さらばジャズ喫茶「モズ」のオババ②

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DANCING古事記プロジェクト

立松の記述に戻ろう。

演奏から一年半たっていた。小説が機縁になり、あの演奏の録音が見つかった。山下洋輔の手元にあったのだったか。ともかくぼくらには発見だった。テレビ局がとっていたものだった。夜、阿佐ガ谷のアパートに集まって仲間たちと聞いた。いい演奏だった。いろんな事情を抱えて学園を去り一年以上もとりとめもなくさまよっていたぼくらには、衝撃的だった。熱病だった。レコードにしようといいだしたのはぼくだ。金を払ってレコード会社に頼めば、セルロイドを型に流しこむようにいくらでもできるはずだ、と思った。同席していたトリオの連中も喜んでくれた。

立松がここに書いている「小説」とは、彼が『新潮』1971年3月号に発表した「今も時だ」のことだ。

セクトが占拠している校舎に突っ込んでコンサートを開くという設定で、立松によれば「ほとんどアドリブで一気に書き上げた」という。「今も時だ」というタイトルはおそらくチャーリー・パーカーの「Now’s The Time」にインスパイアされたものだろう。

1970年の夏に書かれたものだが、前年の法経4号館地下でのコンサートを目撃できなかった立松は、そのうっぷんを晴らすかのように、石がうなり火炎瓶が炸裂し、最後にはピアニストが血を吐いて昏倒するというフィクションを創り上げた。

新潮新人賞候補作になり、立松本人は絶賛を浴びるものと確信していたが、選考委員からは「稚拙」と講評され、あえなく落選した。だが、この「今も時だ」がきっかけとなって「DANCING古事記」プロジェクトが動き始めた。

麿赤児を社長にして麿プロを作った。もちろん法人などではない、でっちあげの集まりだ。ぼくらが麿プロと呼んだから麿プロといったにすぎない。最初事務所はぼくのアパートにあった。当時の僕は新婚だった。駆落ちして死ぬの生きるのと大袈裟に騒ぎ、女の親に許されてかたちばかりの祝言をあげたばかりだった。やっと落着いて所帯を持ったばかりのアパートに、麿赤児や森山威男や中村誠一や山下洋輔やそのほかうすぎたない連中がわんさといりびたる。ちょっとやばいではないか。ぼくは地下鉄南阿佐ガ谷駅近くに必死でアパートを見つけ、電話を移転した。猫の小便のにおいがきつい北向きの六畳だった。隣の印刷屋の庭にいつも猫が群れていた。麿赤児はアジの干物をエサによく猫釣りをした。

麿赤兒が猫釣りをしていたのは、三味線の腹として業者に売りつけようとしていたからだと立松はのちに自伝的小説『蜜月』(集英社)で書いている。このころの麿は、唐十郎の状況劇場を退団したばかりだった。「大駱駝艦」を旗揚げする少し前である。

60年代から「モズ」には演劇関係者が多く来た。モズの天井や壁には、ジャズと同じぐらい演劇関係の公演ポスターがたくさん貼られていた。チラシやポスターを置いてくれと店にお願いをするのがきっかけで彼らはモズのオババと言葉を交わすようになり、やがて客として来るようになった。

私がいた頃は、状況劇場の団員たちがよく来ていた。大駱駝艦の人もいた。物静かだった彼らがカウンターに座ることはまずなく、独りで隅っこの2人掛け席にじっと座っているか、誰かと一緒に来たときもボックス席で穏やかに談笑しているのが常だった。騒々しいジャズ研の学生たちと交わることはほんとどなかった。

事務所を開設したものの、金もなしでレコードをつくるのは並大抵ではない。セルロイドの円盤だけでなく、ジャケットもいればチラシもポスターも必要だった。ダビングは東京12チャンネルでタダでした。知人の手引きでスタジオがあいている時を見はからって勝手にやったのだ。鴬谷にあったジャケットの印刷屋にいき、社長、金を落としました、クビにしてください、と電話を借りてわざとらしく大声でわめいたりした。電話を印刷屋の親父とかわり、麿赤児がどういいくるめたのか三百枚渡された。レコード盤はもっときびしかった。ぼくらがシナチクレコードと呼んでいたテイチクレコードで、一万円二万円と払って十枚二十枚ともらってきた。事務所のアパートで袋にいれ、各自が持って売りに歩ったりした。

時効だからもういいかと立松は思ったのかもしれないが、これを書いたときはまだ「事件」から10年もたってない。大隈講堂から勝手にピアノを運び出したことも含めて、これらの所業は、いまの世ならまず炎上案件である。

ただ、レコード会社と印刷屋への支払いは苦労したようで、前述の『密月』によると、麿赤兒は妻に小言をいわれながら家財道具一式を担保に入れて「DANCING古事記」の売上金が回収できるまでしのいでいたようだ。

タイトルの「DANCING古事記」は麿赤児の命名だ。意味はどうでもいい。定価二千円、特製LP、限定盤、先着五〇〇名にサイン入り。大好評だった。通信販売で申込みのあった金などをすぐテイチクレコードに持っていった。だが、レコードを売ることは、つくることほどおもしろくはない。三ヵ月か四ヵ月働いてベストセラーにし、一年か二年遊んで暮らすはずだった。レコードはみるみるはけていったが、思ったように金がはいってこない。それでも事務所には得体の知れない連中がわんさか集まってきた。

「DANCING古事記」は、素人同然の集団が手がけた自主制作盤であるため、世には出したもののそのまま人知れず消えていった幻の作品と思われがちだ。実際に、当時のスイング・ジャーナルはこれを黙殺しているようだ。

しかし麿赤兒やマネージャー、有志たちはこのアルバムのプロモーションのために、いわばゲリラ戦を各方面に仕掛けて、それなりの成果を上げたようだ。

(次のページへ続く)

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COMMENTS & TRACKBACKS

  • Comments ( 4 )
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  1. by 福山信一郎

    あら!知りませんでした〜。ジェレミー・スティッグさん亡くなったですか。日本に住んでいた様なネット上のサイトを読んだような記憶があるな。う~む!皆さん、落としですですもんね。ご冥福をお祈り申し上げます。

    • by ジャズ研ジャズ喫茶部さん

      福山さん、そうなんですよ。亡くなってから1カ月ぐらい公表されなかったですし、メディアでも報じられていないので、まだご存じない方も多いでしょうね。私が知ったのはあるフルート奏者からの情報でした。公式サイトでは日本での暮らしなどがブログや写真で見ることができますよ。

  2. by 福山信一郎

    実は、一時フルートをやっていたんです~。へへへ。
    最初は、ビル・エバンスとの有名盤ですね~。
    若干ですが、フルート物のレコードはついつい集めがちです。
    奥さんが、日本人だったような?お父さんの方のレコジャケ画の方が収集癖をくすぐかな~。ハイ

    • by ジャズ研ジャズ喫茶部さん

      福山さんはフルートをやってらしたんですか。
      私が初めて買ったジャズのLPは、古本屋で買ったフランク・ウェスのサヴォイ盤「オパス・イン・スイング」でした。高校1年ぐらいのころだと思います。すごくおっさんくさい選択だと思いますが、当時はフランク・ウェスも何もぜんぜんしらなくて、たしか800円ぐらいといちばん安かったからでした。
      ジェレミー・スタイグの奥様は日本人ですね。公式サイトにもいろいろと書かれています。たしかにジェレミーのお父様のジャケ画はいいものばかりですね。

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