ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶となったのか

ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶となったのか

空前のジャズ・ブームがもたらしたもの

終戦直後の1945年8月に営業を再開した京橋の「ユタカ珈琲店」をはじめ、1940年代後半には戦前に営業をしていたジャズ喫茶が次々と復帰した。これらの店はレコードによるジャズ鑑賞を目的とする、戦前のスタイルを踏襲するものだった。

しかし、1953年に訪れた「空前のジャズブーム」によって状況が変わってくる。きっかけは1952年に突如来日して日劇で大成功を収めたジーン・クルーパ・トリオだった。

このときのジーン・クルーパ、チャーリー・ヴェンチュラ、テディ・ナポレオンによるオールスター・トリオを真似て、当時の人気ジャズメンによるスーパー・バンドを作ろうと結成されたのがジョージ川口、松本英彦、小野満、中村八大の4人からなる日本人バンド、「ビッグフォー」だった。これがジャズ・ブームの火をつけたのだ。

ビッグフォーは戦後のジャズ・ミュージシャンとしてはかつてない大衆的な人気を集め、コンサートは常に満員、ダフ屋が現れて入場料は二倍、三倍にハネ上がった。

ジョージ川口によると、当時はギャラをその場でキャッシュでもらっていたため、浅草国際劇場で公演をやったときにはポケットに入りきらないお札をステージにバラバラと落としながら演奏したという。

そんなジャズ・ブームのさなかの1953年9 月、東京・銀座に「テネシー」が開業する。「ジャズ喫茶」という名前が世間一般に広く知られるきっかけとなる店である。

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『アサヒグラフ』1954年1/27号「ジャズの音に酔う」

「テネシー」開業5カ月後の1954年の『アサヒグラフ』1月27日号には、「ジャズの音に酔う」というタイトルで同店の取材記事が見開き2ページにわたって大きく取り上げられている。高級誌だった『アサヒグラフ』が飲食店の紹介にここまで紙数をさくのはたいへん稀だ。いかに新しい風俗として注目されていたかがわかる。当時の雰囲気をよく伝えている記事の全文を以下に抜粋してみよう。

〝本邦最初のジャズ喫茶店〟と銘うったしゃれた店が東京銀座に出現——レコードでなく、生のジャズを堪能するまで楽しめるというので、ティーン・エイジャーどもが日ごと夜ごとに押しかけて門前市をなす盛況。店内にしつらえた舞台で、一流から二流どころのジャズ・バンドが三十分おきにホット・ジャズを演奏するといった仕組みになっているが、コーヒー一杯分の料金で数時間ねばり、心ゆくまでジャズに酔えるというのだから、若い人にうけるのは当然。昨年九月末の開店から、日に約千人のお客が出入りして、デフレの憂鬱などふつとばしている。数多い銀座の喫茶店のなかでも、忽ち一流どこになった。「材料を吟味して、いいものを使っているし、バンドや従業員の支払いもかさむので、その割にはもうかりません」とはいうものの、それでも店主はエビス顔でござる。

記事冒頭に〝本邦最初のジャズ喫茶店〟とあるが、前述の「ダット」の広告を除くと、「ジャズ喫茶」という言葉が印刷されたものは、この『アサヒグラフ』の記事より前のものを筆者は見たことがない。

「テネシー」の営業時間は正午から午後11時まで、店内の広さは約45坪で席数は約140。コーヒーは1杯100円、菓子1個70円で、普通の喫茶店の2倍の値段だったという。

しかし、それまで銀座の一流ナイトクラブやチケットの高い日劇や浅草国際劇場でしか聴けなかったジャズの生演奏がコーヒー1杯で聴けるというのは、たいへんな魅力だったに違いない。

「テネシー」が開店する以前、1940年代後半から朝鮮戦争特需に沸いた50年代前半までは、日本人ジャズメンは一流ナイトクラブで大いに稼いでいた。「銀馬車」をはじめ、「モンテカルロ」「クラブチェリー」「スタークラブ」「黒バラ」など、そのほとんどは銀座に集中していた。

戦後最初のトップ・ジャズバンドだった「ゲイ・セプテット」のリーダーであり、フィリピン国籍から帰化して長らく日本ジャズ界の大御所として活躍したレイモンド・コンデによると、1949年にジョージ川口を自分の楽団のメンバーに引き抜くときにはジョージに38万円もの大金を支払ったという。

当時の大卒銀行員の初任給が3,000円程度だったから、まさにケタ違いの稼ぎぶりだ。

コンデによれば「カバンにお札三千八百枚詰めた」(前出『昭和ジャズ史』より)そうだが、奇想天外な虚言を吐くことで知られるジョージ川口と違ってこの証言の信憑性は高い。

しかし、そのコンデによると、朝鮮半島で休戦協定が結ばれ、特需景気が冷えこみはじめたころから超一流クラブは「潮の引くように生バンドをエレクトーン演奏やらに取りかえ始めていた」(『昭和ジャズ史』)という。

コーヒー1杯の廉価でジャズの生演奏が聴ける「テネシー」の登場は、このような経済情勢の変化と関係していたに違いない。

モダン・ジャズ・ブーム以前、50年代の東京のジャズ喫茶を数多く取り上げている『東京下町JAZZ通り』(一季出版)の著者の一人、林順信氏によると、「テネシー」に出演していたジャズバンドは、上田輝雄とシックス・レモンズ、池田操とリズム・キング、渡辺晋とシックス・ジョーズ、鈴木章治とリズム・エース、ジョージ川口、そして若手の西条考之介とウェストライナーズ、沢田駿吾のダブル・ビーツ、八木一夫トリオなど、女性ヴォーカルはマーサ三宅、新倉美子、丸山清子などだった。

メイン司会はいソノてルヲで、サブMCの大橋巨泉はステージでバブスキャットなどで歌うこともあったらしい。黒人客もよく来ていて、彼らは通路で踊り出したり、また来日中のドラマー、J・C・ハードが飛び入りでドラムを叩いたこともあったという。

この「テネシー」に続いて「不二家ミュージック・サロン」「ACB(アシベ)」「美松」といった生演奏を聴かせる「ジャズ喫茶」が銀座に次々とオープンする。しかし、ジャズ・バンドが人気を集めていた時期は短かく、油井正一によると1954年頃からはもう下り坂になったという。

「テネシー」や「ACB」「美松」などがふたたび脚光を浴びたのは、1958年の爆発的なロカビリーブームだった。

平尾正晃やミッキー・カーティス、山下敬二郎、ジェリー藤尾らがこれらの店でロカビリーを演奏するようになっても「ジャズ喫茶」という呼び名が変わることはなく、50年代末から60年代にかけては、クレイジー・キャッツをはじめ、水原宏、坂本九、橋幸夫、森山加代子、和田アキ子、そしてザ・スパイダーズやザ・タイガースなどのGS(グループサウンズ)が出演し、芸能界への登竜門的なライブハウスとしての場へと変わっていった。

こうした「ジャズ喫茶」は、大阪「ナンバ一番」や京都「ベラミ」など全国各地にあり、客の大半がティーンエイジャーで風紀が乱れがちであったことから、不良の遊び場としてのジャズ喫茶のイメージが、この頃から世間一般の認識として強くなっていった。

アメリカのグラフィック誌『LIFE』のインターネットサイトのギャラリーに、東京オリンピックで盛り上がる1964年、「ACB」で演奏する東京ビートルズの貴重な写真がアップされているが、ロカビリー人気から復活した「ジャズ喫茶」が、もはや創業当時のジャズを聴いて楽しむ場とはかけ離れたものに変貌している様子が見事に記録として残されている。→「Teenage Wasteland :Portaits of Japanese Youth in Revolt,1964」

「テネシー」は1964年の春に、銀座から神田小川町に移転、「テネシー・モダン・ジャズ・ルーム」と名乗り、営業形態も少し変えている。午前12時から午後5時まではモダン・ジャズのレコードをかけ、その後は夜の部として専属バンドを中心に生演奏をやっていたようだ。それがいつまで続いたのかは不明。

ちなみにもう20年近い前のことだが、筆者は「テネシー」という名の銀座のクラブに一度だけ行ったことがある。八丁目あたりの、クラブがたくさん入った雑居ビルの中にある小さな店だった。ギターで弾き語りをするシンガーとフィドルやアップライト・ピアノを弾く初老のおじさんの2人によるハウスバンドがカントリー&ウエスタンの生演奏をやっていた。

常連だった知人に連れていってもらったのだが、〝友人割引〟で安くするからと言われてはいたものの、ビール小瓶1本を飲んで1時間ちょっと座ったぐらいで1万5千円ほど支払った記憶がある。古ぼけた昭和のスナックという趣の店だったが、「会長」と呼ばれていた老人の男性客がテレビのCMなどでよく知られる大企業の人だったりして、さすが銀座のクラブと感心させられた。その「テネシー」が、「銀座のジャズ喫茶テネシー」と関係があったのかどうかはわからない。

(次のページへ続く)

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