『ジャズ喫茶論』の読み方、読まれ方

『ジャズ喫茶論』の読み方、読まれ方

ジャズ喫茶のオヤジごときが

 

60年代のジャズ喫茶マスターが、若者たちから「師匠」と崇めたてられるほどの存在だったかというとこれもかなり疑問だ。

90年代に入る頃まで、ジャズ喫茶マスターはいわばジャズ業界の黒子的存在で、メディアに登場して脚光を浴びることはほとんどなかった。

『スイングジャーナル』を始め、『ジャズ批評』『JAZZ』といった雑誌メディアにジャズ喫茶マスターが登場する機会は、戦後の50年代から80年代末まで、数えるほどしかない。

その登場の仕方もジャズ喫茶の営業的な側面を語る座談会とか、オーディオ企画で高価なシステムの所有者として取材されるぐらいのものだ。

例外として『ジャズ批評』で「DIG」店主中平穂積、「ジニアス」店主鈴木彰一、「ファンキー」店主野口伊織の3氏によるディスクレビュー鼎談が掲載されたこともあるが、90年代以降のように頻繁にジャズ喫茶店主がジャズ評論家的な立場でジャズについての論考を発表するとか、ディスク・レビューやライナーノーツを執筆することはほとんどなかった。

このことが何を意味するかというと、当時の編集者はジャズ喫茶店主にジャズの原稿が書けるとは思っていなかったということだ。

ジャズ喫茶マスターがジャズ専門誌で連載をもったのは吉祥寺「ファンキー」店主の野口伊織が1978年に『スイングジャーナル』に1年間執筆した「野口伊織のJAZZ喫茶経営学12章」が初めてだろう。

その内容はタイトル通りジャズ喫茶についてインサイダーの視点から書くというもので、ジャズ評論的な要素はかなり少なかった。

ジャズ喫茶店主が書く機会といえば、関東のジャズ喫茶経営者の親睦団体だったMJL(モダンジャズリーグ)の会報誌やミニコミぐらいのもので、商業出版に限ると単著はおろか共著もないというのが80年代半ばごろまでの状況だった。

もしかするとジャズ喫茶店主による初めての商業出版は村上春樹の『風の歌を聴け』(講談社・1979年)だったかもしれない。

こうした状況を一変させたのが、1987年に吉祥寺「メグ」店主、寺島靖国が上梓した『辛口JAZZノート』(日本文芸社)だ。

それ以前の1983年ごろから『スイングジャーナル』や『ジャズ批評』でジャズ喫茶店主が自身のジャズ論を執筆する機会は少しずつ増えてきてはいたが、同書が10万部近いベストセラーとなったことをきっかけに、たくさんのジャズ喫茶店主が次々とジャズ言論の世界に登場した。

寺島のフックアップで登場した「いーぐる」店主後藤雅洋を始め、東京・神保町「響」の大木俊之助、東京・吉祥寺「A&F」の大西米寛、「ファンキー」の野口伊織、東京・中野の「ビアズレー」原田充、東京・下北沢「レディジェーン」の大木雄高、岩手・一関「ベイシー」の菅原正二などが、雑誌でジャズ評論やコラム、ディスク・レビューを執筆したり、ジャズがテーマの対談や座談会に登場したり、単著や共著を出版するようになる。

日本のジャズ言論界は、戦後から80年代半ばまでは「評論家の時代」だったが、90年代は「ジャズ喫茶店主の時代」と呼んでもいいぐらい、ジャズ喫茶マスターが存在感を高めることになった。

確かにこのような90年代以降のジャズ喫茶店主像をもとにすると、60-70年代のジャズ喫茶のマスターが「師匠」と崇められていたと想像する人も出てくるだろう。

しかし当時を振り返ってみると、ジャズ喫茶のマスターにはまだそれほどのステイタスも知名度もカリスマ性もなかったというのが本当のところだ。

1983年からスタートした『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の連載「美味しんぼ」がきっかけとなって戦後最大のグルメブームが到来し、1993年に登場したテレビ番組「料理の鉄人」に象徴されるように飲食店店主に光が当てられ、メディアから敬意を持って取り上げられるようになったが、それまでわが国では飲食店店主の社会的地位は概してそれほど高くはなかった。

飲食店はサービス業なので、どうしても客から一段低く見られることが多く、今でも飲食店でことさら横柄に振る舞う年配の人を時折見かけるのも、昔の職業観の名残と言っていいのではないかと思う。

日本のジャズ・メディアが長いあいだ、医師や大学教授にジャズ評論を書かせることはあってもジャズ喫茶店主にそれを期待してこなかった一因もそこにある。また、読者のニーズもなかったということだろう。

今では様々なジャンルのたくさんの飲食店店主がテレビや新聞、雑誌に登場するし、本も出版するが、メディアでの扱いがそのように変化したのはここ20〜30年ぐらいのことなのだ。

寺島靖国のベストセラー、『辛口JAZZノート』と同じ編集者の手によって、ジャズ評論の重鎮、岩浪洋三が『こだわりJAZZノート』(立風書房)を1993年に上梓するが、その際、岩浪は前書きの部分に「最近タケノコのように出てきた〝ジャズ喫茶のオヤジごとき〟が書いた独断と偏見に満ちたジャズ本(ほん)に対して正統的由緒正しいジャズ評論家の正しい本こそ今こそ求められている」と書いていたという。

これは1993年発行のスイングジャーナル臨時増刊号『モダン・ジャズ読本’94』の「SJ覆面座談会’93 いま改めてジャズ・シーン問題は発言をブッタ斬る!」という、スイングジャーナル編集部員5人の座談会記事によるものだ。

ところが、岩浪の『こだわりJAZZノート』には、このジャズ喫茶のオヤジごとき云々という記述はない。それに該当すると思われる部分は、次のようになっている。

かつては日本のジャズ界にも、現在にくらべると、もうちょっと明確にジャズ評論家やジャズ評論といったものが存在したが、最近はジャズ評論家という独立した存在は少なくなり、ジャズ喫茶のオーナーやジャズ雑誌の編集者、ディスコグラファー、レコード・コレクターなどが自由に発言し、文章を発表するようになった。このジャズ評論の自由化現象もたしかに面白いが、文字通り独断と偏見にみちている場合も多く、ジャズ評論やジャズ・エッセイが混乱をきたしていることもまたたしかである。

そこでちょっと「これでよいのか、ジャズの見かた、聴きかた」といったものが書きたくなった。それが本書である。 (岩浪洋三『こだわりJAZZノート』立風書房 「まえがき」より抜粋)

SJ 編集部員による覆面座談会は同書が出版される前に新刊情報として披露されたものなので、もしかすると同書の校正段階で書き換えられたのかもしれない。

仮に岩浪がこの座談会のようなことを本当に書いていたとしても、岩浪が2012年に亡くなるまで、岩浪と寺島は親友と呼んでもいい関係だったようなので、いわばプロレスの八百長のようなエンターテインメントだったのだろう。

しかしSJ編集部員が「待ってました、岩浪さん!」というノリで語り合っている様子を見ると、この「ジャズ喫茶のオヤジごときが」という差別意識は、あながち岩浪個人の冗談では片づけることのできない、当時のジャズ界の空気を表していると思う。

ちなみにこの座談会には次のような記述もある。

これまで売れなかった評論家の本もジャズ喫茶のオヤジ本につられて売れそうだ。とにかく評論家にショックを与えたオヤジ本はすごい。寺島靖国、後藤雅洋、大木俊之助の三氏はベストセラー・ジャズ作家で評論家を越えている。若者たちの教祖だもんね。

「若者たちの教祖」という表現にはやや誇張を感じるが、90年代以降、ジャズ喫茶マスターに対する世間の評価に変化があったことは間違いないと思う。

著作を出版したり、メディアに頻繁に顔を出すようになってくると、やはりそこから「権威」が生まれる。彼らを信奉し、追随するジャズ・ファンが現れるのだ。

かつてはジャズ界のアウトサイダーであったジャズ喫茶マスターのポジションが、90年代を境に変動した。そして、権威として存在感を発揮し始めると、それに対する反発も生まれる。

これは私個人の体験に過ぎないのかもしれないが、80年代末頃までは、ジャズ喫茶やジャズ喫茶マスターという存在についてネガティブに語る人に出会ったことはほとんどなかった。

また、それまでのメディアにおけるジャズ喫茶の露出の仕方を調べていただくとわかるのだが、「ジャズ喫茶は抑圧的な空間」といった類の表現はほとんど出てこないし、そういう切り口の記事もない。

雑誌の読者投稿欄などにも、ジャズ喫茶批判のようなものはまったく見当たらない。モラスキーが書くような60-70年代の硬派ジャズ喫茶の姿を伝える記述はほとんど出てこないのだ。

70-80年代は会話禁止の店が今よりもはるかに多かったが、それでも私の周囲にはそのルールを批判的に語る者はいなかったし、そもそも「会話禁止」がトピックスになることもなかった。

だが、ここ最近——この10年ぐらいのことと感じているが、ジャズ喫茶への揶揄や批判的な意味合いを込めて「ジャズ喫茶は会話禁止だから(自由がない)」云々の表現をSNSなどでよく見かけるようになってきた。

それまでは見えてこなかった声がSNSの普及によって可視化された面もあるのかもしれないが、私の印象では、「会話禁止」を筆頭に「マスターに説教される」「マスターや常連客にジャズの知識がないとバカにされる」といった内容をSNSに書き込んでいる人の大半が、ジャズ喫茶経験が少ないか、もしくはジャズ喫茶に入ったことはなくて先入観のみで語っているフシが見受けられる。

このようなSNSをはじめネット界隈で、かつてのジャズ喫茶はどのようなものだったのかという「証拠映像」として、ひんぱんに紹介される動画がある。

「タモリのジャズスタジオ」という、NHK衛星第2で1995年2月20日から23日までの4夜にわたって放送された番組の一部だ。

この特集番組はタモリがメインキャスターとなって大西順子、清水ミチコが脇を固め、景山民夫、糸井重里、林家こぶ平、ピーター・バラカンらが日替わりゲストとしてスタジオにやってきて「ジャズ」をテーマに語るという趣向のものだ。

ここで私が挙げる「証拠映像」とは、ピーター・バラカンとスーパー・エキセントリック・シアターの俳優、八木橋修がゲストとして出演し、70年代のジャズ喫茶にふれている箇所だ。

YouTubeにその動画がアップされているが、それを無断でここに掲載するのは違法にあたるので、興味のある方は「タモリのジャズスタジオ ジャズ喫茶の思い出話」で検索すればすぐにみつかるので探して欲しい。

以下その部分を再現してみよう。

東京・新宿生まれの八木橋修が初めてジャズ喫茶に入ったのは中学3年生のときだという。その店は有楽町から新宿に移転してきた「ママ」のようだ。

八木橋は「1975年ごろ」としているが、彼は1957年生まれなのでそのとき高校生だったはずだ。そのあたりは記憶が曖昧なのだが、「ママ」が有楽町店を閉店して新宿店のみとなったのは1971年なので、1975年よりも少し前かもしれない。

いずれにしても初めて入ったジャズ喫茶で八木橋はまず、ぶっきらぼうで愛想のないウェイトレスにちょっと面食らう(筆者注:この無愛想なウェイトレスはけっこう知られた存在だったと常連から聞いたことがある)。

やがて八木橋はリクエストをしようとするが、ジャズ喫茶のリクエストシステムがわからず、リクエストカードには記入せずに、直接マスターに話しかけてしまう。そのときのやりとりを八木橋は次のように振り返る。

「リクエストしたんですよ、カインド・オブ・ブルー。そしたらマスターが(顔をしかめながら)『ええっ?』って。『カインド・オブ・ブルー、そんなの家で聞けよ、おまえ!』‥‥‥カインド・オブ・ブルーをかけてもらったんですよ‥‥‥。そしたら案の定、周りのお客さんが『誰だあ? こんなのリクエストしたのは』(という雰囲気になった)」

リクエストしたらマスターや常連に怒られたという典型のパターンが出てくるわけだが、しかし、注意して欲しいのは、八木橋が語るその文脈だ。

八木橋はこのエピソードをもとに当時のジャズ喫茶がどんなにイヤな場所だったのかを伝えたかったわけではない。

マスターに叱られたことが八木橋にとってのジャズ喫茶初体験だったようだが、その後彼はジャズ喫茶に通いつめるのである。最長でコーヒー1杯で6時間半も粘ったことがあると八木橋は語る。

私は八木橋と年齢は2つ違いの下なので当時の様子はあまり変わらないと思うが、確かにその頃のジャズ喫茶には、八木橋が大げさな身振り手振りで演じるような、うつむいて首を激しく振りながら陶酔しきった客や両切りタバコが入った缶ピースをテーブルの上にどんと置いて煙をくゆらす客がいた(もっともジャズ喫茶に限らず、大学生や予備校生が来る喫茶店には缶ピースをテーブルに置く客は珍しくはなかったが)。

そして「友達にはなりたくないような客がたくさんいて、なんだここはと思った」という八木橋のジャズ喫茶初体験の感想には私も同意する。

しかし八木橋は、だからジャズ喫茶が嫌いだったと言っているわけではない。むしろ彼はそんなジャズ喫茶の空間に耽溺してしまったのだ。

テレビを意識してちょっとウケを狙った演技をしながら、彼は自分がかつてハマったジャズ喫茶の記憶を露悪的に語ったにすぎない。

当時、ジャズ喫茶に通ったことのある者なら、八木橋の話を聞きながら幾分大げさだなと思いつつ「ある、ある」と苦笑するだろう。しかし、当時を知らない後世の人間が見ると、ジャズ喫茶ってなんとも気持ちの悪い場所だとその感想が変質する。

ここに映像による記録の怖さがある。情報というものは、それを受け取る側のバックボーンによってその「真実」に差違が生まれることがあるが、映像の場合は、特にそれが絶対的な真実であると受け止められがちになってしまう。

このときの番組のテーマがもし「ジャズ喫茶の魅力について語れ」であったなら八木橋の話もまた違った方向で編集されていただろう。

まさか20年以上ものちに、「昔のジャズ喫茶がいかに酷いものだったか」を示す証拠として取り上げられるようになるとは、このときの八木橋は想像もつかなかったのではないか。

そしてピーター・バラカンのここでの話もまた、ジャズ喫茶のダメさ加減の証拠としてよくネットで取り上げられる。

バラカンが1974年に吉祥寺に住み始めたときに行ったジャズ喫茶での体験なのだが、彼の記憶によるとその店はたぶん「ファンキー」だったらしい。そこでバラカンがハービー・ハンコックの「ヘッド・ハンターズ」をリクエストしてかけてもらったところ、客の半分ぐらいが帰ってしまったという。

「ヘッド・ハンターズ」は今ではもう名盤という評価が定まったアルバムなので、現代の音楽ファンからしてみると「ジャズ喫茶の客とは、なんと保守的でつまらないヤツらなのか」と思ってしまうようだ。

しかし、事実はそういうことではない。1974年当時は「ヘッド・ハンターズ」を支持する日本のジャズ・ファンはかなり少数だったのだ。1970年のマイルス・デイヴィスの「ビッチェズ・ブリュー」の発表以来、今では想像もつかないぐらい、エレクトリック楽器を使ったジャズへの風当たりは強かった。

クロスオーバー/フュージョンがジャズであるか否かということが最も激しく議論された時代であり、どちらかといえばフュージョン否定派が多かっただろう。

つまりバラカンがこのときに体験したことは、ジャズ喫茶だから起こったというわけではなく、そもそも日本のジャズ・リスナー全体の反応が当時はそうだったのである。

「ファンキー」のオーナー、野口伊織によると、この頃に店でフュージョンをかけるとバラカンの話の通り、多くの客が帰ったという。これでは従来の客が逃げてしまうということで、新しいファン層のためのクロスオーバー/フュージョン専門のジャズ喫茶「アウトバック」を1972年にオープンさせている。

バラカンが吉祥寺に住み始めた頃にはもう「アウトバック」は営業をしていたはずだが彼は知らなかったのだろうか。ただ、もし彼が「アウトバック」に行ったとしても、まるでパチンコ屋のように電子音がバカでかく鳴り響くあの空間はやはり、彼は好きになれなかっただろうと思う。

「ジャズ喫茶ってどうですか?」とタモリと八木橋に尋ねられたバラカンは、「異様ですよ、ボクには。完全にカルチャー・ショック。暗くてね、しゃべっちゃいけないというのが、〝何言ってるんだ〟という‥‥」と答えている。

このピーター・バラカンの反応はマイク・モラスキーにも共通するものだ。モラスキーもジャズ喫茶初体験のときはバラカンと似たようなカルチャー・ショックを受け、大きな違和感を抱いたが、何度か通ううちにようやくその違和感を払拭できたと本書に書いている。

ただ、払拭できたとモラスキー本人は言うものの、第3章の「感化されやすい若者たちを閉鎖的な空間に押し込め、自信たっぷりの、個性の強いマスターのお説教にしょっちゅうさらすという状況」や「カルトまでいかないにせよ、その密閉された空間と絶対的な忠誠心を強要する」云々の記述を読むと、やはり無言で座ってジャズ聴き続けるジャズ喫茶カルチャーとの出会いのショックが、後々まで彼のジャズ喫茶観に影響を与えつづけているのではないかと推測したくなる。

横浜の「ちぐさ」を開業した頃、アメリカ人に「座ってジャズを聴くのか」と笑われたというエピソードを吉田衛店主が自著の『横浜物語』(神奈川新聞社・1985年)に書いているが、欧米ではジャズとは明るく楽しむものというイメージが1920年代から一貫してあるようで、アメリカでは今でも結婚式などのパーティーを盛り上げるためにジャズの生演奏の需要があるのもそういう伝統があるからだろう。

そして『横浜物語』によると、「ちぐさ」を開業した昭和10年代頃には横浜や東京のあちらこちらにダンスホールが営業して賑わっていたというから、ジャズが日本にやってきた当初は、日本人も踊りながらジャズを楽しんでいたということになる。

無言で腕を組みながらじっと聴くジャズ喫茶文化が日本全国に拡散したのは60-70年代のことなので、100年近い日本のジャズ受容の歴史の中では特異な期間だったのかもしれない。

このためピーター・バラカンやマイク・モラスキーに限らず、会話を一切せずにひたすらジャズを聴き続ける空間が異常と感じる日本人も少なからずいるだろう。

しかし、ジャズは「黙って聴くべき」ものでもなければ「しゃべりながら聴くべき」ものでも「踊りながら聴くべき」ものでもなく、どう向き合うかは個人の自由だ。

バラカンはたんに個人としての嗜好を表明しただけなのだが、洋楽ファンの間では良識派として絶大な信頼を得ている彼が「ジャズ喫茶は異様、暗い」とコメントしたのは、まるで絶対的な判定を下されたかのような観があり、ジャズ喫茶のイメージにとってはいかにもマズかった。

この八木橋やバラカンのコメントの後に、清水ミチコが「ではジャズ喫茶に欠かせない2大アーティストです。マイルス・デイヴィスの<ソー・ホワット>とジョン・コルトレーン<インプレッション>。」と司会のアナウンスをしてこの2曲が流れてくる。

八木橋のコメントではマイルスの「カインド・オブ・ブルー」をジャズ喫茶でリクエストしてはいけないといった風に取り上げておきながら、ここで「ジャズ喫茶の定番」としてその「カインド・オブ・ブルー」から1曲かけるとは、「カインド・オブ・ブルーはダメなのか、ええのか、どっちやねん」とツッコミを入れたくなるが、まあ、ジャズ喫茶とはそういうものである。

そのときの状況次第で「カインド・オブ・ブルー」のような大名盤がNGになることもあればOKになることもある。

ただ、リクエストカードにきちんと書かずにいきなり「カインド・オブ・ブルー」をかけてくれと言ってきた中坊の八木橋の場違いなマナーにちょっとキレてはみたものの、ちゃんとリクエストにこたえてやっているところはジャズ喫茶マスターらしい話だと思う。

ちなみにこの「タモリのジャズスタジオ」の別の回では、清水ミチコは実家がジャズ喫茶であったことを打ち明けている。そのせいか、ジャズ喫茶についての彼女のコメントには、ややインサイダー的な視点があるように見られる。

彼女の実家のジャズ喫茶とは、岐阜県高山市のJR高山駅前にある「if珈琲店」という店だ。

清水の父が他界して叔父が店を引き継いでからはジャズ喫茶ではなく、普通の喫茶店として営業しているが、ジャズ喫茶時代の名残は今もあって、JBLランサーが床に置かれ、CDでジャズが静かに流れている。店の造りや調度品はとても立派で、壁に飾られたたくさんの古時計が印象に残る、落ち着いた雰囲気の美しい店だ。

この「タモリのジャズスタジオ」が放送された90年代半ば頃から、プロのジャズライター、評論家の中にもジャズ喫茶の「敷居の高さ」をネタにする者が出てくる。ここでは中山康樹を例に挙げておこう。

中山はスイングジャーナル編集長時代に寺島靖国や後藤雅洋にスポットをあて、90年代のジャズ喫茶オヤジブームの発端をつくったと言ってもいい存在だが、彼はジャズ喫茶については「独断と偏見に充ちた空間」といった表現で、ジャズ喫茶の特殊性を煽ることが多かった。

その一例が、『挫折し続ける初心者のための最後のジャズ入門』(中山康樹/幻冬舎新書・2007年)だ。

第1章の「ジャズにまつわる誤解と偏見」の「ジャズをむずかしくしたがる困った人たち」という項目でジャズ喫茶の話が出てくる。

ここで中山は「ジャズをむずかしくしたがる困った人たち」の例としてネット上で初心者相手に「なんでも教えたがる人たち」を遡上にあげている。

一見丁寧で優しく見える「教えたがる人たち」のおかげで没個性的な聴き方しかできないリスナーが生まれている、というのが中山の趣旨らしい。

そして中山は、そうしたインターネット上でのジャズ初心者とジャズマニアとのやりとりには「かつてジャズ喫茶でみられた排他的・強制的・命令的な空気が微塵もない」と指摘する。そして、もし同じようなやりとりをジャズ喫茶店主や常連客にしたらどういう展開になるかという例として、次のような話を作り上げる。

ジャズ喫茶の店主あるいは常連客にしたらどのような展開に突入するか。

「はじめまして」「‥‥‥(店主無言でにらむ)」「ぼぼぼぼくクククリフォードブブブラウンが好きなのですが」「‥‥‥(店主、無言でにらみつづける)」「アアアアイリリリメンバーククククリフォードっていう曲の入ってるCDがななななかみつからなくて」「(店主、やおら口を開く)クリフォード・ブラウンが演奏している《アイ・リメンバー・クリフォード》が聴きたいわけか」「アッ、ハハハイ」「ヴァッカヤロー! よく考えてからモノいえ! なんで本人が自分に捧げんだよ、ったく。帰れっ!」

これがジャズ喫茶における一般的な交流だが、ネットのなかにも、ときには健気な初心者に愛のムチを振るう心優しき人もいないわけではない。

「アイ・リメンバー・クリフォード」は、交通事故により夭逝した天才トランペッター、クリフォード・ブラウンに捧げられた曲だが、クリフォード・ブラウンの生前のプレイの個性をよく捉えた、まるで本人が作ったかと思わせる曲調に特徴がある。

中山はそこをキモとしてこの笑い話を作ったわけなのだが、「これがジャズ喫茶における一般的な交流だが」と書いているものの、実際にこんな店主と客のやりとりがジャズ喫茶であるはずがない。ここは眉にツバをつけて読んだほうがいいだろう。ジャズ喫茶に関しては彼には前科があるからだ。

それは彼の著書『スイングジャーナル青春録 大阪編』(径書房・1998年)に出てくる、大阪のジャズ喫茶「ムルソー」店主の東司丘興一が、店でかかっていたフリージャズがうるさいと怒った客に店の裏の運河に投げ込まれるというエピソードのことだ。

村井康司の『ジャズ喫茶に花束を』(河出書房新社・2002年)に収められた東司丘へのインタビューによると、客と大声で口論になって大騒ぎになったところまでは事実だが、店の裏の「川っぷちまで」出て行っただけで実際に東司丘が川に落ちたことはなかったという。

しかし東司丘が中山に「ここは放り込まれたことにしたほうがおもろいでえ」と助言したら、本当に中山がそう書いてしまったのだという。

「アイ・リメンバー・クリフォード」の作り話で初心者に向けてジャズ喫茶の敷居の高さをあげつらって怯えさせた中山だが、同じ本の「ジャズ道入門予習編」では、「ジャズ喫茶活用法」として、ジャズ喫茶を読者に勧める次のような一文を書いている。

しかしジャズ喫茶を利用しない手はない。というのも「ジャズを聴く」ということでいえば、時代が変わろうとも、やはりジャズ喫茶ほど適した場所はない。

一杯のコーヒーだけで、聴きたいジャズを、しかも高価なオーディオ、大きな音量で、好きなだけ聴いていられる。誰からも文句はいわれない。

どう考えても、世の中にこれほどすばらしい場所はないのではないか。ジャズ道への近道、それがジャズ喫茶といっても過言ではない。

たしかに「暗い」「こわい」といったマイナス・イメージを抱いている人もたくさんいることだろう。だがジャズ喫茶が「暗い」「こわい」といったところで、たかがしれている。

ともあれ、ジャズを聴きたいときはジャズ喫茶に行く。

時代が変わっても、そこにジャズがあるかぎり、ジャズ喫茶がジャズを吸収する場として最適の空間であることに変わりない。

ジャズ喫茶という存在の役割を言い当てたこの一節は、ジャズ喫茶に育てられたと言ってもいい境遇だった中山の本音だろう。

しかし作り話とはいえ、店主が客を「ヴァッキャロー」と怒鳴りつける様子を描き、<これがジャズ喫茶における一般的な交流だが>と書いたその筆も乾かぬうちに<誰からも文句はいわれない><だがジャズ喫茶が「暗い」「こわい」といったところで、たかがしれている>となると、あまりの毀誉褒貶に、もうたいがいにしてくださいよと問い詰めたくなるところだ。

だが、おそらく中山は悪びれもせず片目でウインクして返してくるだけだろう。

このようにジャズ喫茶が強面のジャズファンを象徴するネタとして爼上に乗せられるようになったいちばんの原因は、ジャズ喫茶マスター及びジャズ喫茶が、批判されるべきひとつの権威になったことにあるのではないかと思う。

それは、80年代の新伝承派ブームとその衰退以降、ジャズ喫茶がかつてのように最先端のジャズを追いかける場所ではなくなっていたという点が大きいだろう。

多くのマスターが50歳を過ぎ、客も40代以上の中年となり、新しいジャズは「つまらない」と背を向け、過去の音源を深堀りする傾向が強くなった。

こうして「ジャズ喫茶とは保守的なジャズオヤジの溜まり場」というイメージが形成されていったのである。

90年代などはつい最近のように思えるのだが、実際には今日に至るまでに30 年近い歳月が過ぎている。

この30年間に「ジャズ喫茶=ジャズオヤジ」という像が新たに造り出され、それゆえに反発したり敬遠するジャズファンが生まれたのだと思う。

そしてそういう人たちにとって、マイク・モラスキーによる本書の第3 章は、彼らのジャズ喫茶観をより強固に生成する資料としての役割を果たしているのではないかという気がする。

確かに90年代以降のジャズ喫茶には、古い価値観にしがみついている部分や新しいものを認めようとしない頑なさというものがあると私も思う。

しかしその一方では、いまだに新譜に関心を示すジャズ喫茶マスターも少なくない。面白いことに、そういうマスターは70歳を超えた、かつての新譜至上主義だった時代のジャズ喫茶の洗礼を受けた世代に多い。

むしろ90年代の「ジャズ喫茶オヤジブーム」の影響を強く受けた世代の方が、現代ジャズよりも50-70年代のものが中心ということが多いようだ。

ただ、50-70年代のものが中心だからといって、『ジャズ喫茶論』の第3章に出てくるような「客に説教するウルサイオヤジマスター」がどこにでもいるのかというと、そんなクレイジーな人物はまずいない。これは今あるジャズ喫茶やジャズバーで実際に体験していただければすぐにわかることだ。

そしてこれは今も昔も変わらないと思うが、そもそもジャズ喫茶マスターが客のジャズ観や音楽観に踏み込んでくることは、かなりの常連にでもならない限りない。

そういうリスクの高い行為は避けるのがサービス業の鉄則であり、ジャズ喫茶も例外ではない。剣呑なジャズ談義が起こるとしたらそれは客同士の間でのことで、マスターは一歩引いてそれを見守るというのが通常だ。

また、悪名高い「会話禁止」のルールにしても、ジャズ喫茶店主が一方的に客に押しつけたものではない。

このルールを全国的に広めた東京・新宿「DIG」の中平穂積によると、もともとは会話自由だったのだが、客同士による「静かにしろ」云々の喧嘩が頻繁に起こるため、やむなく禁止のルールを設けたのだという。このことは本書『ジャズ喫茶論』にも書かれている。

ここまで、90年代以降になって「ジャズ喫茶は保守的な空間」というイメージが形成されていったことを述べてきたが、そのイメージをもとに60-70年代のジャズ喫茶が、現在よりもさらに古くさく保守的で厳格で、それは禅寺もしくは学校のような禁欲的な空間であり、新興宗教の教祖のようなマスターが若者たちに自分の思いどおりの教育を徹底的に施したとするのは、判断のプロセスを誤っていると思う。

まず、60-70年代のジャズ喫茶は、マスターも客も若かったということを忘れてはいけないだろう。

中平穂積が「DIG」を1962年に開業したときは25歳だった。後藤雅洋が1967年に「いーぐる」を開業したときは20歳。京都の「ラッシュライフ」の茶木哲也(旧姓加藤)に至っては、前身の「シュガーヒル」を1966年に開業したときは18歳だった。

このように60-70年代のジャズ喫茶店主は20代が多く、70年代半ばに開業したある地方のジャズ喫茶マスターが「30過ぎて店を始めるのは遅いと言われました」と私に語ってくれたこともある。

当時、年配のオヤジさんが経営しているジャズ喫茶で知られた店といえば横浜「ちぐさ」、上野「イトウ」、新宿「木馬」、渋谷「スイング」、「デュエット」といったところだろう。

スイングジャーナル社が1966年に読者5,000人を対象に行ったアンケート調査(『1966年臨時増刊モダン・ジャズ百科』所収)によると、当時のジャズ喫茶の客は10代後半から25歳までが約7割を占め、30 代以上はわずか1 割程度だった。つまり、マスターも客も若いので、「ジャズオヤジVS若者」という構図がそもそも成立しないのだ。

また、これだけ歳が近いと、学校や禅寺のような師弟関係が生まれるだろうか。

当時の客はいわゆる団塊世代にあたるわけだが、彼らは戦前の封建的な家父長制度を忌み嫌い、その名残を徹底的に排除した世代だ。自分たちの頭を抑えつけてくるものに対しては猛烈に反発した彼らが、東洋の儒教的な師弟制度をすんなり受け入れたかというと、そこは大いに疑問がある。

そして、いまでこそ、5,000枚以上のコレクションを持つジャズ喫茶は珍しくなく、何十年もジャズを聴いてきた60過ぎのマスターと20代の若者とでは圧倒的な知識量の差があるが、60-70年代当時のジャズ喫茶は、レコードコレクションも1000〜2000枚程度が平均で、1000枚以下もまったく珍しくはなかった(後藤雅洋が「いーぐる」を開業したときの所有枚数はわずかに400枚)。

当時はマスターも客も、次々とやってくる新しいジャズのトレンドの中で手探りの状態で新譜を買い求め、それをリクエストしていたわけで、こうした情報共有空間におけるマスターと客との関係は、師匠から弟子への知識の伝授を前提とする一方的な関係とは性質の異なるものではなかっただろうか。

特に60年代のジャズ喫茶の場合、客の一番の目的はリクエストだった。

聴きたいレコードを聴くため、または探すためにジャズ喫茶にやってきた。このため、ほとんどの客がリクエストを申請し、マスターはそれに応じなければならなかった。

今とは違って当時のジャズ喫茶には客がたくさんいたので、仮に2時間にレコード片面を5、6枚かけるとすると、そのうちの3、4枚は客のリクエスト盤でないと消化できなかっただろう。

もし当時のジャズ喫茶マスターが自分をジャズの師匠とし、客は己のジャズ道へ導く弟子であると考えたなら、そもそも未熟な弟子のリクエストに応じるだろうか。

弟子には有無を言わさず、俺のジャズを聴いて学べとばかりに2時間全部、自分が選んだレコードを聴かせ続けたのではないだろうか。

当時のマスターがそうしなかったのは、まずは顧客第一で、客の聴きたいものを聴かせるのがジャズ喫茶であると心得ていたからではないだろうか。

このように客の求めに応じることを第一の業務としていたジャズ喫茶が、はたして厳格で抑圧的な<学校>や<寺>であったと言えるのだろうか?

もちろん、ジャズ喫茶マスターが客に教えたことはあった。

たとえば、ある特定のジャズメンが好きとわかった客に対しては、そのジャズメンの異なる面を見せているレコードをかけるとか、その客の知識にさらに広がりを持たせるようなレコードをかけるというもので、そのときの客に合わせて選盤に何らかの意味を持たせるというやり方だ。

そしてその教授方法はあくまでもレコードを通してであり、わかる者にはわかるという、間接的でさりげないものだった。

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