ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶となったのか

ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶となったのか

 混沌とするジャズ喫茶

先に挙げた『アサヒグラフ』のジャズ喫茶特集より1年ほど経た1955年には、「ジャズ喫茶」が当時の若年インテリ層の興味をひく風俗となっていたことを示す資料がある。河出書房の月刊総合誌『知性』の1955年5月号に掲載された「近ごろ東京ジャズ喫茶みてある記」という記事だ。

『知性』1955年5月号
『知性』1955年5月号(河出書房)「近ごろ東京ジャズ喫茶みてある記」岡部冬彦

三木清、豊島与志雄、中島健蔵を編集顧問に1938年に創刊、三木清の「哲学ノート」などを連載して知識人、教養人の支持を得ていた『知性』は、戦時中の一時休刊を経て1957年まで発行され、戦後は高学歴層、なかでも20代の社会人をコアターゲットに政治、社会、文芸、アート、スポーツ、娯楽までを幅広く取り上げる総合雑誌として展開していた。

4ページにわたるこの「ジャズ喫茶みてある記」を取材、執筆したのは漫画家の岡部冬彦。当時32歳で読者よりもやや歳上の兄貴的な存在の彼が、最新の若者風俗を覗いて冷やかすという趣向だ。

記事の書き出しは、銀座「テネシー」らしき店のバブル人気にふれたところから始まる。

ナマのジャズを聞きたいが、キャバレーやナイトクラブへ行くんじゃゼニがかかってしょうがない。ジャズコン(サートは略す)はいつでもやってるわけではない、という若きジャズファンをネラって金もうけを企んださる御仁が、西銀座にナマのジャズ演奏つきの喫茶店を開いたところ、これが大当りで笑いが止まらないくらいの入り、そこであちこちにジャズ喫茶なるものが続出した。普通の喫茶店なら五六十円のコーヒーが百円というのが通り相場、四五十円がジャズの聞き賃というわけだが、ネバれば開店から夜中までブンチャカ、ブンチャカを聞けるから決してお高くはない。(中略)その上、通なる人にいわせれば、ホールやキャバレーなどでは聞けないリアルジャズをやるのでコタエられないんだそうである。コマーシャルジャズとは踊れるジャズ、リアルジャズとは踊れないジャズというくらいしか知らない当方としては、何がコタえられないのか判然としないがとにかく行ってみようではないか、ということになったのである。

「コマーシャルジャズとは踊れるジャズ、リアルジャズとは踊れないジャズ」という岡部の言い回しの鋭さに驚かされるが、ここから岡部は、1日をかけて新宿東口の武蔵野館の裏手の「グランド春」、銀座・みゆき通りの「白馬車」、東銀座・旧三原橋近くの「ブルーシャトウ」の三軒をまわる。いずれも初訪問のようだ。

新宿の「グランド春」は、1階がキャバレー、2階がナイトクラブ、3階がミュージックサロン、4階がビアガーデンという大きな建物で、ジャズの生演奏をやっていたのは3階のミュージックサロンだった。

岡部によると日劇小劇場ぐらいの大きなハコで450席ぐらいはありそうだという。しかし岡部が訪れた日はわずか6人程度という客の入りだった。

店のボーイが「エへヘ雨の日はどうも」といいわけをするが、入りの悪い原因はそれだけではなかったようだ。この日、ステージで演奏していたのは秋吉敏子。サックス、ベース、ドラムスを従えたカルテットだった。

岡部が取材前に事情通に聞いた話によると、新宿は他の盛り場と比べると「進歩的」で、保守的な銀座、新橋とはずいぶん客層が違っているらしく、岡部も「プログレッシブなスタイルの演奏」を期待していたようだ。

この日の秋吉敏子カルテットのようなシリアスなモダン・ジャズは、ライブを聞かせる当時のジャズ喫茶の中では異質だったようで、岡部の調べによると、「グランド春」でも別の日にはバッキー白片とアロハ・ハワイアンズなどが出演していた。

岡部が訪れたときも、店に来ていた他の客たちは「黒いスカートに赤いブラウス、ポニーテールのハーフの女の子」といった様子で、どうもこの秋吉敏子カルテットだけが場違いにモダンだったようだ。

マイルス・デイヴィスの何とやら、誰とかのザッツ・ウェル(筆者注:おそらくリチャード・ロジャース作曲の『ゾウ・スウェル』)などとホンマのジャズを次から次へと、広さと人数に比べて気の毒になるくらいの熱演であるが、こちらは後の方の暗いところにいるホモらしき男の二人づれが気にかかってしかたがない。

「ではこのセットの終わりに誰とやらの何とやら」ズダズダパッパーと終わると楽士さんの二三人はカウンターで水飲んだり、お客の机に来たりである。お客が友達であり、役者もまた「ヤァヤァ」の仲間であるところが他にない気安さ、親近感があり、むずかしくいえばとかく封建的になりやすい芸人の中ではジャズ屋は明るく、それだけ若い世代に好まれるのであろう。

それにしてもこの入りでは商売にならない。

「秋吉さんはジャズしかやらないのでよくクラブを首になった。仕事があまりなく、あっちこっちで演奏したが、結局仕事がなくなり、解散したり、また一緒に演奏したりのくり返しだった」。これは、1951年、高校を卒業するなり宇都宮から上京し、1953年に秋吉のグループ「コージー・カルテット」に誘われた渡辺貞夫の言葉である(『ぼく自身のためのジャズ』渡辺貞夫著、岩浪洋三編、荒地出版社より)。

同書を編集した岩浪洋三は、四国・松山に住んでいた学生時代から秋吉と文通し、東京に訪ねたときには秋吉グループの公演をずっと追いかけていて、1954年の夏に秋吉を通して渡辺貞夫を紹介された。

岩浪は同書で「コージー・クァルテットの演奏は、ビ・バップから抜け出たものであり、マイルス・デヴィス九重奏団による『クールの誕生』やMJQの一連の演奏に注目し、グループ・サウンドの重要性をしきりに説いていた」と書いている。

岡部冬彦の「グランド春」の描写は、当時最先端のモダン・ジャズと格闘していた秋吉敏子が置かれていた状況をよく伝えるものだ。

秋吉敏子の「コージー・カルテット」は1956年3月に秋吉がバークリー音楽留学するまでは彼女がリーダーで、秋吉の渡米後は渡辺貞夫が引き継ぎ、ピアニストに新人の八木正生を迎えて58年まで活動を続けた。渡辺貞夫が率いるコージー・カルテットもまた、秋吉のスピリッツをそのまま継承するものだった。

秋吉さんが渡米して、自分でバンドをもった時は、みんなに給料を払うと、月に千五百円くらいしか残らなかった。バンド・リーダーのつらいところだが、それでもポピュラーはやらないで、ジャズだけをやっていた。それでよくクラブを首になった。流行歌は絶対やらないし、お客がリクエストしても演奏しないから、首になるのが当然だった。だから質屋にもよく行った。渋谷のM&Wで演奏していた頃は、一晩やって百円か三百円にしかならなかった。ほんとうにあの頃はコッペパンやコロッケパンを買って暮していた。

『ぼく自身のためのジャズ』(渡辺貞夫著、岩浪洋三編、荒地出版社より)

当時のジャズ喫茶のコーヒー1杯の値段が百円程度だったから、一晩のギャラが百円か三百円というのは相当にキツい。

1955年に岡部冬彦が新宿東口の「グランド春」で見たときには、渡辺貞夫もいたかもしれない。だが記事には秋吉以外のミュージシャンの名前が出てこないので詳細はわからない。この頃の渡辺貞夫はまだ一般には無名といっていい存在だった。

「グランド春」を後にして岡部は銀座へと向かい、「白馬車」「ブルーシャトゥ」の2軒を訪ねる。

「白馬車」は文芸春秋新社の社屋の前の6階建てビルを改造したもので、「ビルの全面を丸く凹んだ白黒のタイルではりつめ、一枚のガラスドアが入り口、その両側にはロココ風のブロンズの彫刻をおっ立て、その前に人影立つやと見ると月給一万五千円(ぐらいは払ってるのがこのごろの純喫茶ではアタリマエ)の美少女がサッとばかりに扉を開ける。すぐ百円ナリのコーヒーを買わされるところはジャズ喫茶ナミのエゲツなさだが、その他はたいしたもの、藤色サテンをはりつめた壁、ウラに電燈をしかけたルイ王朝風のスティンドグラスetcであるからまずジャズ喫茶としてはトップクラスであろう。中二階と二階の間にある張り出し(一・七五階ぐらいの見当)ではボソボソとヴァイオリンを弾き、アコをなぜ、御婦人が唄っとるが、来ているお客も商談、要談、銀ブラアベックの休憩で音楽を聞いているのは一人もいない。目下は三階までだが、それでもエレベーターがあり、夏頃には六階まで喫茶店になるという。

戦後まもなく銀座に一流ナイトクラブの「銀馬車」そして「金馬車」がオープンするが、これらは戦前に日本最初期の大型ダンスホールとして知られた「ボールルーム・フロリダ」の支配人津田又太郎が経営する店で、「白馬車」というネーミングはそれにあやかったものだろう。この店の経営者も津田だったのかはわからない。店名も造りもゴージャスだが、クラブではなく、喫茶店であったところがこの時代を反映している。

『東京下町JAZZ通り』(一季出版)で林順信はこの〝超豪華音楽喫茶「白馬車」〟について次のように書いているが、たしかに「白馬車」は、ジャズ喫茶というよりもタンゴを聴かせる喫茶店として知られている。

約10センチ四方の真白い花模様の化粧板で六階すべてを飾り、内部は地下一階から四階まで中央部を吹き抜けとして舞台がせり上がり、下りるという凝りように、さすがの銀座っ子も度肝を抜かれた。桜井潔とか早川慎平などポピュラー音楽のナマを聴きながらコーヒーをすするという趣向。藤沢蘭子などがタンゴを歌っていた。

店の雰囲気にあまり馴染めなかったらしい岡部は、「白馬車」をあとにして東銀座の「ブルーシャトウ」に向かう。

「ロマンス・キャンドル・ジャズ喫茶」と銘うったブルーシャトォの場所は、ちょうど昔の三十間掘の水中あたり、掘の埋立地の地下室だからである。百円のコーヒーはどこでものキマリだが、二人二百円、三人、四人は二百円で買わされるローソクが燃えつきるまでが一時間、これが当店独特のシカケになっておる。ヒルマはサービスデイで六時までは消えない大ローソク、平服のGIらしき毛唐もまざった二十歳位の男女で、ザッと三分の二の入り(後略)」

岡部が訪ねたときに出演していたのは、お揃いのスーツを着たハワイアン・バンドだった。

「サァ私たちも大分このステージから皆さまと親しくなったようですから、次に変わった曲をお聞かせいたしましょう。椰子の葉をぬって紺ペキの青空から響いて来るチャペルの鐘の音をスティールでお聞かせする曲。キンコンお昼ですヨ。カンコンさぁ夜ですヨ、お休みなさい。あの皆さまよく御存知のベルの音をテーマにしたマウイ地方の曲です。ではマウイ・チャイムス!!」

さすが、ここの拍手はお客の自発的拍手、MC(司会者)が「次にリクェストありませんか」というと「ジョニイギター!!」「マンボやってぇ」「スイートラニー」とおにぎやかなこと。隣りの机の二十才前あたりの女の子四人連れのところにボーイが来る。

「ミルクお使いになりまして?」

「ウン、だけど足りなかったワ」

「ハッ、沢山ございますからすぐもって参ります。お隣りの方はお連れさまですか?」

「アーラやだワ、オトコノコなんか連れちゃいないワヨ」

オトコノコなる当方は、全く聞こえなかったような顔をして、ステージを眺めざるをえない。

「スローなものが続きましたから、次になにかヤキヤキするような早くてにぎやかなものをどうぞ」

「タファファイ」とすかさず声がかかり、「OK、ハワィアンウオーチャントですネ。レッツゴー、タファファィ!!」

かくのごとく、やきやきするのがジャズ喫茶店の本領なんだろうが、三軒まわったあげく、コーヒーの一番うまかったのが新宿、一番量の多かったのが銀座、一番濃かったのが三十間掘のブルーシャトーということだけしか断言できなかった。

ここで岡部の「ジャズ喫茶みてある記」は終わる。結びの一節を読むかぎりでは、当世人気のジャズ喫茶は、岡部の心をとらえることはなかったようだ。

「ヤキヤキするような早くてにぎやかなもの」とはHot Jazzあたりから生まれたフレーズだろうか。いずれにしても、モダン・ジャズしかやろうとしなかった秋吉敏子や渡辺貞夫が不遇をかこつたことも、この岡部のレポートを読むとそれなりに想像がつく。

岡部が取り上げた「ジャズ喫茶」が、この当時世間一般に認識されていた「ジャズ喫茶」の姿なのだろう。しかしそのいっぽうで、現代のジャズ喫茶へとつながるスタイルを備えた店もこの頃から生まれていた。

(次のページへ続く)

「ジャズ喫茶案内」運営管理人。1959年生まれ。高知県出身。ジャズ喫茶初体験は18歳。ジャズライブ初体験は1978 年、 ジャズ喫茶「アルテック」(高知)でのビル・エヴァンス・トリオ。東京での出版社勤務を経て2013年、名古屋移住。jazzcity代表。

AD & Recommendations

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

A D