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ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶となったのか

ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶となったのか

1950年代のジャズ喫茶の雑誌広告

話を戻すと、銀座「テネシー」の成功後、「ジャズ喫茶」という言葉が当時はどのように使われていたのか、『東京下町JAZZ通り』の中で、1938年東京生まれで上野の蕎麦店「蓮玉庵」店主の喬木雀三氏は次のように書いている。

当時コーヒーを飲んでレコードを聴く喫茶店は「サテン」と呼び、「ジャズ喫茶」というのは、ジャズに限らず色々なジャンルの音楽のライブ・ステージをコーヒー1杯で鑑賞できる店のことをいった。「ジャズ喫茶」は普通の喫茶店と比較して大規模であり、有名ミュージシャンの演奏を満喫できた。

1950年代の『スイングジャーナル』に掲載されたジャズ喫茶の広告を調べてみると、「ジャズとコーヒーの店」といった類のコピーは1953年ごろから見受けられるが、「ジャズ喫茶」というコピーを印刷した広告が登場するのは1955年あたりからのようだ(それより古いものをご存知の方はぜひご教示ください)。だがその数は少なく、私が確認できているのは横浜の「ワルツ」という店ぐらいだ。

この「ワルツ」は、同じ横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」の吉田衛店主によると、100人ほどの客が収容できる規模の店で、のちの銀座「テネシー」などの珈琲1杯で昼間から生演奏を聴かせる〝ジャズ喫茶〟のスタイルのはしりのようだ。戦前、横浜随一といわれたカフェー「サクラサロン」を経営していた実業家が、伊勢佐木町にあった所有ビルの地下に開いたものだった。

「ワルツ」ではジャムセッションがよく行なわれていて、吉田店主は、のちにクレイジー・キャッツを結成する石橋エータローや安田伸をこのクラブに紹介して専属バンドのメンバーにしてもらったという(吉田衛『横浜ジャズ物語』神奈川新聞社刊より)。

明けて1956年に入ると、レコード鑑賞に重きを置いた、のちのジャズ喫茶のスタイルに近い店の広告ががぜん多くなってくる。銀座「スイング」、京橋「ユタカ珈琲店」など、1952、3年ごろから出稿していた店に加えて、新宿「ダット」、渋谷「スイング」、「バードランド」、上野「イトウコーヒー」、神田三崎町「LP」、高円寺「かぶーす」などの広告がほぼ毎号顔を見せている。これらの店は「ワルツ」や「テネシー」、「不二家ミュージック・サロン」のような、コーヒーを飲ませながら生演奏を聴かせる店ではない。

ジャズ喫茶広告1・ジャズ喫茶案内
[1950年代のジャズ喫茶雑誌広告](上)横浜「ワルツ」スイングジャーナル1955年5月号より (中)東京・上野「イトウコーヒー店」スイングジャーナル1955年5月号より (下)高円寺「かぶーす」スイングジャーナル1956年11月号より
ジャズ喫茶広告2・ジャズ喫茶案内
[1950年代のジャズ喫茶の雑誌広告](上)東京・銀座「スイング」スイングジャーナル1955年5月号より (中)東京・京橋「ユタカ珈琲店」スイングジャーナル1954年11月号より (下)東京・神田三崎町「LP」スイングジャーナル1956年11月号より
ジャズ喫茶広告3・ジャズ喫茶案内
[1950年代のジャズ喫茶の雑誌広告](上)東京・新宿「ダット」渋谷「スイング」「バードランド」1956年11月号より (下)東京・銀座「スイング」1954年11月号より

1950年代の雑誌にもジャズ喫茶特集があった

戦後、レコード鑑賞を目的とするジャズ喫茶がにわかに増えてきたのは、どうやら1955年から1956年あたりからのようだ。それを証明する記録として、『スイングジャーナル』1956年11月号に掲載された、「ジャズ喫茶きき歩き」という3ページにわたる読み物記事をここに挙げておきたい。

swingjournal19561年11月号
「ジャズ喫茶きき歩き」スイングジャーナル1956年11月号

これは、東京都内のジャズ喫茶8店の特集記事である。記事の末尾に「(広告)」とクレジットが入っていることから、編集記事ではなく、広告掲載料金の発生したタイアップ記事であることがわかる。

当サイトでは、「日本語版ダウン・ビートとジャズ喫茶『木馬』」という記事で、1963年に『日本語版ダウン・ビート』に連載されていた「ジャズ喫茶のぞきあるき」が、雑誌史上初のジャズ喫茶読み物企画ではないかとしていたが、それは誤りで、タイアップとはいえ、しっかりとしたジャズ喫茶紹介記事が、すでに50年代半ばから登場していたことになる。

『スイングジャーナル』は50年代半ばごろまでは、まだまだ広告掲載の少ない媒体だったが、この1956年あたりからジャズ喫茶の出稿数が増え、ジャズ喫茶が同誌にとって有力な広告主になってくる(その後、同誌の有力広告主はオーディオメーカーやレコード会社にシフトされていくのだが)。おそらく発言力が増してきた広告主からの要請に応えてこのような企画が生まれたのだろう。

1950年代のジャズ喫茶の様子がよくわかるたいへん興味深い資料であり、また面白い内容なので、長くなってしまうがこの8軒の紹介記事全文を以下に抜粋する。本文表記は原文のママ。また改行なしの体裁も元記事のママ。電話番号は古いものなので削除した。

まずはリード文から。

このごろの喫茶店で、レコード演奏をしている店ならジャズはたいてい聴くことができる。だが、本格的に純粋のジャズを専門的に聴かせる店は意外に少ない。たいていはポピュラーと混合している。また、レコードは相当集めていても音が悪い店もある。以下はそう云つた意味でレコードや音に力を入れている店のレポートである。

以下本文。

ダット 新宿東口柳街

地階、一階、中二階、二階と都合四階まで突き抜けの豪華な店で二階にスピーカーのステージが設けられてある。ピック・アップがジェネラル・エレクトリックで、アンプがウイリアムスン。スピーカーがチュニイのシステムだから音の悪かろう筈がない。レコードは大体モダーンものを揃えて一般にはモダーンを聴く店として知られていたが、何しろ広い店で客の収容力が大きいために、客層も範囲が広く、したがつて、客の好みもまちまちというところから、それらの要望にも応ずるためにポピュラーものも揃えるようになつた。しかし大体の基準はモダーンに置いてあり、最近ではラルフ・バーンズのジャズ・スタジオ第五集や、コンテンポラリーミュージック、コンサートのモダーン・ジャズ・ソサイエティで、スタン・ゲッツやJ.J.ジョンソンなどのいいところを聴かしてくれる。こうした大きい構えの店でジャズを聴くのは、なかなかむずかしいものだが、この店などはその点でも優秀なものである。

 

ドッツ 新宿・スケートリンク隣

小じんまりした店だが、この店によくマッチした音質でレコードを聴かせてくれる。静かにジャズを楽しむには好感がもてる店だ。レコードの殆どがモダーン・ジャズで、お客さんがリクエストするのもたいていモダーンものばかりらしい。店の雰囲気からしてここではディキシーやスウィングは似合わないかもしれない。マスターがギター好きで、それもバニー・ケッセルのファンだから、ケッセルのものは大分集めている。スケート・リンクがすぐそばなのでスケート・シーズンになると滑る前後に立ち寄る人が多いそうである。考えてみると、スケートもリズムに乗って滑るものだし、ジャズもリズムのもので、そこに何か関連性があるらしいとみるのは筆者のこじつけだろうか。ともかく、そんな人々が熱心に、この店でジャズを楽しんでいる。アンプが山水製で、ピックアップがニートのものと、純国産で通しているのに、それが店の構造と大きさにピッタリしているので、非常に聴き良い。国産品の良さも改めて認識できようというものである。

 

デュエット 渋谷・大映前入る

この店の部厚いレコード・リストを開いてみて、まず第一に驚くことは、モダーン・ジャズが実に豊富なことである。モダーンの好きな人ならたいていリクエストに不自由はしない。B・Gなどのスウィングもないわけではないが、店の方針も大体モダーンを聴かせるつもりなのではなかろうか。二番目に驚いたことは、ここのレコード係のお嬢さんが実によくジャズを知つていることだ。何しろミルト・ジャクソンやデーブ・ブルーベックのファンだというのだから、相当高度のジャズ知識を身につけているらしい。マダムもなかなかジャズ通で、ジャズを聴きながら話を聞くのも面白い。ジャズの店としては非常に静かな雰囲気をもつており、いずれもおとなしく聴きいつている。手拍子足拍子をとつて聴いている光景は、この店では殆ど見られない。だからモダーンを勉強しながら聴こうという人などには、うつてつけの店である。渋谷は東京有数の盛り場なのでジャズ専門の喫茶店が多いと思つたら案外少なくて、貴重な存在の一つなのである。

 

スイング 渋谷・百軒店

一歩店へはいつたトタン、凄いボリュームの、しかも実に素晴らしい音にまず胆をつぶす。そして中の客は全くジャズに陶酔しきつている。それはもはやジャズを聞いているなんてものではなく、ジャズに溶けこんでいるといつていいだろう。それをマスターが実に嬉しそうに見ている。東京一のサウンドシステムとマスターが自慢するだけあつて、ちょつと他ではこれだけの音が聞けない。メインアンプが米国のヒースキット、プリアンプが英国のスコット、出力20Wというのだからボリュームの凄さは当然。スピーカーがアルテック・ランシングの15吋とゼンセンの12吋だから文字通り高忠実度の音を出す。喫茶店と云つても八〇%以上はジャズを聴くために集る人々でいつも繁盛している。既にサンデー毎日や東京新聞にも話題になつた。ディキシーからモダーンまで、殆どリクエストの絶え間がない。休暇で帰省した学生のファンから聞いて、地方の人がわざわざ来るという程の店だから、ジャズ・レコードを楽しむ人なら是非奨めたい。毎月ディキシーとモダーンのコンサートを各一回宛開催して、その月の新譜を紹介している。

 

ジャン 神田・神保町2町目

店にはいると、新劇の舞台装置のような設計にまず眼を奪われるだろう。しかも壁にまで音の反響を考えてある。レコードはやはりモダーンが多いけれど、ディキシーやスウィングもなかなかいいものがる。音楽の方も、店の構造もマスターの趣味が強く影響しているらしい。つまりそれだけ良心的に自分も楽しみ、お客さんにも楽しんでもらうというのが信条だそうだ。マスターもマダムも純粋のジャズ・ファンで、それもディキシーから始まつて、現在はモダーンに至つたというものだから、相当年期のはいつた堅実な趣味といえよう。その自分の趣味を店に生かしているのだから、客にとつてはずいぶんプラスになるわけだ。比較的小さい店なのだが、マスターの趣味で設計したため、極めて、合理的に作られており、階上のスピーカーから階下まで流れるリズムが非常にいい音に聴こえる。スピーカーもアンプも、国産のパイオニアを使つていて、音響を考えて設計したためか、外国品に劣らない音を出している。マダムの好きなのがシンガーのクリス・コーナーというのだから、モダーンでも高度のもので、レコードの程度を想像する参考までに書き添える次第。

 

かぶーす 高円寺北口庚申通り左入る

国鉄中央線の沿線で、新宿から先の方にも、近頃はジャズを聴かせる店が多くなった。中央線は東京でも文化的地帯とされているところから、ジャズ・ファンの耳もなかなか肥えている。そういう地帯でこの店は非常に音が良いので評判をとっている。マスターがエンジニアである関係上、音質に対してひどく神経質で、機械を始終向上させるために改善を重ね、現在のような優秀な音を聴かせるようになつた。開店したのが四年程前、この沿線での先覚的存在でもある。レコードは六百枚を数えるほどで、ディキシーあり、スウィングあり、モダーンあり、最近は客の要請に応じてポピュラーものも揃えるようになつた。店の雰囲気が非常に落ちついているのでアベックの客なども多く、純粋にジャズを楽しむ客の他に、雰囲気を楽しむ客もあるわけで、その人たちの要望にこたえたものなのだろう。現在使用しているのは20球広帯域高忠実度という素晴らしい機械で、その他にも2A3 AB・PP12球だとか、ウイリアムソンの14球とか、むしろぜいたくと思われるほど音響装置には気を配っている。わざわざ遠くから聴きに来るファンもあるとか。ミッドナイト・サンズのトラムペッター福原彰さんなども常連の店だ。

 

L・P 神田・三崎町電停前

店は小さいが、レコードはすばらしくいいものを集めている。最近音響装置を改造してからは、音質も非常によくなつた。日本大学が近いので、学生のジャズ・ファンがいつも熱心に聴いている。大体モダーンを主体にしているのは、この店のレコードも音響装置もモダーン派の評論家・福田一郎氏が熱心に指導しているからなのだろう。毎月2回福田氏の解説でレコード・コンサートを催している。まずモダーンを聞くには、トップ・レベルの店といつてさしつかえない。新譜のいいところでは、ビル・パーキンスとバッド・シャンクのもの、クリフォード・ブラウンとマックス・ローチのもの、スタン・ゲッツ・クインテットの第3集や、ジャズ・メッセンジャーの第2集などと、非常に楽しめるレコードがはいつている。これらのものから想像しても、非常に高度なレコードを集めていることが判るだろう。レコード・リストが全部ジャケットを写真にとつてアルバムにしてあるなど、なかなかアカ抜けたセンスを持つた店でもある。

 

ユタカ珈琲店 京橋3丁目4

マスターが戦前からジャズ喫茶を経営していた人だけに、ジャズに対する造詣が実に深い。マスターの持論の一端を紹介するならば、「近頃はモダーンがはやるからといって、いきなりモダーンに飛びこむ人があるがやはりジャズを本当に研究したいと思つたら、ディキシーから聴き始めるべきだろう」と云う。まことに我が意を得た論で、嬉しい限りである。そうかといつて何でもかんでもこの持論をひけらかすような人物でもない。壁には大きなボールドがかかつていて、新譜の紹介と簡単な解説がマスターの手で書かれてある。いわばちょっとしたジャズ学校である。だからおよそジャズあれば、ディキシー、スウィング、モダーンと何でも一応揃つている。戦後ジャズ喫茶として東京の第一号であるだけに、以来集めたレコードの数は厖大なもの。お客さんが楽しそうにマスターとジャズ論を語り合っている光景なども時々見られて、客と店がピッタリ呼吸が合っているのも気持がいい。

ここに取り上げられているジャズ喫茶の中で現在も営業をしている店は一軒もない。

前出『東京下町JAZZ通り』の林氏によると、神保町「ジャン」のオーナー夫婦は、この店を閉じた後、赤坂の高級フレンチ料理店「ラ・ク口ワゼット」を経営していたという。またオーナー夫婦の息子は、カーター大統領が来店したことでも知られる六本木の「串八」をいまも経営しているようだ。

京橋「ユタカ珈琲店」については、この店が「戦後ジャズ喫茶として東京の第一号」とはっきりと書かれあるところが興味深い。

のちの『スイングジャーナル』1961年11月号掲載の鼎談「マスター大いに語る ジャズ喫茶は花ざかり」において、永井豊店主が昭和20年8月20日にジャズ喫茶の営業を再開したというコメントをして出席者たちを驚かせているが、どうやら同店を東京の戦後の復活ジャズ喫茶第一号としてほぼ間違いはないようだ。

渋谷「スイング」は、1951年に開業した「銀座スイング」の姉妹店だったが、1957年ごろに銀座店が閉店となったため、むしろこの渋谷店のほうがジャズ喫茶ファンにはよく知られた存在だ。この渋谷店も1997年に閉店した。2014年、渋谷・神山町に「渋谷SWING」という名のジャズ喫茶が開店したが、この店とは直接の関係はない。ただオーナーによると、開店にあたって元店主のご遺族には店名使用の挨拶をしたという。

渋谷「デュエット」は、蔵原惟繕監督の映画『狂熱の季節』でも登場するなどの人気店だったが、この記事が出た年の前年、早世の天才ジャズピアニスト守安祥太郎が目黒駅構内で飛び込み自殺する直前に立ち寄った店としても知られている。

この記事にはジャズに詳しい「レコード係のお嬢さん」が出てくるが、守安の死の一因として「デュエット」のウェイトレスとの恋愛沙汰が憶測されていることもあり、もしかしたらこのお嬢さんがという下世話な興味もつい湧いてきてしまう。

また、「ジャズの店としては非常に静かな雰囲気をもつており、いずれもおとなしく聴きいつている。手拍子足拍子をとつて聴いている光景は、この店では殆ど見られない。」とあるように、50年代のジャズ喫茶は、60年代以降の会話厳禁が当然のジャズ道場のような雰囲気の店はまだ少なかったことがこの記事からうかがえる。

 

(次のページへ続く)

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