリジナル盤が1枚あった。誰が持ってきたのかは判らなかったが、おそらく山下洋輔の事務所「TAKE ONE」の関係者ではないかと思う。

「TAKE ONE」は、山下洋輔のマネージャーだった柏原卓と、はっぴいえんどをサポートしていたことで知られる企画集団、風都市の前田祥丈と長門芳郎の3人が1974年に設立した事務所で、山下洋輔トリオを筆頭に、山下達郎、大貫妙子のシュガー・ベイブらのマネジメントをしていた。

「TAKE ONE」を設立した3人の中では、柏原卓がよく「モズ」に来ていたらしい。店にいるヒマな大学生をつかまえては近所の雀荘に行っていたという話もある。私のサークルの先輩の中には、この柏原とのつながりで「TAKE ONE」のアルバイトをしていた学生が何人かいた。いまはブラジル音楽を中心に活躍している音楽・放送プロデューサー/選曲家の中原仁もその一人だった。

そういえば、「モズ」の近くに70年代のはじめに「TAKE-1」というジャズ喫茶ができたことがあった。

早稲田通りを挟んで「モズ」の反対側にあり、文学部校舎のほうに降りていく坂の途中、アバコブライダルホールに入る路地の角の、焼き肉屋と麻雀屋の入ったビルの3階にあったという。

平岡正明の『昭和ジャズ喫茶伝説』(平凡社)によると、こけら落としのときは渡辺貞夫と山下洋輔がジャムセッションをやったとある。私は、もしや事務所「TAKE ONE」となんらかの縁があるのかと思い、「TAKE ONE」関係者に尋ねてみたことがあるが、どうも直接の縁はなかったようだ。1974年に笹塚に事務所「TAKE ONE」ができる前の話だ。学生たちから「タケイチ」とか「タケオネ」と呼ばれていたジャズ喫茶「TAKE−1」は70 年代の半ばに閉店した。

事務所「TAKE ONE」の特色はジャズとロック双方のジャンルのブッキングができることだった。

たとえば「TAKE ONE」がブッキングを担当していた1974年の荻窪ロフトでは、本田竹曠トリオ、山下洋輔トリオ、佐藤允彦などのジャズ系ミュージシャンと、細野晴臣、林立夫、松任谷正隆、伊藤銀次、矢野誠、小原礼、はちみつぱいなど、いわば「はっぴいえんど/キャラメル・ママ/ティン・パン・アレー」人脈のミュージシャンやシュガー・ベイブなどが日替わりで出演した記録が残っている。

しかし、ジャズ系とロック系のミュージシャンをひとまとめに扱うことにはやはり限界があったようだ。

1976年4月、山下洋輔トリオから森山威男が抜けて、新たなドラマーとして早大出身の小山彰太が加入したのと同じ時期に、事務所「TAKE ONE」から分割するかたちでジャズ部門をマネジメントするオフィス、「ジャムライスJam Rice」が発足した。山下洋輔トリオ(山下洋輔、坂田明、小山彰太)、向井滋春、大野えりなどが所属していて、事務所は確か六本木にあった。

ジャムライスは、アクト・コーポレーションと組んで、1977年から1984年まで、毎年夏に野外ジャズフェスイベント「サマーフォーカス・イン」を日比谷野外音楽堂で主催し、山下洋輔トリオをはじめ、森山威男、国仲勝男、向井滋春、古澤良治郎、リー・オスカー、渡辺香津美、坂本龍一、高橋幸宏、キリンバンド、To-chi-ca(マイク・マイニエリ、ウォーレン・バーンハート、マーカス・ミラー、オマー・ハキム)、杉本喜代志、板橋文夫、近藤等則、松岡直也、本多俊之、大野えり、渡辺文男、高橋知己 、生活向上委員会大管弦楽団、井上敬三などが出演した。

この頃のジャムライスの制作スタッフを現代ジャズ愛好会出身の中原仁が務めていた関係で、「モズ」に出入りする学生たちの中にはこの事務所の手伝いをする者も何人かいた。

79年から82年頃まで、私はこの「サマーフォーカス・イン」をはじめ、グローブ・ユニティ・オーケストラ(1980年)やICPオーケストラ(1982年)などのジャムライス主催公演のポスターやチラシを持って都内のジャズ喫茶やライブハウス、喫茶店を回った。思えば私のジャズ喫茶巡りの習性はこの頃に培われたのかもしれない。バイト料は出なかったが、いまとなっては貴重なライブをバックステージでタダで見られたことや打ち上げでタダ飯が食えたことが報酬だった。

80年代から90年代かけて、「モズ」にやってきてジェレミー・スタイグの「フルート・フィーバー」をリクエストする客がけっこう多かったのは、立松和平が残した『カイエ』の一文の影響もあったのではないかと思う。

また、『DANCING古事記』のオリジナル盤を目当てにやってくる若者も多かった。

彼らはたいてい、リクエストをしながら60年代末から70年代はじめの学園紛争当時のことを熱心に質問する〝遅れてきた青年〟だった。そんなときモズのオババは、にわか観光ガイドみたく変身して、ていねいに自分が経験したことを語ってやっていた。

だがそんなやりとりを横で聞いていた私も含めて、その頃「モズ」にいた学生の大半は、政治には興味の薄いノンポリであり、音盤による快楽の追求を至上とするものばかりだった。

「モズ」も「フォービート」もなくなってしまったが、いま裏早稲田界隈には「JAZZ NUTTY」というジャズ喫茶がある。グランド坂を下りきったところ、蕎麦屋の老舗「金城庵」の向いに2008年にオープンした。

青木一郎店主は早大出身ではなく、獨協大学のジャズ研OBだ。

蒲田で「サッチモ・フラワー」という名の花屋を26年間 経営していたが、敷地拡張工事によって立ち退きを余儀なくされ、それまでなんの縁もゆかりもなかった早稲田でジャズ喫茶を開いた。デューク・エリントンやセロニアス・モンクをはじめとするジャズの王道をマッキントッシュのアンプとJBL4331Bで気持ちよく鳴らす店として、いまや都内のジャズ喫茶の中でもファンの多い店だ。

実は青木店主は大のフリージャズ・ファンで、ふだんは店では扱わないが、その場の雰囲気をみはからってこっそりその手のものをかけるときもあるらしい。

ジャズ研時代にトランペットを吹いていた青木店主は、数年前に早稲田祭のモダンジャズ愛好会のライブに飛び入り参加してぶち切れたフリーキーなプレイを披露、現役学生たちよりも会場を湧かせて評判になってしまったという。

裏早稲田界隈にはなぜか、こういう人が集まってくるようだ。

(次回へ続く)

※文中は敬称略とさせていただきました

text by katsumasa kusunose@jazzcity

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関連記事:連載第3回 さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ③/軒口隆策、タモリ、モダンジャズ研究会の時代

【写真:西早稲田のジャズ喫茶「モズ」のマッチ/画像提供:松浦成宏】

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COMMENTS & TRACKBACKS

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  1. by 福山信一郎

    あら!知りませんでした〜。ジェレミー・スティッグさん亡くなったですか。日本に住んでいた様なネット上のサイトを読んだような記憶があるな。う~む!皆さん、落としですですもんね。ご冥福をお祈り申し上げます。

    • by ジャズ研ジャズ喫茶部さん

      福山さん、そうなんですよ。亡くなってから1カ月ぐらい公表されなかったですし、メディアでも報じられていないので、まだご存じない方も多いでしょうね。私が知ったのはあるフルート奏者からの情報でした。公式サイトでは日本での暮らしなどがブログや写真で見ることができますよ。

  2. by 福山信一郎

    実は、一時フルートをやっていたんです~。へへへ。
    最初は、ビル・エバンスとの有名盤ですね~。
    若干ですが、フルート物のレコードはついつい集めがちです。
    奥さんが、日本人だったような?お父さんの方のレコジャケ画の方が収集癖をくすぐかな~。ハイ

    • by ジャズ研ジャズ喫茶部さん

      福山さんはフルートをやってらしたんですか。
      私が初めて買ったジャズのLPは、古本屋で買ったフランク・ウェスのサヴォイ盤「オパス・イン・スイング」でした。高校1年ぐらいのころだと思います。すごくおっさんくさい選択だと思いますが、当時はフランク・ウェスも何もぜんぜんしらなくて、たしか800円ぐらいといちばん安かったからでした。
      ジェレミー・スタイグの奥様は日本人ですね。公式サイトにもいろいろと書かれています。たしかにジェレミーのお父様のジャケ画はいいものばかりですね。

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