『ジャズ喫茶論』の読み方、読まれ方

「硬派なジャズ喫茶」の真実
マイク・モラスキーが指摘するような「硬派なジャズ喫茶」は、60-70年代にはほとんどなかったはずだと私は推測する。
なぜなら、まず60-70年代のジャズ喫茶の大多数は、マスターと客が直接やりとりをする機会が極めて少ないシステムになっていたからだ。
都会、地方に関係なく、当時のジャズ喫茶は、マスター1人とウェイトレス1〜2名という体制で営業をしている店が大半であった。
そして客からの注文取りや客への給仕はウェイトレスが行なった。客のリクエストもウェイトレスが応対をした。リクエストをしたい客は店に備えつけのリクエスト用紙に記入してウェイトレスに渡すか、リクエスト用紙のない場合は、ウェイトレスに耳打ちをして伝えた。帰る時のレジでの会計もウェイトレスが行なった。
店によってはウェイトレスではなく男性アルバイトの場合もあったが、いずれにしても、当時のジャズ喫茶では、客とマスターが直接会話をする機会は極めてまれだった。
客数が少なくなり、アルバイトを雇う余裕のなくなる80年代末までは、多くのジャズ喫茶はこういう営業スタイルだった。
つまり、マスターが客に指導したり、説教をする機会は、60-70年代のジャズ喫茶にはほとんどなかったのである。
3年どころではなく、何年通ってもマスターと会話を交わすことはほとんどないというのが昔のジャズ喫茶だった。
実際、私は1979年から1990年まで吉祥寺に住んでいたきには、ほぼ毎週「メグ」「A&F」「ファミリー」に通ったが、10年通ってもこの3軒のマスターと言葉を交わしたことは一度もなかった。
そして一度も会話をしたことがないということは、指導も説教も一度もされたことがないということだ。
「ファミリー」は店名の通り家庭的な雰囲気の会話も自由にできる店だったが、「メグ」と「A&F」は会話不可の「硬派なジャズ喫茶」といっていいだろう。そしてこういう硬派なジャズ喫茶ほど、ウェイトレスがいてマスターとは直接話ができない形態になっていた。
もっと言えば、当時の硬派なジャズ喫茶のマスターは、客との接触は極力避けていたのではないかとすら思えてくる。
いつもカウンターの奥で黙って座っているというのが、その頃のジャズ喫茶マスターのイメージだ。客の入店から退店まで、一度も愛想をふりまかなくてもいいようなシステムを作り上げていたのである。
マスターが客を叱るときがあるとすれば、それはウェイトレスが再三注意しても大きな声での会話をやめない、酔っぱらって醜態を晒す、触ってはいけない店のものに勝手に触るといったときぐらいだろう。
ジャズ喫茶のことをよく知らない若い人がときどき「リクエストをするとマスターに怒られるかも」といった心配をすることがあるが、そういうシステムなので、客のリクエストにマスターが難癖をつけるということはほとんどなかった。
むしろ「硬派なジャズ喫茶」ほど、マスターと客がジャズ談義を交わす機会はないのだ。
あるとすれば、かかっているレコードのジャケットを手に取った客がマスターに感想や質問を二言、三言交わすやりとりぐらいだろう。その際に客が知ったかぶりの知識をひけらかすようなことがあれば、マスターからは冷たい反応が返ってきたかもしれないが。
いずれにしても、よほどの馴染みでない限り、マスターの側からすすんで客に話しかけるということは、「硬派なジャズ喫茶」の場合はほとんどなかった。もしかするとかつての「硬派なジャズ喫茶」のマスターは、接客は自分の仕事ではないと考えていたのかもしれない。珈琲1杯でレコードとオーディオを提供すればそれで十分だろうということだ。
硬派なジャズ喫茶ほど、マスターと客、そして客と客とのコミュニケーションは薄かった。このことはモラスキーも認めている。
言い換えれば、どんなに「濃い」雰囲気を醸し出す硬派の店であろうと、ジャズ喫茶は<社交性>の薄い場である、ということができよう。あるいは、店内の雰囲気が濃ければ濃いほど社交性が薄い、と言うべきかもしれない。(『ジャズ喫茶論』第3章「ジャズ喫茶人」p83より引用)
だから、そのような社交性の薄い場で、果たして「感化されやすい若者たちを閉鎖的な空間に押し込め、自信たっぷりの、個性の強いマスターのお説教にしょっちゅうさらすという状況」が成立したのか、私はかなり疑問に思うのだ。
ただし、客足がめっきり少なくなった2000年代以降になってからは、マスターと客の会話の機会は多くなったと思う。つまり、客をかまってあげられるだけの余裕ができた、ヒマになったということだ。
60-70年代のジャズ喫茶はいつも混んでいた。4人掛けのボックス席で見ず知らずの4人が相席するということが通常だった。これだけ忙しいと、マスターは厨房作業やレコードを回すことに忙しく、客に指導をしたり、説教する時間も余裕もなかった。
最近ではマスターから客に「何かリクエストありませんか?」と話しかけることがごく普通になっているようだが、昔の「硬派なジャズ喫茶」を知る者からすると、まことに隔世の感がある。
慣れていない客の場合は、マスターから声をかけられると警戒してしまうだろうが、ここでマスターが説教を垂れるということはほとんどない。
これは多数のジャズ喫茶マスターに取材をして実感として私の中にあることなのだが、どのマスターも客に対しては店員としての分をわきまえていることがほとんどだ。
かなり名の知られた重鎮クラスのマスターでも、客に対しては慇懃で、傲慢な応対は皆無だ。ただし、ある地方のジャズ喫茶の温厚な人柄で知られる70過ぎのマスターが、「たまにウンチクぶったことを言われるとちょっと意地悪を言いたくなりますねえ」と話してくれたこともあるが。
マスターが語気を荒げることがあるとすれば、スタッフや同業者、身内と言ってもいいほどに慣れ親しんだ客に対してのみだろう。
これはジャズ喫茶に限ったことではなくサービス業全般に言えることだが、心を許した「身内」と、そうではない一般客——「部外者」との間には、目には見えない一線を引いて接する人たちが大半である。
いずれにせよ、本書で挙げられた京都のマスターの客を客とも思わない応対は噴飯もので、ああいう態度に共感するジャズ喫茶マスターなどいないだろう。私もジャズ喫茶で少し働いたこともあるのでわかるのだが、目の前の客からお金をいただく商売をやっていると、客に対して尊大な態度はどうしても取れなくなるものだ。
そして、商売をやっている人間というのは、本質的に、客に喜んでほしいものなのだ。これはサービス業に従事している人間の性質といってもいいだろう。それゆえに、客に対して専横的に振る舞い、マインドコントロールを図ろうとまでするジャズ喫茶店主が本当にいたのかどうか。私にはどうしてもそうは信じられないのである。
また、モラスキーが本書で引用している日本文化研究者デルシュミットの論文によると、60年代のジャズ喫茶は「アルコール類の飲み物を出さない禁欲的趣向」と分析されており、60年代のジャズ喫茶が禁欲的だったと説明する論拠として挙げられることがあるが、これは日本の喫茶店の営業形態についての誤解から生まれたものだと思う。
昔も今もジャズ喫茶の大半はビールを始めアルコール類の飲み物は出している。1952年から53年にかけて営業していたモダンジャズ喫茶の草分け、新橋の「オニックス」では焼酎ベースの「オニックス・フィズ」が人気だったと当時のウェイトレスが述懐している。ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶になったのか(3ページ参照)
それでも大半のジャズ喫茶で客がコーヒーを飲んでいたのは、アルコール類よりも安かったからという客の経済的な事情によるところが大きい。
アルコール類を出さなったジャズ喫茶といえば、上野の「イトウ」や横浜の「ちぐさ」が有名だ。どちらも戦前から営業している店で、年配のマスターは「ジャズ道の師匠」に見えなくもなかった(筆者注:『イトウ』は戦前は『アメリカ茶房』という名で営業していた)。
しかしこの2店がアルコール類を出さなかったのは、「厳格なジャズ道」とは違った理由があった。
「イトウ」も「ちぐさ」も開業して以来、ずっと「純喫茶」の看板を掲げたてきた喫茶店である。
「純喫茶」というジャンルもジャズ喫茶と同様に日本固有のもので、これは「アルコール類は出さない、純粋に喫茶のみの店」ということだ。
そして、戦前から現在に至るまで、「カフェ」と「喫茶店(純喫茶)」には、食品衛生法上の違いがある。
食品衛生法では、飲食店の許可には「飲食店営業許可」と「喫茶店営業許可」の2種類がある。
「カフェ」とは、アルコール類の飲料の提供や加熱以外の調理も行うことのできる「飲食店営業許可」の認可を得た店であり、「喫茶店」とは、アルコール類以外の飲料と茶菓などの提供に限られる「喫茶店営業許可」の認可を得たものだ。
われわれは何気なく「カフェ」と「喫茶店」を同じものとみなしがちだが、両者には食品衛生法による区別があるということだ。
「ちぐさ」と「イトウ」が飲食店営業許可を取得していたかどうか、私は知らないが、「ちぐさ」の場合は開業当初から横浜の喫茶店組合を組織していたことや、「イトウ」は正式には「イトウコーヒー店」という屋号であったこと、両店ともに料理メニューがなかったことを考えると、どちらも「喫茶店営業許可」に区分される店だったのだろう(筆者注:吉田店主の死後、移転して社団法人により2012年から営業再開した現在の『ちぐさ』はアルコール類も提供している)。
つまり、「イトウ」や「ちぐさ」は、わざと酒を出さなかったのではなく、食品衛生法上の理由により酒は出せなかった、ということなのだ。
ジャズ喫茶でもアルコール類や飲食メニューを普通に扱うようになった70年代以降も両店主が飲食店営業許可を取らなかったのは、酔客相手の商売をしたくなかったという理由がおそらくあったのだろう。
そういう意味では禁欲的と言えなくもないが、それは長年続けてきた商売のやり方を変える必然性がなかっただけであり、それをまるでわざとアルコール類を出さなかったとするのは、誇張だろう。
50年代から60年代にかけて営業していたジャズ喫茶の中には「純喫茶」から転じた店が少なくなく、デルシュミットによる「60年代のジャズ喫茶はアルコール類の飲み物を出さない禁欲的趣向だった」という分析は、日本固有の食品衛生法上による区分という要件を見落としていたのだと思われる。
さらに言えば、もしアルコール類を出さないことが禁欲的であるなら、かつて日本全国に多数あった純喫茶も禁欲的な場所ということになってしまうが、それは喫茶という娯楽、生活様式、文化に対する誤解と言っていいだろう。
60年代のジャズ喫茶が決して禁欲的な空間ではなかったことを示す資料を一つここに挙げる。これは『スイングジャーナル』の1967年5月号に掲載された「うちの看板娘」という、ジャズ喫茶のウェイトレスにスポットを当てた記事だ。前後の脈絡はなく、唐突に見開き2ページで登場している。

掲載店は東京・中野「サンジェルマン」、東京・駒込「ジャズ・ギャラリー」、東京・新宿「汀」、東京・吉祥寺「ファンキー」、東京・池袋「ファニー」、東京・中野「ローン」の6店。いずれもこのころの同誌に毎月出稿しているジャズ喫茶で、おそらくこれはクライアントへのサービス的な意味合いを持ったタイアップ記事だろう。
いずれの店も特別に「硬派な店」という評判のあったわけではないが、かといって「軟派」というわけでもなく、60年代のジャズ喫茶の中では標準的なスタイルの店といっていいだろう(『ローン』はのちに同じ中野で移転してJBLパラゴンで知られたジャズ喫茶『ビアズレー』となる)。そして、ウェイトレスのいる普通の喫茶店とあまり変わりのない雰囲気だ。
同誌がこのようにジャズ喫茶のウェイトレスに焦点を当てたのはおそらくこの記事が初めてだと思うが、この後、同誌ではごくたまに「ジャズ喫茶女子」的な切り口の記事が登場している。
まず、見開きの一番左端に掲載されている「サンジェルマン」の三田村さんへの取材記事を読むと、私自身にも覚えのあることで苦笑してしまう。
高校生のとき、友達と渋谷のジャズ喫茶に入ったのが縁で7年。好きなプレイヤーはロリンズ、ホーキンス、ミンガスなど男性的なのにシビレちゃうそうだ。リストにないレコードをわざとリクエストする人は嫌い。小さなお店で皆んなで聞くことをわきまえてくれる人が好きと1にも2にもお店第1主義。どうりで! マスターとはアツアツの新婚さん〝シアワセだなあー〟
「リストにないレコードをわざとリクエストする人は嫌い」とあるが、私も学生時代は、わざとそういうリクエストしたことが度々ある。
そのレコードが店にない場合は、ウェイトレスが自分の席にやってきて「申し訳ありません」と丁寧にあやまってくれるのだ。そしてまた新たなリクエストをお願いする。そのぶん、ウェイトレスと話をする機会が増えるというわけだ。付け加えておくと、私はリストに載っていないものをリクエストするといった迷惑なことはしない。リストにはあるが、たぶんもう店には置いていないだろうなというものに目星を付けるのである(収納スペースなどの物理的な理由により、かける頻度の低いレコードは店の棚から引きあげている店はよくある)。
私が通っていたのはいわゆる「硬派」で定評のある店だったが、こうしたヨコシマな目的でやってくる客もいるのだ。そしてどうやらそんな邪悪な客は特別な存在でもなかったようで、モラスキーも本書で次のように書いている。
そして単なる暇つぶしやファッション感覚で来ているでもないのに、毎日欠かさず同じジャズ喫茶に通ってくる客がいる。彼らはだいたい気に入っているウエイトレス(またはウエーター)を狙っている。しかも意外に、そのような客の話を聞いたのは、主に私語禁止など厳格な硬派ジャズ喫茶であった。上述の「ポルシェ」で何人かの客とウエイトレスが出会い、後に結婚したそうである。
これは本書の第3章「ジャズ喫茶人」の中の「出会い系サイトとしてのジャズ喫茶」という項目で書かれていることだ。ここに紹介するスイングジャーナルの記事を見ても、昔のジャズ喫茶には異性との出会いの場としての一面もあったことがよくうかがえる。
「サンジェルマン」の右隣の「ジャズ・ギャラリー」の大野さんへの取材記事も興味深い。
〝エッちゃんテレないで! もっといい顔して〟とまわりから声がかかる。〝昼間は高校生ばかりなんですよ〟とカウンターの中で囲まれてご満悦そうなお嬢さん。ジャズ歴6年。〝ジャズのことから皆さんの人生相談まで承ります〟がこの店での仕事。お酒と山登りがジャズ以外に好きなこと。〝じゃ男性は?〟男の子よりお店を一軒持ちたいときっぱり言い切ったアネゴハダでした。
校則が格段に厳しくなってしまった今では想像のできないことかもしれないが、「昼間は高校生ばかり」というところは興味深い。
写真の客もおそらく高校生だろう。彼らは放課後ジャズ喫茶にやってきて歳上のお姉さんと会話をしながら大人の気分を背伸びして味わっていたに違いない。
そして「ジャズ・ギャラリー」の右隣の新宿の「汀」は、50年代後半にオープンした店でこの中では一番古い。その前身は戦前、渋谷で営業していた「デューク」というジャズ喫茶で、戦後になってからしばらくは新宿で「ブラウンスウィック」という店名で営業していたようだ。先進思想家や芸術家、映画関係者、作家などが常連に多く、平岡正明と馴染みが深かったことでも知られる。
〝今のジャズ・ファンはムードが好きなのかしら〟と入店以来6年目になる経験からみた厳しいお叱りの言葉。黒人文学、詩、芸術を愛する彼女の夢はジャズ評論家になること。この店のレコード買入選定も全部引き受けているというから女性というより女史に近い。ジャズを前向きの姿勢で熱心に勉強したい人なら誰でも教えてくれるという。ただし彼女の勤務時間は夕方5時まで。
見開き右ページの3軒の記事は取材者の文面があまりにもジャズとは関係なく他愛ないものなので、ここでの書き起しは控えておく。
こういう企画記事には女性を商品化している点が間違いなくあると思うが、60年代のひたすら禁欲的というわけではなかったジャズ喫茶の雰囲気が伝わってくるものだと思う。
もうひとつ、次の広告を見ていただこう。これは吉祥寺の「メグ」が新しくスピーカーを購入した時のものだ。スイングジャーナル1971年8月号。

当時の「メグ」は「ジャズ道場」をキャッチフレーズとしていたが、スタッフらしき女性たちをシューティングしたこの広告からは「うちの看板娘に会い来てください」という、集客のための軟派なメッセージが読みとれる。
60年代から70年代にかけてのジャズ喫茶の客の大半は10代後半から20代半ばの独身男性で、30代以上の客はかなり少なかった。当然、異性を意識する客も多くなるし、そこを集客の狙いどころとする店もあった。
このような空間を禁欲的な<学校>とか<寺>と比喩することがはたして適切なのかは、やはり疑問の余地があるところだ。
(次ページへ続く)

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