さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ②

さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ②

早大裏門前から生み出たもの

まだ隔月刊だった頃の『jazz』(ジャズ・ピープル社)の1971年第10号(AUTUMN)では、この「DANCING古事記」と山下洋輔トリオ、そして麿赤兒が大きく取り上げられている。

まず驚かされるのは1ページを使った「DANCING古事記」の広告だ。特集のすぐ後ろには麿赤兒による「母系性ジャズの赤い血の消えぬ間に」という約2ページのジャズ評論、そして「CONCERT REVIEW」では杉田誠一編集長による山下洋輔トリオの公演レビュー、さらに新譜紹介コーナーでは編集部員にレビューを書かせている。

『jazz』誌1971年10号(AUTUMN) に掲載された「DANCING古事記」の1ページ広告

『jazz』誌1971年10号(AUTUMN)に掲載された「DANCING古事記」の1ページ広告

『jazz』誌1971年10号(AUTUMN)の表紙(左)/2ページ近くにわたり掲載された麿赤兒の評論(右)

『jazz』誌1971年10号(AUTUMN)の表紙(左)/2ページ近くにわたり掲載された麿赤兒の評論(右)

こうした大々的展開は、通常なら1ページの純広告に対するサービスと考えられるが、当時の「麿プロ」の状況からして、正規の広告契約がなされていたかどうかはあやしい。杉田編集長の厚意、肩入れによるものなのだろうか。

ちなみに編集部員の新譜レビューによると、「DANCING古事記」は朝日新聞や平凡パンチにも取り上げられたとある(前述の『蜜月』には、立松がモデルとなる主人公がプロモーションのために大手出版社を訪問するくだりが書き込まれている)。

これらの記事の中で特に興味深いのは杉田編集長よる公演評だ。1971年5月27日に大岡山・東京工業大学講堂で行なわれた山下トリオ公演について、杉田は次のようにその様子を伝えている。

前方舞台上にはござが敷きつめられ、「流民群」の様相を呈してヒッピー風学生たちがべったりと腰をおろし、まわしで一升瓶があけられている。開演に先立ち、主催者側から提供された一升瓶が会場のそこかしこで次々にあけられていく。山下トリオは講堂の客席中央に陣取っていつものようにガンガンと演奏しはじめる。通常使用される舞台上には、黒いシートがかぶせられた椅子に、麿がどっかりと腰をすえて、山下らとむかい合っており、そこから山下の地点に至るまでは直線に観客席を貫いて花道が設置されている。『古事記』ならぬ(河原)乞食を思わせるボロ着物をはおった麿は、始めのうちは座り続けるだけで全く動かなかった。麿の視線が時々移動するつど、見物人には麿の方を見つめざるをえない。山下トリオの面々も含めて、見物人はすっかり麿の肉体に釘付けされてしまった。

杉田が何より驚いたのは、「ジャズは阿片になりうるが、背景にもなりうることを麿によって知らされた。」という言葉で最後を結んでいるように、麿赤兒の「特権的肉体」の存在感だった。

麿赤兒もまたもう一方の主役として、山下トリオをときには凌ぐほどのパフォーマンスを観客の目に焼き付けたに違いない。

麿と山下トリオによる「DANCING古事記」ツアーは、名古屋、京都、新潟などを回ったようだ。

その頃山下のマネージャーを務めていた阿部登によると、山下トリオや阿部たちが新幹線で移動していたのに対して麿たち演劇集団はヒッチハイクで移動していたらしいという話も残っている(北中正和責任編集『風都市伝説 1970年代の街とロックの記憶から』音楽出版社)。

風都市主催による1971年6月5日の「DANCING古事記—東風」と題された京都大学西部講堂公演や翌6日の京都・円山音楽堂公演では、村八分やはっぴいえんどの後のトリとして山下洋輔トリオが出演した。

その当時のことを可児市文化創造センター館長兼劇場総監督・衛紀生が、「モズ」やそのころ早稲田にあったもう1軒のジャズ喫茶「フォービート」の思い出を交えながら、可児市創造文化センターのホームページにエッセイを書いている。抜粋はせずにここにリンクを張っておく。「エリック・ドルフィーのように。」

「フォービート」は、早稲田通り沿いの「モズ」のすぐそばの交差点から安部球場(1987年に閉鎖されて現在は中央図書館、国際会議場に)の横のグランド坂を下る途中にあったというが、私が入学した1979年よりも数年前に閉店していた。

スタックスのオールコンデンサー型スピーカーが置いてあり、青山南や村上春樹も行ったことがあるらしい。このあたりは早稲田大学正門とは反対側であり、いわば「裏早稲田」といっていい界隈だが、平岡正明が『昭和ジャズ喫茶伝説』(平凡社)で興味深いことを書いている。

ミンガスは、ワセダ安部球場裏のジャズ研や、演劇の連中が屯(たむろ)した、「クレバス」というふつうの喫茶店と、その近く、戸塚二丁目五叉路角にあった「もず」という店で聴くと、「ミンガス実験室」のワークショップたる雰囲気が伝わった。

少人数をもって、エリントン楽団を髣髴(ほうふつ)させるミンガスの実験精神が、ジャズ研や、演劇関係の部室のような喫茶店の、ボロだが、やる気満々の空気感にはまっていた。少人数で、エリントン楽団みたいなことをやるというのは、ようするに貧乏ということだ。貧乏の存在感は鋭いということだ。

喫茶店「クレバス」があって、マージャン屋があって、飯屋があって、学徒援護会の窓口があって、もうちょい行くと早稲田西門(裏門)にぶつかるガレ地に、いろんなサークルが雑居している、でかいだけのボロ舎があった。

「ハイソ」と「劇研」と、少林寺拳法同好会なんかが雑居していた。楽団とハイソとジャズ研は、同じグループの演奏部と鑑賞部だった。

「はれんちカンカン」(平岡立案のダダ劇)稽古中だから、一九六三年春だ。

これによると平岡は、1963年ごろ、詩人の宮原安春、演劇の諸富洋治らと結成した政治結社「犯罪者同盟」のメンバーらとともに演劇やジャズ関係者と交わって、ジャズと詩と演劇を組み合わせた舞台表現に取り組んでいたようだ。

山下洋輔トリオが新宿ピットインや新宿・花園神社境内の紅テントで唐十郎の状況劇場とジョイント公演をやって注目を浴びる1967年よりも少し前のことだ。

のちハイソから、タモリや、小山彰太が出たのも、六〇年代はじめの、早大裏門一体の諸族混交の気風が、いくらか関与しているのだろう。

細かいことだが、平岡は早稲田の「ジャズ研」や「ハイソ」を混同しているようで、タモリと小山彰太は早稲田大学モダンジャズ研究会の出身で同会には演奏部と鑑賞部(私がいた『現代ジャズ愛好会』の前身)があった。「ハイソ」(早稲田大学ハイソサエティオーケトラ)とは別の団体である。

いずれにしても早大を中退し状況劇場を退団した麿赤兒が、山下トリオと「DANCING古事記」で交わったのも、やはりこうした「早大裏門前の諸族混交とした気風」と遠からぬ縁があったのかもしれない。

話がすっかり脇道にそれてしまった。

楽しかった。楽しみすぎて商売には失敗した。テイチクレコードから注文した枚数を全部引取ることはできたが、日に日に電話は鳴らなくなってきた。六畳一間の事務所で在庫の山に途方にくれていた。一枚ずつ売り歩ける場はとうに使いつくし、代金の回収をしてまわる気力も失せた。最後はあるレコード販売会社にまとめて格安で売った。商売にはしくじったが、山下洋輔トリオをおとしめるものではない。名盤なのだ。幻の名盤かもしれない。

「DANCING古事記」プロジェクトが終わって7、8年ほど経った70年代末、ラジオ局に出演した際にこのアルバムをかけてもらい、「いま手元にあったら大もうけできたのになあ」と書いて立松のこの一文は終わる。

(次のページへ続く)

「ジャズ喫茶案内」運営管理人。1959年生まれ。高知県出身。ジャズ喫茶初体験は18歳。ジャズライブ初体験は1978 年、 ジャズ喫茶「アルテック」(高知)でのビル・エヴァンス・トリオ。東京での出版社勤務を経て2013年、名古屋移住。jazzcity代表。

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COMMENTS & TRACKBACKS

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  1. by 福山信一郎

    あら!知りませんでした〜。ジェレミー・スティッグさん亡くなったですか。日本に住んでいた様なネット上のサイトを読んだような記憶があるな。う~む!皆さん、落としですですもんね。ご冥福をお祈り申し上げます。

    • by ジャズ研ジャズ喫茶部さん

      福山さん、そうなんですよ。亡くなってから1カ月ぐらい公表されなかったですし、メディアでも報じられていないので、まだご存じない方も多いでしょうね。私が知ったのはあるフルート奏者からの情報でした。公式サイトでは日本での暮らしなどがブログや写真で見ることができますよ。

  2. by 福山信一郎

    実は、一時フルートをやっていたんです~。へへへ。
    最初は、ビル・エバンスとの有名盤ですね~。
    若干ですが、フルート物のレコードはついつい集めがちです。
    奥さんが、日本人だったような?お父さんの方のレコジャケ画の方が収集癖をくすぐかな~。ハイ

    • by ジャズ研ジャズ喫茶部さん

      福山さんはフルートをやってらしたんですか。
      私が初めて買ったジャズのLPは、古本屋で買ったフランク・ウェスのサヴォイ盤「オパス・イン・スイング」でした。高校1年ぐらいのころだと思います。すごくおっさんくさい選択だと思いますが、当時はフランク・ウェスも何もぜんぜんしらなくて、たしか800円ぐらいといちばん安かったからでした。
      ジェレミー・スタイグの奥様は日本人ですね。公式サイトにもいろいろと書かれています。たしかにジェレミーのお父様のジャケ画はいいものばかりですね。

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